花は木犀、人は君
 ある日の帰り道のことでした。僕がいつも通る古びた住宅街を歩いていると、ふと足元に蹴りやすそうな石ころが一つありました。僕はなんとなその気になって、えいっと石ころを蹴ると、その石ころは、こつん、こつん、と変な方向へ跳ねて、普段は入らない細い路地へ入っていきました。すると一瞬、路地の方からか、ふわりと甘く優しい香りがしました。僕は不思議な気持ちになってその路地を覗きました。
 すると、そこにはクリーム色のワンピースを着た髪の長い女の子が、一人佇んでいます。目が合うと、その女の子は僕に挨拶をしました。
「こんにちは。」
 僕は急に声をかけられたことに戸惑って、ろくに挨拶もせず、逃げるようにしてその場から立ち去りました。

 その次の日だったでしょうか。
「こんにちは。」
 ふわりとした香りと共に、そう声を掛けられました。僕はすぐに、その香りが昨日のものだと気づきました。
 見ると昨日の女の子が、あの路地の入口で小さくしゃがんでいます。
「昨日もあったね。」
 彼女は上目遣いで、じっとこちらを見つめました。それから彼女は視線を僕の手元に移動させて言いました。
「それ、何?」
 ちょうどその時、僕は手提げ袋を持っていて、その中には学校の図書館で借りた本が入っていました。
「本。」
「へえ、どんな?」
 彼女は興味津々です。
「見る?」
 そう僕が尋ねると彼女は、
「うん。」
 と、少しはにかんで頷きました。
 僕らは路地にあった空き家の、裏口の段差に腰かけて一緒に絵本を読みました。彼女はとても楽しかったらしく、また見せてほしいと頼まれたので二人で指切りげんまんをしました。
 その帰り際に、僕たちは互いの自己紹介をしました。彼女はセイちゃんというそうです。
「ケンタくん、またね。」
 彼女にそう見送られて、その日は帰りました。
 それから僕らは一緒に本を読むようになりました。ある日はまちがい探し、ある日は怖い話、植物図鑑を見た日には、
「このお花、この木に咲くんだよ。」
 そう言って自分たちの頭上にある、空き家の塀から覗いた小高い木を指さして、その花についてたくさん話してくれました。

 彼女と出会ってしばらく経ったある日のこと、僕はいつものように彼女のいる路地へ向かっていました。
 彼女は路地の入口で僕を待っていて、明るい声で、こんにちは、と挨拶をしてくれました。が、すぐに怪訝そうな顔をして言いました。
「元気ないね。」
 彼女の言ったことは図星でした。初めは大人ぶって何でもないふりをしようとしましたが、彼女の少し困った顔を見て、自分の心の内を明かすことにしました。

「学校でもうすぐ運動会があるんだ。それでおれ、リレーのアンカーになったんだけど、練習の時にもうちょっとで勝てない友達がいて、それが悔しいんだ。今日も抜かせなった。」
「そうなんだ。」
 そう短く返事をすると彼女はぼうっと空を見上げてから僕に言いました。
「悔しいのはケンタくんが頑張っているからだよ。だから大丈夫。」
 彼女のその言葉はとても優しくて、僕の沈んだ心が軽くなっていくようでした。
 そのあと彼女の提案で、僕らは走る練習をしました。彼女と走り回るのはとても楽しくて、どこまでも走っていけるような、そんな気がしました。

 その数日後、僕は伝えたいことがあって、彼女が待ついつもの路地へ早足で向かっていました。そして僕は彼女を見つけるや否や、叫ぶようにして言いました。
「聞いて。おれ、今日のリレーの練習で一番にゴールしたんだ!」
 彼女は最初、少し驚いた表情をしていましたがそのあと、やったあ、と言ってまるで自分のことのように喜んでくれました。
「私も聞いてほしいことがあるの。ほら、今日やっとこのお花が咲いたの。」
 僕が見上げると、いつか彼女が教えてくれた小高い木に、小さな橙の花が無数に咲いていました。それに気づいた瞬間、急に甘く強い香りが辺り一面に広がりました。
「いい匂いでしょ。」
 そう言って、にっ、と歯を見せて笑う彼女に僕は、うん、と力強く頷きました。それから僕は深呼吸をしました。実は僕にはもう一つ、彼女に伝えたいことがあったのです。
「あのさ。」
「なあに?」
「運動会、見に来てほしいんだ。」
 僕は思い切って言いました。その時僕は、一世一代の告白をしたような気分でした。彼女は俯いて少し黙りました。どうやら返事を考えていたようで、彼女はおもむろに顔を上げると申し訳なさそうにこう言いました。
「行けたらね。」
 彼女は遠回しに、行けない、そう言ったのだと子供ながらに思いました。僕は彼女が運動会に来れない理由を聞きました。しかしどれだけ尋ねても、彼女は口を濁すばかりでした。
 僕はその時初めて、彼女が一体どういう人物なのか気になりました。今思えば不思議なことで、あんなに仲の良かった彼女のことを、例えば歳だとか、どこの小学校に通っているだとか、そういったことを、僕は全く知らないままだったのです。

 運動会当日になってもやはり会場に彼女の姿は見当たらなくて、結局、彼女が来ないまま運動会は終わってしまいました。
 そして、後片付けも済み、友達と帰りの支度をしているときでした。外を見ると灰色の太った雲が向こうの空まで続いています。
「夕方から雨降るって天気予報で言ってたよ。」
 そう言われて僕はふと彼女のことを思い出しました。僕はなんだか嫌な予感がして、友達と別れた後、急いで彼女のいる路地へ走りました。アスファルトの濡れた匂いが僕にまとわりついてきます。僕はそれを振り切るようにして走りました。
 そしてようやくいつもの路地にたどり着くと―。

 彼女はあの木の下で立ち尽くしていました。黒いアスファルトの上には、彼女が大好きな橙の、か弱い花たちがばらばらと散らばっています。そして、ふわりと揺れていた髪も、風に踊ったワンピースも全て雨に濡れてぐちゃぐちゃになっていました。そしてようやく僕と目が合うと、彼女の凝り固まった頬が一気に崩れて、その上をぼろぼろと涙が落ち始めたのでした。
 僕は急いで彼女を自分の狭い折りたたみ傘の中に入れてあげました。僕は彼女になにがあったのか尋ねましたが、彼女は溢れる涙を拭うことで精一杯で、何も答えてくれませんでした。その様子が、真実を僕に話すことを拒んでいるようにも見えて、僕は彼女が泣いている理由が何なのか分かったような、分からないような、そんな気がしました。僕は彼女にどう声を掛けてあげたらいいのか分からなくて、しばらく沈黙していました。
 困った僕は今日の運動会について話すことにしました。玉入れや綱引き、応援合戦、そして、言おうか迷いましたが、リレーのことも話すことにしました。
「おれさ、リレー、勝てなかった。」
 僕がぼそりと言うと彼女は、はっとした様子で僕を見ました。
「最初はおれの方が速かったのに、抜かされた。やっぱりこの前に勝てたのはまぐれだったんだ。」
「でもリレーは一人でするものじゃないし、ケンタくんのせいじゃなくて」
「違うよ、リレーの勝ち負けじゃないんだ。おれが言いたいのは、そういうことじゃないんだ。」
 僕は彼女の方を見れないでいました。
「観に行けなくてごめんなさい。」
 震える声で彼女がそんなことを言うので、僕は変に悔しい気持ちになって、ほんの少しだけ泣いてしまいました。

 僕はなかなか家に帰ろうとしませんでした。なぜか無性に彼女と離れてはいけない気がして、五時の音楽が鳴っても帰らないつもりでした。しかしそんな僕を心配してか、彼女から早く帰るように促されてしまい、僕は仕方なく帰ることにしました。
「元気でね。」
 帰り際に言った彼女の一言は、まるでこれ切り会えないような響きを帯びていて、僕は一気に恐くなりました。僕はその不安を無理やり拭うように、彼女に僕の折りたたみ傘を押し付けて帰ることにしました。
「雨が止んだらその傘、取りに来るから。」
 と一言付け加えて。
 またね、セイちゃん、と手を振る僕に、彼女は悲しそうな顔をしていました。その日、僕は雨に打たれながら帰ったせいで次の日に熱を出してしまいました。僕は家で寝込んでいる間もずっと、彼女のことを考えていました。

 熱が引くと僕はいつものように学校へ行きました。たくさん友達が心配してくれましたが、僕の気がかりは自分体調でも授業のことでもなく、彼女のことでした。学校が終わると僕は飛び出すようにしてあの路地に向かいました。
 僕は彼女に会いたくてたまりませんでした。いつものように彼女が優しく迎えてくれることを信じて、僕は走りました。
 しかし、願いは脆くも崩れ去りました。誰一人としてそこにはいなかったのです。彼女の好きな橙の花は、彼女と最後に会ったあの日のままアスファルトの上に散らばっていて、いつも漂っていたあの甘くて優しい香りの代わりに、雨上がりの匂いがほんのりとそこに立ち込めているのでした。
 それからというもの、彼女はめっきり姿を見せなくなりました。
 雪が解けて、桜が散って、ひぐらしが鳴き止んで、再びあの橙の花が咲き始めても、彼女が姿を現すことはありませんでした。それでも皮肉なことに、秋は巡り巡って色づいて、季節は毎年香るので、僕は彼女のことをずっと忘れられないままなのでした。

 気付けば僕は大人になって、家庭を築き、今では休日に一人息子と散歩に出かけることが楽しみとなりました。
 その日は小学校付近を散策しました。もちろん、かつて彼女と出会ったあの路地の前も通ります。橙の花が咲いたあの空き家には表札が掛かっており、今は誰かが住んでいるようです。
「お父さん、この道、とてもいいにおいがするよ。」
 息子が声高らかにそう言いました。
「本当だね。どこから香ってくるのかな。」
 僕は橙の花のことを知らないふりをして言いました。
「ううんとね。あ、こっちからにおいがするよ。」
 小さな探偵の気分になった息子が、こっちだ、こっちだ、と僕の手を引きます。僕と息子は香りのする路地に入っていこうとました。すると息子が突然に足を止めました。不思議に思った僕は顔を上げ、路地の奥を見ました。あの甘い香りがふわりと肌を掠めます。
 そこにはクリーム色のワンピースに、柔らかそうな長い髪の女の子が、塀の向こうから顔を出す花の木を見つめて立っていました。その木には小さな橙の花が無数に咲いていて、それを見ているようです。昔の記憶と重なって僕は思わず、あっ、と声を出しました。それで僕らの存在に気が付いた女の子は、少し戸惑って、もじもじしながらぺこりとこちらに会釈をしました。それを見て僕も「こんにちは。」と挨拶をしました。
 その内気な雰囲気の女の子は、僕がかつてあった快活な彼女とはやはり違ったけれど、時を経てやっと再会できたような、そんな気分になりました。
 ふいに、ズボンをくいっと引っ張られました。息子が、恐らくその女の子にどういった態度を取ればいいのか分からず、僕に助けを求めているようです。ぼくはいじらしい気持ちになって、ウブな息子に少し意地悪をしたくなりました。
「ほら、挨拶してごらん。」
 僕がそういうと息子はおずおずと、こんにちは、と挨拶をしました。女の子は少し強張りつつも、少し緊張が解けたような表情をしました。
「いい香りだね。」
 そう僕が言うと、彼女は、うん、と頷きました。すると今度は息子が、
「なんていう花?」
 と彼女に尋ねました。
 彼女は少し舌ったらずで、しかしはっきりとその花の名を口にしました。
「金木犀。」
 懐かしい響きだ、と思いました。
 僕が幼い頃を思い出して呆けていると、その横で息子が小さく「キンモクセイ。」と呟いた声が聞こえました。その声が聞こえていたのかどうかは分からないけれど、女の子はその時確かに、ふわり、と甘い金木犀の香りと共に微笑んだのでした。
ナカトノ マイ
2018年10月28日(日) 00時47分01秒 公開
■この作品の著作権はナカトノ マイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ずっと燻っていた物語なのでようやく世に出せて嬉しいです。金木犀が好きです。

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No.2  ナカトノ マイ  評価:--点  ■2018-11-12 18:14  ID:FBK3zXcLems
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えんがわさんへ
草稿が出来上がった時点では、自分に酔っているような印象を受ける文だったので、とにかく無駄なものを消して客観的に読める文章にしようとしたところ今の文章になりました。それが淡々としてしまった原因だと思います。
歯切れの悪さというのも、謎を残すような物語の綴り方のことでしたら、私が故意にそう書いたのですが、あまりにも分からないことだらけでも良くないかも知れませんね。
全体的に柔らかい雰囲気の物語にしたかったのでそこを感じ取っていただけたなら幸いです。
ご指摘を受けて、たくさん課題点が見つかりました。ありがとうございます。
No.1  えんがわ  評価:30点  ■2018-11-04 17:42  ID:a51xQE8gcgc
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童話のような柔らかいお話でした。

それ故に歯切れの悪さというか単調さを少し感じるのですが、
作中の表現を借りると、本作もまた「ふわりと甘く優しい香りがしました。」

少し遠くから見ているような、運動会やすれ違いの痛さや息遣いを余り感じない遠さを感じます。その遠さも、踏み込まないで遠くから見守っているような父性、母性の優しさなのかもしれません。
と、なにか文の奥に大きな何かの、大げさに言うと登場人物らを守護しているような、そんな存在が浮かんできました。

となんだか感想というより妄想が入っちゃいました。すんません。
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