或る片想いの話

 青葉風がそよぐ町の外れに、その店はある。
 レトロな内装に、ジャズの音色が響くそこは、人間達にとって日常の疲労を束の間忘れられる安息の場のようだった。
 私が窓からいわゆる『人間観察』をすることの楽しみを覚えた翌月のこと、彼女が現れた。
 淡い黄色の羽根飾りに、朱色の頬紅をさした彼女は、店に来た初め、ひどく怯えていた。私は例によって人間観察をしながら、今日はさほど面白いのがいないなぁと欠伸を噛み殺していた。
 彼女は忙しなく辺りを見回して、見知らぬ客に話しかけられては、苺色の頬をさらに赤らめて、あたふたとご主人に助けを求めていた。ご主人が彼女を慰め、苦笑交じりに他の客へ事情を説いていた。
 それによると、彼女はご主人の家の娘で、普段は留守番をしているのだが、あんまり一人にさせておくのも寂しかろうと、今日から店に居させることにしたのだという。
 私からすれば、明らかに人見知りであろう彼女を、人の出入りの多い店に置くのは如何やらと思わざるを得ないのだが、それもご主人の考えのうちなのかもしれないと、成り行きを見守ることにした。
 人見知りには、荒療治が必要なこともままある。
 それに、多くの人と接していくことが、彼女のような子にとって、とても有益な結果を生むことを、私は経験上知っていた。
 愛くるしい姿に、可憐な声。彼女はたちまち人気者となり、それに伴って『持病』の人見知りも徐々に和らいでいった。
 彼女はいろいろな客と話し、いろいろなことを学んだ。店に来る時と帰る時以外、外出など一切しない子ではあったが、新しいことは皆客が教えてくれていたし、優しいご主人夫婦にも愛されて、本当に幸福そうに育っていった。
 客足が少ない時、彼女は私にも話しかけていた。
「ねぇ、どうして貴方は外にいるの」
 私は彼女に、エジプトの王墓に眠る財宝のことや、広大な運河を照らす朝日のこと、真っ白な瀑布や熱気溢れる南国の町のことを話して聞かせた。
 どんなことを話しても、彼女は屈託なく笑い、目を輝かせ、上等な鈴の声で相槌を打っていた。普段誰かに旅の話をする機会のない私にとっても、それは新鮮で楽しい時間だった。
 暇さえあれば、私達は互いに言葉を交わし合った。好物のこと、店のこと、ご主人が密かに練習しているサックスがどうにも下手なこと。すべてが私の、私と彼女の繋がりを紡ぐ糸となっていった。
 そうなれば当然とも言うべきか――別れがつらくなることは、彼女と初めて話した日から、わかっていた。

 ある秋の夕、私は彼女に出立の旨を告げた。
「旅に出るよ」
 どこへとも、なんのためともなく、ただ旅に出ることだけ伝えた。頬を柘榴石のようにして、彼女が「嫌です」と言うことも、薄々わかっていた。
「また帰ってくるから」
「嫌、おやめになって。貴方がいなくなったら、一体誰があんな素敵なお話をしてくださるの」
「私がいなくとも、きみの周りの人達がいろんなことを話してくれるさ」
「でも」
「ご主人のことも奥さんのことも、ここのお客さんのことも、きみは大好きだろう?」
「ええ勿論。でも貴方はいないの」
「きみの大事な人達が、私以上にきみのことを愛してくれるだろうさ」
 また帰ってくる、その時は新しい話を沢山、きみが飽きるほど抱えてくるから。
 結局彼女に一度も承知されないまま、私は国を発った。山を越え海を越え、砂漠を越え瀑布を越え、他の旅人達とともに、遙か遠い南国で、半年の間を過ごした。
 その間、私の心臓をつついていたのは、彼女に対する後ろめたさと恋情、頭蓋に響いていたのはあの可憐な声ばかりだった。
 一刻も早く、彼女に会いたい。会って、謝って、土産話に笑うあの頬を見つめたい。
 想えば想うほど南国の風は熱く、一日は酷なほど永遠に私を焦がしていた。

 長い長い六月が経って、私は他の旅行者より一足先に飛び出した。
 行きしな、後ろ髪を引くように目に纏わりついていた景色の中を、焦燥を抑えていくのは容易でなかったが、彼女への気持ちのが勝っていた。
 会いたい、ただそれだけの感情に、ここまで突き動かされることがあるなど、思ってもいなかった。それも、自分とは貌も言葉も身分も異なる、若すぎる少女相手に。
「お急ぎですか、旅の方」
「まあね」
「焦りは禁物ですぞ。好奇心は猫を殺し、恋情は鳥を撃ち落としましょう」
「心しておこう」
 道中、こんな冷やかしを口にする輩もいたが、気にしてはいられなかった。
 ……忠告は時に真実を連れてくる。私が耳を貸さなかったことも、ある種の因果であったのかもしれない。

 ようやくとたどり着いた島国は、すでに桜の蕾が開き、芳しい彩りで満たされていた。
 毎年と同じ、春。
 しかし此度は、よりいっそう艶やかに見える。
 私は旅の疲れを癒やす間も惜しく、彼女のいる店へ足を向けた。兎にも角にも彼女に会い、土産話を聞かせてやりたかった。
 例の店は、変わらず町の外れにあり、地元民の変わらない顔ぶれが銘々に談笑していた。いつものように窓ガラスを覗き込んで、私は彼女の姿が見えないことに気づいた。
 毎日のように彼女がいた窓辺の椅子は空っぽで、カウンター横にもフロアの真ん中にも、彼女はいなかった。
 不安が、墨のように滲んだ。
 焦燥、旅中抑えつけていた一抹の感情が鎌首をもたげる。様々な妄想が黴臭さに似た不愉快を連れて、私の耳は窓越しに客達の声を捉えた。
「店長、やっぱり寂しいね」
「あの子がいないってのは」
「元気だったのに、なんだって、死んじまったのかね」
「あの可愛い声が聞けなくなって、もう一月経つのね」

 私の中に、稲妻が走った。
 疾風の如く心臓を貫き、脳を焦がし、震える喉が醜悪な獣のように咆哮した。
 嗚呼、――なんということだ。何故だ、何故に彼女は――

 死、という現実が黒い口を開けて、私は足下から呑み込まれてゆくような感覚がした。
 どうやって宿へ戻ったかは、覚えていない。恥も外聞もなく、私は大口を開けて一晩を泣き明かした。

 翌朝から、私は何をするでもなく、ぼんやり空を見て過ごした。空蝉のような私を、同輩達は心配したりからかったりしながら、どこか不気味そうに眺めていた。しかし、私にとっては至極どうでもいいことで、喪失と同時に自分がこんなにも、年端もいかぬ少女に惚れ込んでいたことをむざむざと自覚させられているような気分に、余計に落ち込むばかりだった。
 私は彼女を喪った。
 否、初めから彼女は誰のものでもなかったのだ。強いて言うならあの店のご主人のもので、私が彼女に愛を告げたわけでもなく、彼女から私へ恋慕の歌が贈られたわけでもないのだ。
 私は初めて、自らの想いが一方通行のものであったことに気づいた。
 そうだ。私達の間には、友愛こそあったものの恋愛感情の確信はなかった。私が、私だけが、彼女に――
 私は飛び出した。
 いてもたってもいられなかった。得体の知れない黒と赤の粘ついた血液が、悲哀と羞恥に沸き立つままに、町中を駆け続けた。

 どれくらい、そうしていただろう。
 体の軋む音がして、私はふらりと地面に倒れ込んだ。強かに打ちつけた顔の痛みも鈍いほど、身も心も疲弊していたが、心臓は未だ錆びついたブリキのようにしぶとく動いていた。
 ちょうどどこかの軒先で、青かった空は濃い紫の雲を帯びていた。窓から幽かに、聞き覚えのある話し声がした。そこは、あの喫茶店の裏側だった。
「今日は暑かったね」
 低く柔らかなご主人の声が、誰かにそんなことを言った。
「そうですね」
「あの子がうちへ来たのも、こんな日だったね」
「ええ。貴方が突然、今日からうちの子になるんだ、って。すごくびっくりしたわ」
「でも、いい子だったろう?」
「ええ。とても。綺麗で歌が上手で、店の皆にも愛されて。天使みたいだったわ。……今も、ちょっと信じられないの。病気も何もしてなかったのに、どうして急に、死んでしまったのか」
「ああ、それなんだけど――」
 ご主人が言葉を切って、私は萎びた首を持ち上げた。重要なことが明らかになろうとしている、私の知らない彼女のことが。頸椎がギシリと鳴って、頭痛がしたが私は無視をした。
「あの子、ここに来てからよく窓の外を眺めていたろう」
「ええ、そういえば」
「聞いたことのない声で喋ってもいた。一度気になって、窓を覗き込んだことがあるんだ。……何をしていたと思う?」
「さあ」

「あの子、窓の外のツバメと話していたんだ。とても楽しげに」

 心臓がドクリ、と跳ねた。
 ご主人の声はまるで甘い刃物のように、肋骨を刺し続ける。
「あの子の元気がなくなってきたのは、夏が終わって秋が深まってくる頃だったろう。ツバメが南へ旅立つ頃だ。こんな言い方は妙かもしれないが――僕は、あの子はそのツバメ君に恋をしていたのではないかと思うんだ。好きな相手がいなくなって、寂しくて寂しくて、それで。
 ……オカメインコは寂しがり屋って、前に話したよね」

 目眩が、した。
 鉄の弦で締めつけられるような強烈な痛みに、私は呻いていた。
 なんということだ。なんという――
 私達は、両思いながらの一方通行を続けていた。どこかで交えることを願いながら、短い夏の随の友愛と思い込んで、気持ちを言葉にすることをしなかった。
 もしか、告げていれば彼女は死ななかったのではないか。約束に感情を添えて、次の春への期待へ笑いかけていれば。――他者へ転嫁するのではなく。
 いや、そんなことは最早関係ない。後の祭りだ。
「あの子は僕らより、彼に惚れていたのか、って。――こう考えたら、ちょっと悔しいというか、運命って残酷だなって、さ」

 ご主人が言い終わらないうちに、私は再び飛び上がった。痛い。痛くてたまらない。
 胸が、喉が、体のすべてが引きちぎれそうに悲鳴を上げていた。彼女への想い、記憶、透明な水に血が混じる。後悔、懺悔、表せない無残な感情達が、今にも体を突き破って溢れ出しそうだった。

 私が奪ったのだ。私から、ご主人から、そして彼女自身から『彼女』を。

 暮れきった漆黒の空は星が輝いて、いつかの国で見た天鵞絨の上の金剛石のようだった。金剛石は黒人の涙であるという。ならばこの星空は、流れない私の涙の代わりにはならないだろうか。
 ひゅ、と何かがすれ違った。
 突風、飛行機だとわかった時には手遅れだった。翼の折れる音がして、煽られた形のまま、私の体は飛ぶのをやめた。
 夜空が反転する。
 飛び上がる何倍もの速度で急降下してゆく。寒い。七色の星が氷の礫となって、私の脳裏を射抜いてゆく。
 彼女の瞳を思い出す。黒曜石のような、私の話を喜々として聴いていた。あの瞳の中を、今私は堕ちている。
 風が耳許で泣き叫ぶ。ひどい声だ。彼女の歌が聴きたい。美しく可憐な、優しい愛の歌がいい。

 羽根が散ってゆく、無様だった。だがそれでいいと思った。
 私のような矮小な生き物には、こんな死に様がちょうどいい。

 視界が眩んでゆく、星のない純黒の世界だ。風が遠ざかってゆく。堕ちているのか昇っているのか、寒さも暑さも、わからない。

 歌が聞こえる。彼女の歌だ。
 甘く可憐な彼女の言葉。小首を傾げるいつもの癖。
『次はどんなお話なの?』

 何を話そうか、南の鮮やかな花畑の話をしようか。果てしなく青い水平線の話をしようか。
 沢山、沢山、話があるんだ。
 だがまずは、私達の話をしよう。

『愛してるよ。今までも、そしてこれからも』

 見えない彼女の赤い頬が、ふわり笑って、消えた。

時雨ノ宮 蜉蝣丸
2017年08月24日(木) 04時16分43秒 公開
■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
久しく小説を投稿させていただきます。
オカメインコは寂しがり屋で大人しく、歌が上手な子が多いそうです。
以前携帯でメモしていた短編です。細かいところまで配慮できてないのはいつものこと。

読んでくださった方に感謝致します。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2017-09-24 02:57  ID:dHhztmr0yyA
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みんけあ 様

コメント感謝致します。返事が遅れてしまい申し訳ありません。
騙されていただけて嬉しいです(笑)
全体的に、彼と彼女の一方通行(という彼の思い込み)を書きたかったので、愛し合ってしまうと意思が通じて趣旨が崩れる気がしました。悲惨な感じもあるのですが、彼が『大人であることを鼻にかけた』結果の『滑稽さ』を少々入れたかったのです。

ありがとうございました。
No.1  みんけあ  評価:40点  ■2017-09-18 01:09  ID:qUGSF4Qri.s
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拝読しました。
素直にだまされました。私の心臓も、ドクリと跳ねましたよ。
読み手の感情も表わすこの一文素敵過ぎます。
綺麗で切ないですね。
特にこれと言った事でもありませんが、最後の、
『愛してるよ。今までも、そしてこれからも』
が私的にはちょっとしっくりこないような気もします。彼と彼女が愛し合うシーンでもあればかなと。その後の苦渋の別れでもあればかなと思ったり。
総レス数 2  合計 40

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