終わりの終わり

製紙工場から薬液の臭いのする蒸気が漂ってくる。夜も休日も関係なしに工場は操業し、その臭いが途絶えたことはないし、蒸気のせいで晴れようとも薄暗い。
この町はそういう町である。


高校で、橘が怪物の噂を聞いたのは蒸気が特に濃い日のことだ。誰もが香水を染みこませたマスクをして、橘とその友達も薄荷のきついマスクをして屋上にいた。フェンス越しに工場の複雑なパイプラインを眺めていると、友達は、
「怪物が夜の港に出没する。白い布を羽織った6.7フィートの男か女で、工場の廃水に集まる魚を捕まえている」
「何が怪物なのだ?」
「頭がいくつもあるらしい。目撃談によると、胸、肩、腹に男や女、子供の顔がある。その顔同士で何かを話し、夜の港にひそひそと響くのだ」と友達は話すと、橘の耳に口を近づけて「その顔の一つが清水さんだというんだ。橘がずっと探している清水さんだ」
清水さん――清水凪砂は橘が思いを寄せている少女で、一月前に行方知れずとなった。
清水は半年前に帝都から越してきた。橘にとって彼女は初めて出会う人間だった。この町の住人は設計図でもあるかのように人生が決まっていた。長男であれば家業を継ぎ、そうでなければ製紙工場に就職する。子供の頃の夢が何であれ、高校生ともなれば現実を受けいれる。しかし、清水は違った。彼女は橘に、高校を卒業したら帝都の大学に進学し、詩人になるのだと話した。口だけなら幼いのだと橘は思うけれど、彼女は詩の賞をいくつも獲っているし、学業の成績もよい。
夢を諦めない清水のことを橘は尊敬していた。そのように強かな少女であるけれども、町での生活で困ると清水は橘のことを頼る。清水のそういうところが橘は愛おしく思えた。
「そうか」
と橘はようやく返事をし、隣の友達にふりかえった。誰もいない。背後で鉄の扉の閉まる音がした。蒸気が目に見えて濃くなっていた。友達は先に教室へ戻ったようだった。

橘は夜の港にいた。夜であっても船の出入りがあり、ガス燈が煌々と桟橋を照らしている。
怪物の目撃談があったのはそこから遠く、夜になれば幕を閉じたように暗い河口近く、工場の排水口がいくつも飛びだし、湯気とともに廃水を川に流す場所。川面に浮かぶほど魚が密集し、廃水を我先にとむさぼっている。川には板が掛けてあり、朝になると俸手振りがやってきて、町で売る魚を手で獲る。
橘はその排水口の近くに立っていた。廃水が川に落ちこむ音と魚のぶつかり合う音とがする。工場の生産設備の騒音がくぐもって聞こえる。
噂――最近死産が多いのは工業用紙を特別に頑丈にするために嬰児を溶かし混むからだとか、この数年虫を見なくなったのは工場を拡張する時に由縁も分からない淫祠を潰したからだとか――の怪談と目当ての怪物とは同じ空想かもしれない。橘はそれでも清水に再び会えるならと期待し、けれども誰もいない排水口を見ると、泡沫のように望みが消えるのを感じる。
橘は川辺に寄り、ぶよぶよとした魚に目を向けた。魚の目は白く濁っている。廃水だけで生きる魚は、獲物を獲るための目が退化していた。すでにモグラのように目のない魚もいる。ダーウィンの自然淘汰を橘は思いだした。環境に適した種が生き残る。町の人間とは違う清水が消えたのは? と橘は自問し、耳を塞いだ。水音や工場の騒音が遠のいても、頭の中の声は変わらない。詩人を夢見る清水凪砂はこの町では生きられない。橘は、そんなことない! と独り言をつぶやきそうになり、しかし、ひそひそ声が聞こえて――噂されているような男や女が話あう声がして、唾を飲みこんだ。
「知恵の実は電気だったんじゃないか?」
「感電したら頭がおかしくなる」
「そうだとも頭のなかには絶えず電気が流れている。科学だ」
声の種類はいくつもあるのに足音は一つ。怪物は一つの体に頭がいくつもあるという。その頭の一つが清水凪砂に似ているという。
「私は解剖実験で、首なしのカエルに電気を流すと足が動くのを見ました。電気は脳髄、魂の代替物だと思います」
橘は顔をあげた。いま聞こえた声は忘れることもない清水凪砂の声だ。
「魂なんて非科学的だ。測れるのかね? 重さはあるのかね? 有名な科学者が論文を出しているのかね?」
「見て、魚がいる。食べよう」と少年の声。
工場の排水口に寄りそうように7フィートはある大柄な人間が現れた。白く清潔な布を羽織っているが、その肩や腹が人の顔の形に膨らんでいる。橘は、
「凪砂さん?」
大柄の人間の右肩にある顔の形が震えて、
「隼人くん?」と右肩から橘の名前を呼ぶ声がして「ちょっと布をはだけさせて」
大柄な人間は白い布をめくった。布の下は裸で、いくつもの色の違う皮膚がパッチワークされていた。右は男の乳房で、左は女の乳房だった。右手は指先が油に汚れた技師の手で、けれども二の腕は白くたおやかだ。肩に女の顔が縫いつけられている。隼人がよく知る凪砂の顔だ。
「隼人くん!」と肩の女は――凪砂は破顔して「また会えるとは思っていなかった。嬉しい」
隼人は凪砂との再会に笑みを浮かべ、すぐに息を呑む。好きな人に会えた。でも、凪砂は顔だけになっていた。
「凪砂さん」
隼人はもう一度、彼女の名前を呼んだ。その声には混乱がにじむ。
「そうだよね、びっくりするよね」と凪砂は消沈して「私がこんな姿になっていて」
「嘘はつけません、だから」と隼人は目を伏せ、それから凪砂の目を見ると「でも、嬉しいのも本当です」
「ほんとうに?」
隼人は川に渡された板に乗ると、男か女かの怪物、その肩についた凪砂の頭の傍に移動した。怪物は色々な人間の部位をつなぎあわせて一つの体になっている。凪砂以外にもいくつもの顔が縫いつけてある。顔たちは耳をすませている。隼人は、凪砂との会話を聞かれるのが恥ずかしいけれど、それよりも凪砂と話したいと思った。やっと会えたのだから。
「凪砂さんの体は?」
「もうないわ」
「そんなことはないぞ」と腹についた中年の男の顔が口をはさんだ。左手を少年に、と続ける。凪砂の顔が悲痛にゆがむ。中年の顔は、早く、と促し、男か女の怪物は隼人に左手を差しだした。その左手は青白くて細く、隼人には見覚えがある。知っている凪砂の手と黒子の位置や指の細さが同じだ。橘はよく知っている。その指を撫でたこともある。図書館で、机を並べて二人はよく過ごしていた。凪砂は詩作と帝都の大学に入るための勉強で、隼人は彼女の傍にいたかったから。隼人は彼女の顔をノートに模写したり、あるいは参考書の頁をめくる左手を眺めたりした。その凪砂の左手に触れると、凪砂は驚くが、すぐに笑みをうかべ、隼人の手に指を絡めた。細く、しめやかで冷たい感触だった。その凪砂の左手が隼人の前に差しだされている。
「やめて」と凪砂は「その左手はもう私の手じゃない。魚を掴んで、ちぎって、口に運んでいる。箸もつかわない。生臭いし、血が染みている。涎の臭いがする」
中年の顔が反論する。
「それでも、これはお前の手だ」
「私の手だったものよ!」
「では、今のお前もお前だったもので、お前ではないということではないか。どうもあなたは科学的ではない」
中年の顔の非難に怪物の顔たちは息をのみ、凪砂は嗚咽をもらした。女は科学的な思考ができん、と中年の顔は悪態をついた。
隼人は凪砂の泣きそうな顔をはじめて見た。背丈や体は小さいのに力強く感じていた凪砂が子供のようだった。失うことに彼女はなれていないのかもしれない。諦めることになれていないのかもしれない。
隼人は、怪物に屈んでほしい、と頼んだ。怪物は片膝をつき、そうすると凪砂の顔が隼人の腰のあたりまで下がる。隼人は凪砂の顔を抱きかかえた。自分の胸に小さな凪砂の顔の形を感じる。凪砂は隼人に包まれると、堰を切ったように泣きだした。隼人は凪砂が幸せなら自分はどうなってもいいし、どんなことでもできると思っていた。その思いが固く結ばれるのを感じて、
「どうすれば、凪砂を助けられますか?」
「助ける!」と中年の顔が叫ぶと「どうして助かるのだ」
左肩についた老人の顔が冷めた声で「この頭にある頭以外の私たちは死んでいる。殺されたり、事故にあったりで」
「そうだ」と中年の顔は「俺は課長に殺された。この老人は濾紙工程で発作を起こして死んだ。お前の女も死んでいるぞ。この怪物のためだ」
隼人は怪物の顔を見た。その男か女かの怪物、その顔は体形に合わない子供の顔をしている。隼人よりもだいぶ年下で、目鼻がはっきりしない顔で、整っているから性別が分からない。中年の顔が、
「人間を機械のように、壊れた部分を交換したのだ。この少年が生きられるように。俺は、この少年の右手であり、その右手のために取りつけられた顔だ。他の顔も同じだ」
隼人は顔の一人ひとりに目を向けた。どの顔も否定しない。凪砂は隼人の腕のなかで、
「ほんとうのこと。私たちを手術した男は、この腕はそろそろ寿命だから変えようとか、そんなことを話しているから」
「そのとおりだ」と中年の顔は皮肉で笑うように右の口角を釣りあげると「私だった右手は、どうやら寿命らしい。私には見えないが、腐った箇所もあるし、動かない指もあるし、何より饐えた臭いがするらしい」
隼人は言われるがままに観察した。男か女の怪物の右腕は壊死した箇所がいくつもある。饐えた臭いは分からない。蒸気に染みついた悪臭のほうが酷いし、工場の廃水に群がる魚の腐った臭いが酷い。
隼人は胸にある凪砂の体温を感じる。涙の湿り気を感じる。誰とも知らない少年を生かすための部品に彼女がなったというが、分からない。納得なんて無理だ。強く凪砂のことを抱きしめ、
「なんて自分勝手な」と隼人がつぶやくと、それに反応して怪物は立ちあがる。怪物の顔――少年の顔は苦しむように眉をひそめている。言いたげに口を開くけれど、湿った息を吐きだすばかりだ。罪悪感があるのだ。けれども、少年を継ぎはぎの怪物にしたのは別の男で、自分が謝っても意味はないと思ったのだ。代わりの謝罪で、目の前の青年――隼人が納得するわけがない、と。
隼人は少年のその顔を見ると、何も考えずに話したことを後悔した。泣いている凪砂の顔を見ると唇を噛んだ。凪砂が大切だ、何よりも大切だ、と自分に言い聞かせ、遠ざかった凪砂の顔に、頬に手を伸ばした。泣きはらし、目元が赤い。隼人のことをじっと見返している。どうしたら、と隼人は思いながら凪砂の頬を流れる涙をぬぐった。
怪物が隼人から一歩はなれ、遠くを見つめた。隼人も釣られるように同じ方向に目を向けた。暗闇から白衣が浮びあがる。
それは白衣を着た男だ。その男の顔は怪物の顔に似ている。怪物が、もし年を取ることができるのならば、こんな男になるかもしれない。隼人はこの男が凪砂を手術し、怪物にした男だと悟った。白衣の男は怪物と隼人とに近づきながら、懐に手を差しいれた。
「遅いと思ったら、そういうことか」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。お前は何も悪いことをしていないよ」とその男は怪物に優しい。
白衣の男は懐から手をだした。薬液を充填した注射器を握っている。怪物の隣に立つと、隼人に目を向けた。隼人は、
「凪砂を元に戻してください!」
「なんのことだね?」
隼人は頭に血が昇るのを感じ、深呼吸をした。お前のせいで、と飛びかかり、殴り倒したくなる。けれど、それで凪砂が元に戻るわけでもない。
「課長」と中年の男は「右肩の少女のことだ」
白衣の男は隼人のことを一瞥すると、
「血縁者というには似ていないね。婚約者かね?」
「違う」
「他人か」
隼人は白衣の男に飛びかかる。それよりも速く白衣の男は注射器を隼人の胸に刺した。隼人は鋭い痛みを感じ、自分の胸に刺さった注射器から薬液が体に流しこまれるのを見た。強烈な吐き気に隼人は後すさった。怪物の右肩で、凪砂が悲鳴をあげた。
「なぜ叫ぶ。他人だろう?」
凪砂は叫ぶばかりだし、隼人は薬のせいで意識を失った。白衣の男の疑問に怪物の顔たちは黙っている。老人の顔が、
「課長にも分るでしょう」
「女のヒステリーは理解不能だ」
老人の顔はまぶたを閉じ、沈黙した。白衣の男は凪砂の泣く声にかまわず淡々と怪物の右手を、中年の男のものだった右手を検診した。
「そろそろ交換したいと思っていたから」と白衣の男は倒れた隼人を見て「これはちょうどいい資材だ」
白衣の男は隼人を引きずりながら来た道を戻る。怪物は白衣の男のあとに続いた、7フィート近い巨体であるが、父親の背に隠れる子供のように。

隼人は目を覚ました。薄暗かった。消毒液の匂いがした。薬液の悪臭はしない。最後の記憶は、白衣の男に注射を打たれた場面だ。病院に運ばれたのかもしれない、と隼人は思った。夢から覚めるように少しずつと意識が鮮明になる。凪砂との再会を思い出した。悲しみと喜びとが混ざった記憶だ。寝ぼけた頭だと、その感情を客観的に見つめることができた。凪砂は顔だけになっていて、怪物の右肩に縫いつけられている。助けたい、と思った。助けなくてはいけない。隼人は目が覚めるのを感じる。立ちあがろうとした。手も足も動かない。拘束されているのかと思った。そもそも痛みも痒みも何も感じないことに気づいた。
「何が起こったんだ」
「隼人くん」とかぼそい声で凪砂が返事をした。隼人の真横から聞こえた。けれど、隼人はふり向くことができない。不安が背筋に落ちる氷のように恐怖へと変わる。自分も凪砂と同じ、顔だけになったのかとしれない、と。怪物を生かすための部品になったのかもしれない、と。隼人は恐怖を否定したくて、
「凪砂さん。ここは病院ですよね」
凪砂の返事はない。その代わり、隼人の意思とは無関係に視界が動いた。隼人は見覚えのある中年の顔と技士の右手とを見た。青いプラスチックのゴミ箱に捨てられていた。視界は動きつづけ、姿見と向かいあった。鏡には怪物、それが椅子に座っている。その怪物の右肩には隼人と凪砂との顔が並んで、縫いつけてある。怪物の頭――少年の顔は、
「父さんに頼んで、二人が傍にいられるようにしました。せめてもの罪滅ぼしに」
隼人は絶望で目の前が暗くなるのを感じた。鏡に映る隣の凪砂も隼人と同じ表情をしている。白く青ざめた表情でお互いを見つめる。
ただ、隼人は絶望と同時に凪砂の傍にいられることを、自分勝手ではあるけれど、幸せに感じた。凪砂の夢は叶わない。凪砂が帝都に行くことはない。この町に隼人が残り、互いに疎遠になり、他人になる。友達でさえない。そうなる未来の悲しみや苦しみも訪れないのだ。隼人は自分が凪砂より後に手術されたことを考えると、先に自分が死ぬこともないと計算し、最期まで傍にいられるとも思った。その打算、その利己的な思考が鏡のなかの自分の顔に浮かび、隼人はそれに気づくと、恥ずかしくなった。そう考えたことを後悔する。凪砂は最後に沈んだ表情になった隼人を見つめ、
「隼人くんには生きていてほしかった」
隼人は反射的に、
「同じだよ。凪砂には生きて」と隼人は唾をのんで「帝都で詩人になってほしかった」
二人の沈んだ声を少年の顔は聞くと、あわてて、
「そんなことはない! 二人とも生きてるんだよ」
鏡に映る少年の目は据わっていた。凪砂と隼人とをどうにか勇気づけようと思考を回転させている。
「そう! できることは限られるけれど、凪砂さんも隼人さんも話すことができます。それにぼくは凪砂さんと隼人さんのお願いをたくさん聞きます!」
凪砂は少年の言葉に、ありがとう、と返し、小さく笑みを浮かべた。愛想笑いだと隼人には分かるけれど、少年の顔から緊張が抜けた。お二人のために頑張ります、と少年の顔は決意を固くした。
そうしていると手術室の扉が開き、白衣の男が入ってきた。診察しに来たのだ。隼人は視界に白衣の男が映ると、反射的に低い声で、
「お願いです。凪砂を元にもどしてください」
白衣の男は顔だけの隼人に目を向けず、診察の準備を進めながら、
「無理だね。きみもこの女も息子の大切な臓器だよ。それとも、きみは息子を殺したいのかね。なんて自分勝手なんだ」
「どっちが」
白衣の男は不快を隠さず、
「本来の機能を考えれば、舌も声帯も不要だ。いまから切除しよう」
「父さん」と少年の顔は「話し友達だから、そうしないで」
少年の顔がそう言うと、白衣の男の顔から不快感が消えた。彼は目元をほそめ、慈しむように少年の頭をなでる。
「お前には悪いことをした。でも、こうするしか治療する方法がなかった」
分かっています、と少年の顔が答える。白衣の男は少年と会話を続けながら手際よく怪物の体を診ていき、異常がないことを確かめると、
「もっといい方法を開発するからね。そうしたらお前は学校にも通えるし、ちゃんとした友達もできる。それまで、この顔たちで我慢してくれ」
隼人はその言葉に吐き気を覚えた。白衣の男は慈悲深い表情を浮かべているが、怪物――少年以外には残酷だ。白衣の男は踵をかえすと、足早に手術室を去った。
怪物はまた姿見の前に腰をおろした。手術室には怪物が一人、いまは少年の顔、老人の顔、凪砂、隼人の四人の顔がいる。四人は黙っていた。静かだった。手術室は製紙工場の隠された一室ではあるが、耳がおかしくなるような生産設備の騒音さえ聞こえない。防音され、慎重に隠匿された部屋だ。老人の顔は成り行きを見守るつもりで、少年は何を言っていいのか分からず、隼人は凪砂を救う方法を黙考していた。
沈黙がしばらく続くと、凪砂が、隼人のことを呼んだ。隼人と目があうと、
「好きだよ」
鏡に映る凪砂の顔は頬が少し赤く、けれども真剣な表情で、隼人の目を見ている。隼人はあまりに唐突な凪砂の告白に意識が追いつかない。
「私のことを探してくれていたのだよね。そうでないと、あの場所にいるわけがない。いまも私を助けるために考えてくれている」
隼人はうなずくことができない。うなずくための首がない。はい、と小さな声で返事をした。
「学校にいたとき、私はこの気持ちを告白しないつもりだった。私が帝都で成功するまではしないでおこうと思っていた。隼人はこの町に残ると話していたし、その隼人を連れていくだけの力もない。私はただの学生で、子供でしかなかった」
凪砂は泣きそうな表情で、
「もう違う。そうでしょう? 私が大人になるまで生きているわけがない。なれるはずもない。きっと残りは短いと思う。その短い時間を私は隼人と恋人として過ごしたい」
「そんなこと言わないでください。絶対に助けます。できるはずなんです」
「どうして?」
「こうなったのですから、その逆もできるはずです」
凪砂はまぶたを閉じた。小さく息を吸うと、少年に青いプラスチックのゴミ箱まで移動するように頼んだ。少年は嫌がったけれども、何度も凪砂が頼むと最後には言うことを聞いた。隼人は青いゴミ箱を見る。見たくはない。グロテスクだ。中には中年の顔と技師の右手が捨てられていた。見て、と凪砂の声に隼人は、それ以外にも誰かの手足が捨てられているのに気づいた。胴体、左手、両足。自分の体だと分かりたくはない。でも、分からずにはいられない。凪砂が、
「私の体はとっくに捨てられてしまった」
平坦に事実を隼人に告げた。隼人は目から涙がこぼれるのを感じ、止めることができなかった。目を押さえる手はない。声をあげて泣いた。何度も否定の言葉をくりかえした。少年の顔が、だから見せたくなかったんだよ! と叫ぶ。凪砂は何も言わない。隼人の取り乱す声を静かに聞いた。

それから、どれぐらいの時間が経ったのか、隼人には分からない。もはや空腹を感じるための内臓がない。眠気はあった。眠れないほどに感情が渦巻いていた。何度目かの白衣の男の診察で、そろそろ左手――凪砂の左手が痛んできたね、と言うのを聞くと、隼人は冷静になった。残り時間にはじめて向きあった。隼人は鏡に映る凪砂の顔をまっすぐと見つめた。久しぶりにしっかりと見た。凪砂の顔は病人のように青ざめていた。隼人の気持ちは決まった。一人で絶望していたら、独りよがりで、凪砂の最後の願いを叶えることもできない。
愛しています、と隼人は凪砂に伝えた。凪砂はやつれた顔に満面の笑みを浮かべた。小さな女の子のように、私も、と返事をした。感情と衝動のまま隼人も凪砂もお互いに近づこうとした。二人は右肩に縫いつけられた顔だ。ほとんど動くことはできない。ようやくようやく頬がふれあうと、それだけで隼人も凪砂も一つになれたみたいで、一切を忘れて幸せにおぼれた。


男か女の怪物の噂はやがて途絶えた。それでも製紙工場は変わらず操業を続けている。煙突からは止まることなく薬液の染みた蒸気が空にのぼり、廃水は途切れずに川から海に流れる。生産された紙は毎時間のように船に乗せられ、遠くに運ばれていく。町の様子は変わることがなく、終わりがないかのように続いている。
tori
2024年06月28日(金) 21時42分42秒 公開
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■作者からのメッセージ
4年ぶりですね。
あとなろうにも同じ内容が投稿してはあります

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