聖夜 |
特別な日と言えば誕生日、結婚記念日、命日など人によって大切な日が一年を通して様々にありますが、万人が同じ日を共有し、心に残ると言えば誰もが今日、この日をあげるでしょう。 他にも正月、バレンタインデー、ホワイトデー、終戦記念日とありますがこの日ほど幸せには恵まれません。 毎年この日が近づくにつれて、私と言えば思春期のような胸の高鳴りが抑えきれなくなります。 指がかじかむ寒さの中、人々は飾り付けや、好意の人にさり気なく予定を聞くなど準備を着々と始めます。 耳をすますとシャンシャンシャンと、心の跳ねる音があちこちから聞こえてくるようです。 夜の冷たく澄んだ空気は体の毒素を浄化して、心までも清らかにしてくれるようです。 私はこの雰囲気がとても好きです。 街々の眼を見張る装飾もそうですが、どこか心の中に期待があるからでしょう。 ひょっとしたら、優しい笑顔の白髭おじいさんが、鮮やかな幸せを運んで来てくれるかもしれないと、子供の時から思い描いているからでしょうか。 大人になってもその存在を密かに信じて、浮かれ気味なのは私だけではないと言いたいです。 それでも、彼に会った事は未だありませんが。 夜も更けてきました。 私はアパートの一室で、主人の到着を待っています。 寒さで手袋をはめたまま、靴しか脱いでいない状態です。 板間なのでスリッパをお借りしてはいますが。 外より寒いと感じるのはアパートの年代が経っているのもそうですが、取り壊しが決まり、この部屋以外、人が生活していないからでしょう。 建物が芯まで冷えている上、脆く剥げ落ちた壁をガムテープで塞いでいるのが至る所で見られます。 大きな穴がタンスや本棚の後ろに隠されていると思うと、どこからか漏れるすきま風を敏感に捕らえた体は震えるのでした。 家にあがった私は、何よりも先に唯一の暖房器具である石油ストーブを点けました。 石油が残っていて心底ホッとしています。 久し振りに使われたのかストーブは纏った埃をチリチリと焼き払い、焦げた臭いを漂わせます。 部屋もすぐには暖まらないので、ストーブに当たりながら壁に掛けてある時計を伺い、主人を待ちわびているしかないのです。 その間テレビは点けません。テレビは下品と下劣を常に兼ね備え、うるさいだけですから。 落ち着かない物は見たくはないので、私は呼吸を抑え、静かに待つのでした。 この家の住まいは二部屋しかありません。 私が凍えている六畳ほどの居間と四畳半の寝室でしょうか、建物の奥行きから見てそれぐらいの部屋しかないでしょう。 人様の寝室を覗くような無粋な真似はいたしません。 ふすまの奥の部屋をこの眼で確かめる事はせず、私は想像するだけです。 今の季節なら、ろくな暖房器具も無い部屋で親子三人、密着した川の字になって寒さを耐え凌いでいた事でしょう。 貧しくても仲睦まじく生活していたに違いありません。 一人暮らしなら特に問題はないでしょうが、この間取りで三人家族は窮屈な気がします。 それが分かるのは目の前にある居間のテーブルに、三人分の料理が並んでいるからです。 すっかり料理は冷めているようで、脂が白く固まっていました。 この日ばかりは豪勢に、といってもここの家庭でのことですが、食卓が飾られています。 オーソドックスのチキンが三本、クリームシチューにデミグラスハンバーグにミートソーススパゲッティー、高椅子の席に置かれた花柄が可愛いプラスチックの容器は、小学生に満たないお子さん、娘がいるからでしょう。 ケーキが見あたらないのは寂しいですがしかたありません。 お父さんに期待しても、もう無理でしょう。 私はまだ夕食を済ましてはいないので、一口つまんで舌鼓を打ちたくなってきますが手を付けずにいます。 コーヒーでも入れて暖まる事もしてはいけないのです。 なぜなら私はこの家の家族でもなければ、招かれた客でもないからです。 席に着いてはいませんが、お母さんと娘同様に首を長くして主人の帰りを静かに待っているのでした。 私に出来ることはやりました。 ストーブで熱したフォークを肌に当てても、爪半月まで皮膚と爪の間からフォークを刺してもピクリとも反応せず、唯一席に着いているお父さん、私が椅子に縛り付け、頭を黒い布袋で覆われたここの主人は、ウインナーを縦に串差した状態のまま、一向に意識の到着を見せてくれないのでした。 主人の起きる兆しは今の所見られません。 秒針よりかなり遅くではありますが、指から床に血が滴り落ちています。 寒さで血の巡りが悪いのと、主人に盛った睡眠薬の量が多すぎたみたいです。 今更ですがとても後悔しています。 早く仕事を片付けて、聖なる夜を静かに過ごしたいと、注意力が散漫だったのかもしれません。 今夜中に、この仕事を片付けなければならないという焦りも生まれました。 まとまったお金さえ頂ければ、どんな卑劣な事も平然と行う自分が、この仕事を呪う私が今日に限っているのでした。 チッチッチと秒針を刻む音が耳に付き、一層私の気を持たせます。 その間考える事と言えば、主人の経歴などを私の頭は繰り返していました。 高橋直樹、三十九歳、身長一六九センチ、体重六八キロ、B型、現在独身、家に帰ってからのワインで疲れを癒す、急成長を遂げるベンチャー企業の社長、一代でのし上がった実業家としてここまでたどり着くまでに苦労も並大抵ではありませんが、それに伴い人に反して汚い事もかなり行っているのが調べて分かります。 それゆえ恨みを買う敵もかなり作ってきました。 個人的には目の前の主人(この場合私の雇い主ではなく家の主人)、高橋に関心はありませんが、依頼を引き受けた私は敵方の一人になります。 気が付くと、そんな無駄な事ばかり考えていたのでした。 何度も見る部屋の壁時計は、急速に長針を進ませています。 この部屋だけ時間の流れが速いのでは、と思わせる程です。 残された時間は一時間を切り、もう少しで日付が変わってしまいます。 依頼を遂行する為の契約条件として、今夜中に高橋が目覚めなくてはならないのです。 かといってこれ以上の痛み、傷を加えても、昏睡状態に陥った高橋を覚醒出来そうもありません。 自分の不注意とはいえ、いつ目覚めるかも分からない高橋に、映画のような奇跡でも起きて欲しいと、今日のこの日に期待を抱いてしまいます。 気を紛らわせようと本棚にあるアルバムを開いても、色あせた写真を眺めている余裕などはなく、内心ハラハラと、起きる、起きない、起きる、起きないと、高橋を窺いながらも花占いのようにページをめくり、すぐに閉じては本棚に戻してしまうのでした。 悠長な時間は残されておらず、かといって慌て不為いてもどうしようもない状況にいる私は、小さなCDラジカセに手を伸ばしていました。 高橋がすぐに目覚める名案も思い付かず、どうにも落ち着かないので音楽に耳を傾けます。 そのまま電源を入れて、再生ボタンを押すと、最初の序奏だけでは分からなかったのですが、すぐの歌い出しで私は、心地よさに捕らわれるのでした。 この時期の代表曲として今まで何回耳に入れたか分かりません。 それこそ数え切れないぐらい、そしてこれからも流されるがままに受け入れる事が出来る数少ない歌なのです。 歌声もそうですが、決して色褪せない輝きに胸はときめいてしまいます。 瞼を下ろし世界を遮断して山下達郎を聞き入ると、一時の夢見心地になってくるのでした。 ストーブでようやく部屋も暖まり、奏でるは心を癒やしてくれる音楽、ささやかな幸せを堪能する条件は申し分なく揃っているのですが、気分を害し、妨げる物も現れてきました。 酷く臭ってきました。 テーブル上の料理、死肉が暖められ、ドロリと形を崩し、黄土色の脂を止めどなく噴きだしました。 作られたのは大分前、日にちが経っていて寒さで固まっていたようです。 テーブルの上に置かれた今回の報酬の入っている封筒を、迫り来る腐汁が付着する寸前に、サッと私は上着の胸ポケットに収めます。 腐肉の溶けた腐液はテーブルから溢れ床に垂れて行きます。 その勢いと言ったらミニチュアの滝とでも言いましょう、料理に手を付けないで良かったとホッと胸をなで下ろすのでした。 ボタボタと滴る音は、山下達郎の不協和音として聞こえるのです。 どうやらテーブル上だけではないみたいです。 高橋にもようやく変化が訪れてくれました。 体が温まったようで血の巡りが良くなり、指から落ちる血の雫は早まって、痛みによるショックと薬による拒絶反応の痙攣を起こしながら、嘔吐、糞尿を漏らし自らを汚してきました。 テーブル上の腐臭と高橋から放たれる悪臭のコントラストは絶妙で、私の鼻腔を刺激し不快にさせてくれます。 その反面、この曲が織りなした不思議な力、奇跡と言いましょうか(私はそう信じているのです)、私は山下達郎に深く感謝しながら停止ボタンを押しました。 奇跡は悪臭を生み出し、私に静けさだけを残し消えたのです。 秒針以外、微かに聞こえるのは、床に落ちる死脂や血の雫が奏でるリズム、水垂れの音だけになりました。 高橋の断続的な痙攣は指に伝わると、刺さっていたフォークを血だまりに振り落とします。 高橋から苦しげなうなり声が聞こえました。 あなたのためにどんなに気を持たされた事でしょう。 本当なら、高橋が目覚める時には今日の決まりの言葉を言うつもりだったのですが、 「待ちましたよ」 この言葉が不意に私の口から漏れたのでした。 さて、これからいかに仕事を終わらすか、時間のなさを改めて痛感しています。 進みゆく時計と、唸っているだけの停滞する高橋、私は高橋がまた夢鬱に落ちないように眠気を妨げなければなりません。 血だまりに落ちたフォークを今度はボンレスハム、高橋の太ももに突き立てました。 勢いが付きすぎて骨に当たる感触が手に残ります。 拷問ではないので、肉を抉り出す真似はしませんが、抜いたら血が勢いよく噴き出すので、刺したままにしとくのです。 高橋は痛みの為に体を震わせます。 痙攣とは違い、必死に身を捩り、激しく鋺いて痛みを表現しようとしますが、きつく後ろ手で椅子に縛り付けているので、自分でフォークを抜くことはおろか、激しくのたうち回りこの部屋をひっくり返す事もできないのです。 マスクの下ではさぞ苦悶の表情を挙げているでしょう、叫び声を上げて痛みを発散することもできないのです。 これもきつく猿ぐつわをしているのでした。 もう大丈夫だ、と私は思いました。 「私の言葉が聞こえるなら、一回だけ頷いてください」 耳元で優しく囁くと、一瞬止まった高橋は、重そうに頭を一回沈めました。 私は高橋が聞き取れるように、ゆっくりと喋ります。 「なぜこんな目に遭わされているのか、あなたに説明しなければなりませんね。 いいですか? 私はあなたに恨みもありません。お金で雇われた者です。 かといって、あなたからこれでもかとお金を積まれ、買収される訳にもいきません。 沽券に関わるので。さて、あなたにはこれから反省し、謝罪してもらわなければならないのです。 心から反省してくれればあなたを解放してあげます。 そうでないとあなたは死ぬことになります。 私はあなたの命など惜しくも何とも思っていないのです。 もう、三十分もありません。その間にあなたに悔い改めて欲しいのです。 その為に私は雇われました。では、私の話が理解出来たなら、一回だけ頷いて下さい。 分からなかったら首を横に振って下さい」 高橋がコクリと頷くのを確認してから、胸ポケットから手の平に納まるケースを出し、中にある注射器を高橋の左肩に刺します。 ピストンを少し戻すと、無色の液体が高橋の血液で赤みが掛かり混ざり合います。 そのまま薄朱色の液体を、全て押し込み注入しました。 今夜の厳かな雰囲気を壊さないように、音を立てず、静かに行いました。 高橋に気付かれないように。 私は一つだけ嘘を付いてしまいました。 時間のなさがこうも自分を追いつめるとは思わなかったのです。 高橋を生かすつもりもなければ、そう契約した覚えもないのでした。 ただ、今夜中に謝罪させ殺すと。 太ももと指に刺さったフォークの痛みで、感覚が麻痺しているのでしょう、針を刺しても高橋は微動だにしないのでした。 「謝罪をしてもらうためにヒントを与えるので、耳を澄まして聞いてください」 ただ首を傾ける高橋は、意識が遠のくようにも見えました。 本棚にはケースに入ったDVDが並んでいます。 ケースにはシールが貼ってあり、一から二十一の数字が○で囲われ書かれていました。 私は一番端の二十一のDVDを手に取り、テレビを点けてデッキに差し込みます。 ボリュームを少し上げました。 すぐにビデオの記録はテレビ画面に映るのでした。 この部屋が映されています。 四、五歳ぐらいのおかっぱの女の子が高椅子に座っています。 テーブルでお絵かきでもしているのでしょうか、ウーンと首を捻りながら紙に何かを書いています。 時折チラッと画面越しに私を、カメラに目を向けてきました。 台所から撮影されているのが分かります。 夕飯を済ました後でしょう、窓のカーテンは閉じられ、女の子はセーラームーンのパジャマを着ています。 女の子の向かいでは、部屋の隅で同じストーブがヤカンを温めていました。 「もう、いいかい?」 と大人の男声が聞こえると、カメラは寝室の方に向きを変え、閉まっている襖をアップにします。 「まあだだよ」 と女の子は首を振り、さらさらとしたおかっぱを傘のように綺麗に広げます。 そのようにカメラは女の子と襖を何回か映り替えると、しびれを切らしたのか襖を開けて寝室から男が出てきました。 その男は、少し若い頃の高橋でした。 「もう、パパは眠いんだよ、何書いたか見せてくれよ」 のっそのっそと眠たそうな怪獣のように、パジャマ姿の高橋は女の子に近づきます。 「ダメー、パパはダメー」 と女の子は紙を抱え込むと、高椅子から飛び降り、駈け足でテーブルを高橋との間に挟みました。 「これはママからサンタさんに渡してもらうんだからパパは見ちゃダメ、ねっママ」 とこちらに手を振ります。可愛らしいではありませんか。 どうやら台所で撮影しているのはお母さんのようです。 「ちょっと見せてくれよ」 高橋が手を伸ばして近づこうとすると、「イヤダー」と楽しそうに女の子は逃げるのです。 テーブルを挟み、二人はぐるぐる回ります。 「見せてみろーガオー」 とおどける高橋に、キャッキャキャッキャと女の子はしゃぐのです。 高橋がフェイントで反対方向に回ると、行き場を失った女の子は台所に急行し、お母さんの後ろに隠れました。 主点が定まらなくなり、映像が乱れます。 今度はお母さんを挟んで追い駆けっこしているみたいです。 それでもすぐに女の子が画面から遠ざかり、寝室に逃げ込みました。 高橋も後を追います。 「布団にくるんじゃうぞー」 「イヤダー」 二人の楽しそうな声が聞こえる中、カメラはクルッと回ると、いつもの締めなのかお母さんの笑顔とVサインのアップで映像は途切れ、砂嵐に変わったのでした。 何とも微笑ましいではありませんか。 つい、三、四日前の出来事のようにも思えます。 私はテレビを消し、DVDをケースにしまい、本棚の元の場所に戻しました。 そして、もっとこの家族の団欒を、幸せの続きを見たいと望んでしまいます。 ですが、もう女の子の笑顔を記録した映像はないのです。 お母さんがカメラを向ける前に高橋は二人を残し、この家から去ったのでした。 高橋は切れ切れにしゃっくり、引きつけを起こしていました。 今流したビデオに感化されて泣いているようにも見えます。 それとも、先ほど打った薬が効いてきたのでしょうか、どちらか特定はできません。 「どうですか、少しは思い出しましたか?」 返事の動作はありません。 高橋のマスクを取りました。 私の期待とは裏腹に、涙は流れていませんでした。 どうやら後者のようです。 部屋の電気を眩しそうに高橋は見上げます。 光を取り込む眼球は灰色に濁り、虚ろで、瞼を重そうに半分だけ開けています。 鼻からは黄色い粘液を噴いて小泡を作り、先程の痛みを凌ぐ為に猿ぐつわを千切ろうと、第一大臼歯と上下の六番の歯を歯茎に食い込む程ボロボロに噛み砕いていました。 蒼白の顔は血管だけが紫に浮き出ています。 咽せる度に、黒い血が口から漏れるのでした。 即効性の薬じゃないとはいえ、生きる力を確実に奪って行きます。 時間はありません、ビデオをもう一本見せる猶予もないようです。 さっきのビデオの音声も聞き取れていなかったのでしょう。 高橋は鈍くも微かに首を回し、改めて部屋を見渡しているように見えます。 当時と何も変わっていないのでしょうか、懐かしさは瞼を上げ、高橋の瞳はそこで初めて潤んだようにも見えました。 「そうです、ここはかつてあなたが住んでいたところです」 私は声の音量を上げました。 高橋に届いているのか分かりませんが。 「娘と奥さんと三人で、それは貧しく、辛い日々の中、それでも幸せはあったはずです。 それをあなたは逃げ出しました。 丁度五年前に、借金を残し、あなたは家族を捨てたのです。 あなたは全てを変えて一人だけ裕福になったのです。 満足ですか? 充実してましたか? 心に引っかかる、胸が詰まる思いは一度としてなかったのですか? 念願だった最高のワインはどうでしょう。 最後に飲んだワインはどんな味がしましたか? 口の中で風味豊かに広がる、幸せの味がしたでしょうか? それとも全てを犠牲にして手に入れたものは後悔の味がしたでしょうか? いいえ、違いますね。 私の見ている中、薬が多めに入っているワインを、何とも間抜けな恍惚とした顔つきであなたは飲んでいたのです。こうなるとも知らずに」 私はいつになく感情的に唱えていました。 お母さんと娘が私に乗り移り、口が代弁して喋っている感じさえもしました。 熱が籠もっていたのは確かです。 どうにか死ぬ前に改心して欲しいという願い、今日この日に懺悔して欲しいいう思いもありました。 高橋は力なく私を見上げます。 その表情は、自分の死を受け入れた、落ち着いた老犬のようでした。 理解した私は、何か言いたげな高橋の猿ぐつわを解きました。 「こうなることなら、家族を見捨てはしなかった」 「こうなることなら? まだ懲りてないのですね。何も変わらないあなたが、非常に残念です」 それが高橋と私が交わした最初で最後の言葉でした。 私は落胆の顔を浮かべますが、高橋は私の事など目に入れず、部屋の風景と走馬灯を重ね合わしているかのように眺め続けます。 テーブル上の腐肉、死肉の腐臭と、これから薬で死にゆく高橋の悪臭は、どこか似ているものがありました。 目覚めるのを待ったように、私は高橋に訪れる死を静かに待ちます。 高橋の視界に入らないように最後を見届けるのでした。 思えば意識のないときに注射を打たれ、眠るように死んだ方がよっぽど楽だったに違いありません。 自分がいた頃を回想しているのか、現実を直視しているのか、高橋が最後に何を沈潜しているか私には読み取れません。 既に薬が脳を冒し、思考能力を奪っているのかもしれないのです。 僅かですが、残された時間に私が出来ることは何でしょう? それは、もう一本DVDの映像を流し、高橋に見てもらうのだと、高橋から家族への謝罪は無理なのかも知れませんが、伝わる物は必ずあるはずと、ふと変な正義感に奮い起こされました。 今日この日でなければならないと、張りつめた静寂が切に訴えかけているようで、私の内耳に痛くも無音が響くのでした。 それでも私の思いも虚しく、高橋はDVDを見る前に亡くなったのです。 DVDをもう一本見せようと台所に足を向けている間に、高橋に背を向け目をそらしている時に、自ら手を下したのでした。 実際見た訳じゃありませんが、きっとこうだったでしょう。 高橋は顔を上げ、テーブル上に視線を置きます。 鼻から息を大きく吸い込むと、口を目一杯上下に開き、舌を垂らすまで出しました。 そして、躊躇うこともなく首を思い気きり縦に振ったのです。 勢いがつき顎が胸板に当たると、瞬発的な力で口は閉じ、舌を断ち切ったのでした。 時計台の大きな歯車が迷い猫を噛み潰す、そんな音を私は連想したのです。 台所で振り向くと、確かめる必要もなく、高橋は椅子に掛けたまま、項垂れて死んでいました。 残念ながら謝罪の言葉は聞けなかったですが、高橋が最後に取った行動は、それと受け止めることが出来ます。 言葉より確かなものだったと私は思います。 時間は零時十分前、どうにか仕事を遂行し終える事ができました。 依頼したお母さん、娘もきっと満足しているでしょう、私はそう願いたいのです。 目の前の依頼人、テーブル上で首を吊っているお腐敗した母さんと娘は、目から、耳から口から、鼻から、肛門から、生殖器から黄土色の体液を垂れ流し、真っ黒な舌を出しながらも色素の失った白眼球で、お父さんの一部始終を恨みがましそうに眺めていたのです。 そして今、ボタボタと大量の涙を流し、親子三人は再会を喜び、食卓を囲っています。 私はここの家族でも、招かれた客でもないので退散しましょう。 音楽を再生して山下達郎を流します。 ストーブを消し、明かりは点けたままにしとくのです。 親子三人水入らず、きっと明かりは必要ですから。 台所に設置されたビデオカメラからDVDを取り出し、そっと玄関を出ます。 外気に触れ、今宵の空気は何て清々しいのでしょう、と感じたのは一瞬でした。 突風が私を突き抜けたと思うと、ドアは私が触ることもなく、勝手に閉まったのです。 まるで何かが私と入れ違いに家の中に駆けて入ったようでした。 すぐに家の中から声が漏れてきたのでした。私はドアを背にしたまま立ち止り、耳を傾けます。 「ただいま」 「お帰りなさい、あら、ケーキ買ってきてくれたのね」 パタパタとお母さんが台所に向かうスリッパの音がします。 「今、料理温め直すわ」 「ごめんな、遅くなって」 「いいのよ、ちょっと、どうしたの、その指!?」 「ああ、怪我しちゃって、この包帯は大げさだよ」 二人の声を聞いて娘が寝室から出て来ました。 「パパ、お帰りなさい」 「起こしちゃったか?」 「ううん、寝ないでずっと待ってたの」 娘は嬉しそうに顔を上げます。 「ごめんな、プレゼントなくて」 「ううん、いいの、あのね、プレゼント書き直して違うのサンタさんにお願いしたの、パパと一緒に過ごせるようにって、ねっ、ママ、サンタさん叶えてくれたよね」 お父さんは、膝を付いて娘を抱き寄せ泣くのでした。 ごめんな、もう二度と嘘は付かないよと、許しを請うのです。 何で泣くの? パパ苦しいよ、息ができないよと、娘は離れると、 「あっ、それとね、サンタさんにもう一つお願いしたの、妹が欲しいって、ちびうさちゃんみたいな妹が欲しいってお願いしたの、これも叶えてくれるよね、ねっ、ママ」 娘は屈託のない笑顔でお母さんに手を振ります。 くしゃくしゃの泣き顔から少し照れているお父さんを尻目に、お母さんは自分にカメラをクルッと回すと、にっこりとVサインをアップに映すのでした。 私の幻聴かどうかは分かりません。 ドアをノックして確かめることも出来るのですが、幸せなら、このままでいいでしょう。 きっと家族の思いが、娘の願いが奇跡を呼んだといってもいいのです。 山下達郎の力も忘れてはいけません。 私の願いもちょっぴりあったと言っておきましょう。 今日は一年で特別な日、子供の願いが叶う日でもあります。なぜなら、優しい笑顔の白髭おじいさんは子供の笑顔が大好きなのです。 未だ彼には会ったことはありませんが、私は彼の起こす奇跡を感じているのです。 もう、このDVDはあってはならないですね。 私は台所から固定で撮影された、娘とお母さんが首を吊る様子が映っているであろうDVDを一つ二つと折り、四等分にするのでした。 そして胸ポケットのお金の入った封筒に治療費と書いて、ドアのポストにそっと差し込みます。 それは、首を吊っている娘とお母さんに謝罪してから殺す契約条件に反し、高橋は私が手を下す前に自ら命を絶ったのと、依頼は最初からしていなかった事になったから、このお金は受け取れないのです。いつもはこんなに自分に厳しく、決して善人ではありませんが、今日の奇跡を汚したくない思いが生まれたのは事実です。 私はビデオの続きをこんな風に想像します。 どこかに移り住んだ家族はDVDも四十本にたまっているでしょう。ひょっとしたらHDDに変わっているのかもしれません。 カメラを回したお母さんの先には思春期にさしかかったお姉ちゃんが、妹と一緒にお風呂に入っていたパンツ一枚のお父さんを、不潔と罵って自分の部屋に入ります。 お母さんがノックしてから入ると、お姉ちゃんはベッドで横になりながら、ボーイフレンドとスーマートフォンで話しているのでした。 会話が終わると、お姉ちゃんはお母さんにならとボーイフレンドの写真を、スマートフォンを開いて見せてくれるのです。 寂しそうにビールを飲んでいるお父さんに、様子はどうだったかを聞かれるとお母さんは、何でもないよと言って、くるりとカメラを自分に向け、笑顔とVサインを映すのでした。 寒さも一段と増してきました。それでも、夜の冷たく澄んだ今日の空気は、体の毒素を浄化して、心までも清らかにしてくれるみたいです。 高橋の家族の為に、山下達郎の歌詞を変えて口ずさもうとしましたが、自分が一人きりなのに気付くと、私はそのままの歌詞を頭の中で奏で、緩やかな足取りで聖夜の帳に消えるのでした。 今日と言う日は万人が幸せな気持ちなれる、私はそう信じているのです。 |
みんけあ
2017年11月26日(日) 00時43分23秒 公開 ■この作品の著作権はみんけあさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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