人形奇譚 ―風花ト徒花― |
舞雪は市内の私立中学に通う中学三年生。いわゆる受験生、今日も授業が終わってから、塾で夜九時まで講習を受けていた。ところが家に連絡を入れ、これから帰ろうという時に『それ』を目撃したため、急遽こうして追いかけている。 「…… 舞雪が呼びかけると、彼女の右手に嵌められたピンキーリングが煌めき、ポンッとそこから一匹のウサギ――否、本物そっくりのウサギの人形が飛び出した。 「鬼が出ました、出番ですよ」 キュウッ、とウサギこと風花が返事をする。「あっちです」舞雪の指輪からは、白い糸のような物が何本も伸び、風花の体の節々に繋がっていた。 幽霊や妖怪など、この世には科学的でない不可思議なもの・ことが存在している。見えなかったりわからなかったりすることが多いそれらは、時に人、動植物に対し不利益な影響を与えることがある。たとえば、無駄な殺生や物の紛失、超自然的現象の発生。 悪影響を及ぼす者達は、その業界にて広い意味での『鬼』と呼ばれ、『仇なるもの』として扱われている。怨霊や妖怪、悪魔などがいい例だ。 そんな鬼達を倒すことを業とする人がいる。『鬼斬り』と称される彼らは、鬼を倒すことで討伐を依頼した人間及び、彼らの属する協会から報奨金を得て生活している。 舞雪はその鬼斬りの協会会長の孫娘であり、自らも鬼斬りとして半年前デビューした。以来、相棒の『鬼斬り人形』風花とともに、日々奮闘し続けている。 一人と一匹がターゲットに追いついたのは、大通りから少し横にそれた場所にある広場を通り抜けたあたりだった。枯れ葉浮く人工池にかかる、電球のような街灯がぽつりぽつり灯っているだけの、何とも寂しい石橋の上。 舞雪が対峙したのは一体の鬼だった。黒ずんだ肌に、黄色い目、裂けた口。皮と骨ばかりのような外見だが、背は彼女の倍近くある。 風花が毛を逆立てて唸った。鬼斬り人形の回路が、鬼の気配を察して疼くのだろう。 鬼斬り人形は、名の通り対鬼用に作られた戦闘用自動人形のことで、鬼斬りの武器の代表的なものの一つだ。霊力とカラクリを組み合わせて作られており、自身に内蔵された分と持ち主の分の霊力を糧に動いている。 風花は『 ちなみに『斬』とついてはいるが、鬼斬りも人形も必ずしも攻撃手段が斬るだけとは限らない。打撃、飛道具、銃火器、支援専門と幅広く存在している。 「……まぁ、鬼としては標準ですね」 舞雪は怯みも驚きもせず言った。この程度のサイズなら、何度も相手にしている。 霊力の糸が、繋がりを示すように光った。 「行きますよ」 声を合図に、風花が鬼へ突進した。外見に反し、その動きは俊敏かつ力強かった。 突き破るような勢いで、鬼の胴に頭突きを見舞う。衝撃に空気が震え、鬼が鳴き声を上げた。 「まだまだです!」 くるりと宙返り、着地から跳躍、小さな脚に全体重をかけての回し蹴りが頭部を揺らす。右、左ときて下からの強烈な一撃に、顎骨の軋む音がした。 しかし鬼も黙っていない。真っ黒な腕を、風花めがけて振り上げる。 バシャッ、と風花が池に落ちた。 「風花!」 声に応じ、水から白い顔が覗いた。舞雪はホッと安堵の息をつく。鬼斬り人形は機械だが、さまざまに作用する霊力のおかげで、水没如きでは壊れない。 風花に気を取られた隙を狙って、鬼が攻撃をしかけてきた。鋭い鉤爪が街灯に光る。紙一重で避けた舞雪の黒髪が数本、宙に舞った。 舞雪もまた、人間離れした身体能力を所持している。が、これは彼女が特別というわけではなく、鬼斬りをする者の多くに当てはまることで、生まれ持った霊力の強さが体にも影響を与えているかららしい。 鬼はまだ手を緩めない。両腕による挟み撃ち、体をしならせての噛みつきが少女を襲う。舞雪はすべて回避したが、一方で風花への指令が出せず、じりじりと後退させられていた。 「っ、風花っ!」 何とか声を上げる。風花が「キュッ」と反応する。 舞雪は糸を繰り、力を込めた。四肢に霊力を注がれた次の瞬間、風花は弾丸のように駆け出した。 鬼の懐に潜り込むや、一発目を遙かに凌ぐ威力の頭突きを食らわす。体制を崩したところで後ろ足をそろえ、鳩尾に両足蹴りを叩き込む。反動を利用して高跳び、無防備な鬼の眉間へ垂直に足を向ける。 着地ではない、重力を上乗せしての凄まじい蹴りが突き刺さった。あまりの圧力に地面が凹み、舞雪も耐えきれず尻餅をついてしまった。 「……さすがですね」 組んで半年、この相棒の蹴りの威力は本当に底なしであると毎回思う。 ――鬼は悲鳴を上げて倒れ、頭部を砕かれた姿で動かなくなっていた。 制服についた埃を払いながら、舞雪は風花へ近づいていった。 「風花、大丈夫ですか?」 「キュッ」鳴いて、主人の胸に飛び込む風花。何も無ければ、少し表情豊かな人懐っこいウサギにしか見えない。ふわふわの毛も、ぴこぴこ動く長い耳も、“本物”以上に自然で愛らしい。 「ご苦労様でした」 弱かったわけではないが、特別強い鬼というわけでもなかった。とはいえ、無事勝利したことに違いはない。 「帰ったら、協会に連絡しなければなりませんね。あと……」 ……お祖父様にも。 褒めながらひとしきり撫でてやったあと、舞雪は縁である指輪から風花を戻そうとした。風花もすっかり、戻る気でいた―― ――舞雪の背後に、黒い影が忍び寄るまでは。 「 あ、」 反応する間もなく、舞雪の体は宙を舞った。そのまま数メートル吹っ飛ばされ、背中を地面にしたたか打ち付けた。 骨の軋む音がした。眼前が一瞬白くなり、遅れて鈍い痛みがやってくる。 「く、ぁ……」 ……動けない。 着地した格好から起き上がれない。 はっ、はっ、と苦しげに呼吸するも、声を出すに至れない。風花が慌ててこちらへ駆けてくるのが見えた。 あれは何、考えずとも正体はわかっている。 ――鬼だ。 それもさっき倒したやつより、圧倒的に強いものが、いつの間にか背後にいた。 気配すら、襲われるまで感じられなかった。 ぐったりしていると、風花が心配そうに顔を寄せてきた。大丈夫です、必死に唇を動かし、言葉を伝えようと試みる。 「大丈夫です、気をつけてください」 舞雪の声が届いたのか否か。 風花は毛を逆立てて相手を睨みつけると、舞雪の指示も無しに突撃していった。黒い体に渾身の一撃を見舞う。 しかし影のように揺らめくそれに、物理的な打撃は意味をなさないようだった。風花の頭突きはするりとすり抜け、勢い余って地を転がる。 すぐさま風花は跳ね起き、「フゥッ」と唸りながら再度体当たりをした。案の定、鬼は避けもしなければ受けもせず、ただ走りの風に揺らいでみせるだけ。風花は諦めず、あらゆる技をくり出していたが、どれも皆通ずることはなかった。 完全に弄ばれている……裂けるように笑う顔は、明らかにこの状況を面白がっていた。 悔しい――動けないのがこんなにも腹立たしいなんて。 「ぐっ、っ……」 せめて起きあがることくらいは、と舞雪は歯を食いしばった。 腕が軋む。頭がぐらついて安定しない。痛みと戦いながら、やっとの思いで上体を起こした舞雪だったが、鬼はそんな彼女を嘲笑うかのごとく、ふらりと動いた。 『グシャッ』 ――舞雪の目の前で、風花が鬼に吹き飛ばされた。 容赦ない風圧に、玩具のぬいぐるみのように、風花は地面に叩きつけられていた。 一発ですでに前足がもげた。二発目で右後ろ足ももげた。三発目で耳が、四発目で尻尾が、何度も何度も執拗に押し潰され、そのたび「キュ、」と短い悲鳴が聞こえた。 「…………風……花……」 壊れていく相棒を目の当たりにして、舞雪は自身の心臓が冷えていくのを感じた。 破片が散るたび、心音が氷のように甲高く鳴る。乾いた咽喉に空気が張りつき、声を肺へと押し戻す。 風花。 私の、初めての相棒。 言いようのない無力感が体を満たしていく。 何もできない。 止められない。 風花。 鬼斬りの家に生まれたために、『人』から引き離されて、 ずっと独りぽっちにされてきた、 私にできた、たった一人の友達。 ……もう、名前も呼べないの? 一際大きく、鬼が腕を振り上げた。 足を潰された風花がそれを避ける術は、……無い。 『このままでいいの?』 舞雪はほとんど何も考えず、手を伸ばしていた。 縁の指輪から絹のような白糸が幾筋も伸びて、風花を包んだ。 腕を引いて風花を引き寄せる、直後鬼の腕が橋にヒビを入れた。 「風花……」 風花は言うまでもなくボロボロで、見るも無惨な姿になっていた。汚れきった毛皮と、金属の骨格がかろうじて原型を留めているだけの ごめんなさい、風花。 私が情けないせいで、あなたをこんな目に遭わせて。 仄かに残る駆動の熱が、まるで本当に先ほどまで生きていたかのような錯覚を起こした。そうだ、この子は生き物じゃない。 生き物でないからこそ――まだ死なせるわけにはいかないんだ! 鬼が、不機嫌そうに鳴いた。 耳障りな不協和音が、街灯の光を揺らして広がっていく。 もう二度と逃がすまいと、黒い爪を剥き出して笑う。 『逃ガサナイ』 引き裂いて、踏み潰して、鮮やかな血潮に塗れたその白い肢体を噛み千切ってやる。 『食イ散ラシテヤル』 ざわめくような言葉が舞雪の耳に届いた刹那、鬼が猛烈な勢いで駆け出した。 目指す先には――もちろん、舞雪達がいる。 避けることは最早不可能。 縁を働かせている時間も、ない。 せめてできることといえば、風花をこれ以上壊させないこと…… 舞雪は覚悟を決めて、風花を大きく抱き込んだ。 どうか壊れませんように。 耳元、冷たい風が唸り―― パキィン、と何かがかち合う音がした。 一瞬、自分の骨が砕けたのかと思ったが、……違う。 痛みも衝撃も、何も襲ってこない―― 「だからさぁ、やっぱりこっちで正解だったんだよ」 え……? 恐る恐る目を開けると、誰かが舞雪達の前に立ちはだかっていた。しなやかな腕が日本刀を掲げ、鬼の爪を真っ向から受け止めている。 「ま、死んじゃいないしセーフだけど」 わずかにこちらを向き、その人物は言った。 少年……だろうか。プラチナ色のフワリとした髪に、蒼穹のような瞳。白い肌の端正な顔立ちは、色の違う日本人といったふうで、中性的かつ人間的でない。漂う幽玄な雰囲気が、それに拍車をかけている。いや、雰囲気以上に……何か得体の知れない、霊的な、強力な『何か』も持っている。 正直――人形かと、思った。 「……誰……?」 「偉そうにするなよ、月野」 舞雪が呟いた直後、彼女の背後からもう一人の声がした。 振り向くと、舞雪と同い年ほどの少年が立っていた。白い頬に落ちる黒髪は少し癖があり、切れ長の瞳と黒縁の眼鏡が知的な印象を見る者に与えている。 「おそーい。モッチーが迷ってもたもたしてるから」 「三叉路で迷わない方がおかしい。あとモッチーって呼ぶな」 月野と呼ばれた少年はそれに応えず、「よっこいしょ」と爺臭い声を上げて鬼を弾き返した。黒髪の少年が不満げに声を上げる。 「おい月野……」 「わかったよぅ、『遼君』。これでいいでしょ。その子のこと、よろしくね」 言うが早いか刀を握りしめ、月野は鬼へ向かっていく。黒髪の少年が「やれやれ」と呟くのが聞こえた。 「あ、あの……」 「ちょっと待て」 言いかけた舞雪を、黒髪の少年が遮った。 硬い物同士のかち合う、耳障りな音がした。見ると月野少年が、刀を手に鬼と競り合っていた。 振り抜きから一気に間合いを詰め、鬼へ袈裟懸けを見舞う。それを避けながら、鬼が鋭い爪を月野の腹めがけて突き立てようとし、刀の防御に弾かれて呻いた。カッと怒りに口を開ける鬼に、月野は冷静な瞳で刃を向ける。そこに焦りや恐怖、憎悪などの感情は、一切見られない。 逆袈裟で切り返し、噛みついてきた歯に躊躇無く刀を叩きつけた。汚い歯がバキバキと折れ、それだけでは止まらず、鬼の体を数メートル後方へ吹っ飛ばす。 陽炎のような体は音もなく、池の縁へ転がっていった。 「何だ、そんな強くないね」 薄氷を割るように軽やかな声が呟いた。 舞雪は呆然としていた。 今、目の前で起きたことが、上手く飲み込めなかった。 少年が自分達と鬼との間に割り込み――あっという間に吹っ飛ばしてしまった。 言わばそれだけ。 たったそれだけのことだが、何故か複雑な古文か数式のように、すぐさま理解することができなかった。 「……おい、大丈夫か」 だから話しかけられても、返事をするまでに何秒かかかった。 「………………………………はい」 「本当に大丈夫か?」 先ほど舞雪の背後から現れた黒髪の少年だった。彼はしゃがんで舞雪と同じ目線になり、心配そうに訊いてきた。 「あちこちボロボロだけど。脚は? どうした?」 「……脚……」 何気なく動かした途端、体中がズキリと痛んだ。思わず「うっ」と小さく呻く。 「全身打撲に擦り傷、切り傷。こりゃ結構な重傷だな。おまけに……」 舞雪の腕の中を見て、息をつく。 「……あんたの相棒か」 「……はい」 舞雪は泣きそうになりながら、頷いた。風花は動きもせず鳴きもせず、じっと彼女の腕に抱かれていた。 「早く……直してあげなくちゃ……」 半壊の躯は、まだかすかに温かい。舞雪には、その温度が消えたら風花も消えてしまうように思えた。 「わ、わたしが……悪いんです……この子のこと……守れなく、て……」 言うと、視界が滲んだ。泣いてしまった。結局。 少年が困って「おーい、月野ー」と呼びかけるのが聞こえた。 「どうするんだー?」 「ごめんねー、まだ終わってないんだー。遼君お願いー」 「まじか……」 「とにかく、ちょっと離れるぞ」 ボリボリ頭を掻きながら、少年は言った。 「泣くのもそれからにして。まあ、あれだ。きっと相棒は直るよ」 黒縁眼鏡の奥で、きゅっと目が細まった。笑いかけてくれたことに気づくのに、少しかかった。 「俺は望月っていう。 「わたしは……野之、舞雪」 「そうか。好きに呼んでかまわない、ただし、変なあだ名では呼ばないように」 望月と名乗った少年は、「しかし……」 「あんた歩けないよな?」 「はい……」 「じゃ、不可抗力ってことで」 「?」 首を傾げた舞雪をよそに、望月は何を思ったか急に彼女の腰に手を回した。 「動くなよ」 「え……? って、わぁあ!?」 そのままスイッと抱え上げられてしまう。さすがの舞雪も驚いて頓狂な声を上げた。 「何っ、するんですか!」 が、声は、吹っ飛ばされた鬼の叫び声にかき消されて届かなかった。しかもその鬼が落ちてきたのは、ちょうど先ほどまで舞雪達がいた場所だった。 背筋が冷えた。 望月が間一髪で飛び退いていなければ……今頃下敷きになっていただろう。 「あの馬鹿……場所を考えろ……」 石橋を離れ、池畔より少し遠い花壇まで退いたところで、望月は舞雪を下ろした。 見ると、まだ月野は鬼とともに橋の上にいた。鬼は不規則にゆらゆら揺れながら、不機嫌そうに彼を睨んでいる。 一方、月野は真っ直ぐに鬼を見据えて、相手が仕掛けてくるのを待っている。 「……あの、人は……」 「月野のこと?」 舞雪の呟きに、望月が素早く反応した。 「あいつ間合い下手だろう」 「え? あ、えっと……」 「いいよ、正直に言って。だってあいつの本職は人形使いだからな」 あんたと同じ、と。ちらと風花を見やる。 「鬼斬りには鬼斬り専用の人形があるんだって? あいつはそれを使役してる。今は緊急で呼んでないけど。あの刀は妖刀で、あれが縁になってる」 だから物理的攻撃の通じない鬼でも斬れるのか…………って、いや。 鬼斬り専用の人形が“あるんだって?”……舞雪の耳はそれを聞き逃さなかった。引っかかりに気づいた。 鬼斬りであれば誰しも、鬼斬り人形の存在を知っている。知らないはずがない。なぜなら同業者に人形使いがたくさんいるうえに、鬼斬りとして協会に登録する際、必ず誰か先輩から教わるからだ。 だが望月は―― 「ひょっとして……望月さん……」 「俺は鬼斬りじゃないよ。『ちょっと変なものが見える一般人』」 鬼斬りは、世の中に『表立って』存在している職ではない。 陰陽で言えば間違いなく『陰』であり、表裏で言えば『裏』である。 それは彼らの標的が、世間の信じる定規に当てはまらないもの達で、彼らもまた、定規では測れない特徴を宿しているからだ。舞雪の霊的な力が強いことや、風花のような霊力を取り入れた機械などがそうである。 だからこそ必要な情報の共有は中途半端にはなされない。同時に、部外者への情報提供は最低限に留められる。鬼に関する事件事故の当事者も例外ではない。 なのに……。 「……あ、何かまずい?」 どんどん冷めていく舞雪の顔色に、望月は「ひょっとして、」 「これ重要機密的なやつだった?」 「……はい」 望月は一般人であるにも関わらず、鬼斬りについての情報を有している。 これはいけない。よろしくない。 口を開きかけたところで、橋の方から鳴き声がした。進展があったようだ。 「ねぇ、遼君」 月野が呼びかけてくる。 「何だよ」 「ねぇ、ちょっと」 「あのさ喋ってないでお前……」 「ねぇ、」 『あっちの僕ばかり見ないでよ』 しまった、と思った時には遅かった。 望月に突き飛ばされ、風花を抱えたまま地面を転がった。 「っ、望月さ……」 顔を上げて、まず目に飛び込んできたのは、錆のように赤茶けた腕だった。人のそれより大きな指が、望月の首を締め上げていた。 爬虫類に似た目鼻に、耳まで避けた口から赤い舌を垂らしている。 「鬼……!?」 三体目の鬼が現れたのだ……舞雪の脳内は、半分パニック状態だった。こんなこと、今までなかったのに……。 「か、はっ……」 望月はどうにかして、鬼から逃れようともがいている。が、どんなに腕を掻き毟っても、腹を蹴りつけても、鬼はびくともしなかった。 「っの、……クソッ」 苦痛に歪む顔はみる間に赤くなり、悪態をつくたび唇から涎が垂れる。 「望月さんっ!」 名前を叫ぶと、間髪入れず「バカ!」と掠れ声が返ってきた。声に反応した鬼が、ギョロリと目玉をこちらへ向ける。 「っ……!」 温度のない目に身がすくんだ。言ってしまってから、今の自分に対抗する手だてが無いことに気づいた。 風花はもちろん、自分自身も満身創痍で思うように動けない。注意を逸らすことはできるが、今はただの自殺行為でしかない。 「月野さんは……」 縋るように月野を探す――未だに彼は、二体目を相手に奮闘していた。追いつめはするが、なかなかとどめが刺せないでいるようだ。こちらの状況に気づいているらしく、ちらちら目線を向けてきている。 月野を待っていては、望月は助からない。 そんな気がして、舞雪は激しい悪寒を覚えた。 『やっぱり、わたしは』 耳の奥で、感情がざわめく。 『守れない。大事な相棒も、自分も、助けに来てくれた人達のことも』 体が震える。呼吸が乱れる。 彼方で、記憶がフラッシュバックする。 ――赤。 人形。 糸。 むせ返るような血の匂い。 自分じゃない誰かの死体。 赤。 遠い遠い、遠い昔の―― あの時も守れなかった。 守られたのは、わたしだった。 今回もまた。 誰のことも守れないまま、守ってくれた人だけが犠牲になるの……? 「 や 、」 望月が喘ぐ。 鬼が笑う。 恐怖に任せて舞雪は――絶叫した。 「いやああああああああああああああああああああああああああああああ――」 ――ほぼ同時に。 何者かの影が、疾風の如く鬼の腕を断ち切っていた。 「…………な、」 鬼の悲鳴が木霊する。刃の軌跡が、流星のように闇に流れて消えた。 瞬間、中空へ体が放り投げられる。 何が起きた――? 状況を呑む前に、覚えのある声が少女を呼んだ。 「舞雪ちゃん!!」 咄嗟に手を伸ばしていた。白銀の髪が揺れていた。 「月野さん――」 落下地点で待ちかまえる彼の胸へ、舞雪は迷うことなく飛び込んだ。 二人はほとんど予想通りの形で地面に尻餅をついていた。 「ぐぇっ!?」 月野は鈍い声を上げたが、舞雪を放り出すようなことはしなかった。 「あっ、すみません」 「大丈夫、大丈夫。舞雪ちゃんこそ怪我してない? あとウサギちゃんも」 「わたしも風花も……もともとボロボロなので……」 そんなことよりさっきのは、と問いかけるより早く、月野が答えを口にした。 「助かったよ、『十六夜』」 「……まったく、我が主は 応じたのは、幼くも重い響きを宿した少女の声だった。声のした方を見ると、確かに見慣れぬ少女が一人、こちらを睨んで立っていた。 見た目は十歳ほど。切りそろえられた黒髪に、紫紺の瞳、紫の着物。ゆるりと纏われた紅い襟巻きが、夜の中でやけに鮮やかに感じられる。 いつからいたのだろう……周囲には自分達以外には誰もいなかったというのに……。 「あぁ、舞雪ちゃん。紹介するね」 訝しげな舞雪に気づいた月野が、少女を示して言った。 「この子が僕の『人形』。〈 「……〈徒桜〉……って、あの〈徒桜〉ですかッ!?」 出た名前に舞雪は驚愕した。一方、月野は「うん。あの」とのんびり頷いた。 鬼斬り人形〈徒桜〉――絡繰り人形の神童と呼ばれた人形師・ 「協会が管理していることは知っていましたが……まさか……」 「『僕みたいな子供が持ってるなんてびっくり』?」 考えを先読みされ、舞雪はうつむいた。十六夜の視線が肌に痛い。主を見下すような言動をしたと思われただろうか……。 「あ、えっと、気を悪くされました……か……?」 「ううん。ぜーんぜん。よくあることだし」 月野の返答に舞雪はさらに小さくなった。やっぱり失礼だったようだ……「すみません」と呟くと、十六夜が鼻を鳴らすのが聞こえた。 「人形のことなどどうでもよい」 じっとりした目つきで、十六夜は月野を糾弾した。 「いくらなんでもこれは愚かという他あるまい。小娘一人に気をとられおって、挙げ句自らは足止めを食らい、友の命を危険に晒し……どちらも助けが入ってなければ死んでいたな。阿呆だな、馬鹿だな、だから人は道を誤ってばかりなのだ」 「いやん、面目ない」 月野がおどけて肩をすくめると、もう一段低い声で「真面目に聞かぬか、このたわけ小僧」 「いい加減にせんと儂が……」 「はいはい。小言はそこまで」 十六夜が拳を握りしめたところで横槍が入った。その声に、舞雪は弾かれたように顔を向けた。 「望月さん!」 「おっと」 立ち上がろうとして、全身の痛みに動きが止まった。望月はそんな舞雪を抱き留める形で、地面に座らせた。 「まだ立つなよ怪我人」 「望月さんこそ……怪我は」 言いかけて、白い首筋に浮かぶ青黒い痣が目に入り、やめた。 「……すみません。わたしのせいで」 「別に。今までも何回か死にかけてるし」 「それは鬼関連ですか」 「まあな。相棒がコレだから」 親指で月野を指して言う。それで舞雪は思い出した。くるっと月野へ向き直り「月野さん」 「なぁに」 「〈徒桜〉の所持者ということは、あなたも協会に属する鬼斬りなのですよね? 一般人である望月さんを巻き込み、あまつさえ内部の情報を漏らしていることについて、いくつかお聞きしたいのですが」 「ゲッ、」わかりやすく月野は反応した。 「えぇ……それ今必要?」 「反応するということは協会規律についてもご存じなようですね。協会会長の孫として見過ごせません」 「………………ぅえ……? 舞雪ちゃん会長の孫なの?」 「知らなかったんですか? じゃあなんでわたしの名前知ってるんですか。あなたに名乗った記憶はありませんよ」 「だってさっき遼君に名乗ってたじゃん。あと僕ルールは知ってても会長の名前は知らないの」 「聞こえてたんですか!?」 あの距離で!? なんという地獄耳…………じゃなくて。 「とっ、とにかく! 帰ったら報告しますからね」 「お好きにどうぞ。僕らには今さらだしね」 ただ、と月野の双眸が暗い色を宿した。 「舞雪ちゃんには悪いけど。あのジジイが、遼君にろくでもないことしかけたら、即息の根止めに行ってやるから覚悟しとけよ」 凄まじい殺気に――瞬間的に、背筋が凍てた。 「……おい月野。口調変わってる」 「おや失礼」 「こんなところで問答してる場合なのか」 望月の言葉に、月野は「してる場合じゃないねぇ」と呑気に返した。 「舞雪ちゃん舞雪ちゃん」 「…………馴れ馴れしいです」 「ヤダ、急にツンデレ発揮し出しちゃったわこの子」 「俺の交友関係にオネエはいないぞ」 「主、その喋り、癇に障る」 望月と十六夜の苦情をそよ風と受け流し、月野は「んー、どうしよっか」 「じゃ、ノノちゃんで」 「わたしは“野之”です」 「とりあえずノノちゃん、このままだとノノちゃんもウサギちゃんもよろしくないでしょ。僕らが送るよ」 「結構です」 「そのフラッフラな体でどうやって動くの?」 「む、迎えを頼みます」 言うが早いか、舞雪は携帯を取り出し、家の番号へかけた。数回のコールの後、応えた家政婦に現在地と状況を伝え、迎えの車を頼んだ。 「……うーん、さすがは会長の孫娘」 「皮肉ならいりません。もう十分程度で車が着きますので」 「そう。それならもう僕ら、いらないね」 月野が縁の刀を手に「十六夜、お疲れ様」と言うと、十六夜の体は花弁と化し弾けて消えた。淡い色のそれは、冬の夜空に幻想のように散っていった。 「遼君、帰ろっか」 「……ああ」 踵を返す少年二人の背を、舞雪は静かに見ていた。が、途中でふと「あの、」 「あなた方も乗っていきませんか。……その、夜も遅いですし」 応じたのは望月だった。 「俺達、まだ寄るところがあるんだ」 「……そうですか」 「あんた、早いとこ手当してもらえよ。相棒も」 「はい。……ありがとうございました」 ぺこりとお辞儀をした舞雪に、望月は、 「じゃあな」 小さく優しい笑みを浮かべて、去っていった。 * 「……あの子、遼君には素直だよねぇ」 「お前が協会規律とやらを守ってないからだろ」 「どうかしら。僕が奮闘してる間に口説いたの?」 「バカ言え。お前こそさっき抱き合ってた癖に」 「不可抗力でしょ。おや、嫉妬? 嫉妬ですかモッチー」 「ざけんな」 「いいのよー。ノノちゃん可愛いし、無理ないよー」 「…………なあ、月野」 「何?」 「お前はこのままでいいのか? 俺みたいな荷物連れて」 「……当たり前でしょ。今さらどうしたの?」 「……別に」 「あー、お腹すいたー。近くのコンビニ寄ってかないですかモッチー」 「いいけど、刀どうにかしてからにしろよ。あと変なあだ名で呼ぶのやめろ」 * 傀儡師の少女が、二人の少年と出会ったその夜。 偶然と必然の歯車が、運命という絡繰りを動かし始めた。 彼らはその前で踊る人形でしかなく、抗う術などどこにも無いはずだった。 そう――人形のうちの一人が、自ら |
時雨ノ宮 蜉蝣丸
2015年09月10日(木) 23時01分55秒 公開 ■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.4 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:0点 ■2015-11-06 01:12 ID:7N4tj3I1OZ6 | |||||
通りすがり 様 コメント感謝致します。 そうですね、連続としても単品としても読めるような仕上がりと思います。 楽しんでいただけたならば幸いです。 ありがとうございました。 |
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No.3 通りすがりです 評価:30点 ■2015-11-03 18:18 ID:W.SanRdNWms | |||||
凄いなと思います。 私はこんなに長いのは書けないし、読んでいて絵がきちんと浮かんできました。 連作短篇みたいな感じですよね(メッセージ読んでなんとなく納得です)。 面白く読めました。 |
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No.2 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:--点 ■2015-09-13 18:02 ID:WTIMKAhaPbM | |||||
ゆうすけ 様 コメント感謝致します。 舞雪さんの外見設定は、実は原作小説が手直し中故に、未だに黒髪以外決まっていないのです、「顔は平均以上、体型は平均以下」くらいのことしか……。 バトルシーンに関しては、風花の戦闘スタイルは「ギャップ」目指して書いていたのですが、文章で表すとやっぱりわかりづらくなってしまうのですよね……工夫と思考がもう二、三必要そうです。 もとがスピンオフで(察されているとは思いますが)本来のキーマンが月野さんで舞雪さんは脇役なため、あまり「能力覚醒ッ」な感じを出したくなかったというのもありました。身構えさせてしまい申し訳ありません(謝 続編が書ければいいかな……という具合です。 精進致します。ありがとうございました。 |
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No.1 ゆうすけ 評価:30点 ■2015-09-12 14:21 ID:OIoHUFW/beo | |||||
拝読させていただきました。 丁寧な文章で、読者を楽しませようとして書いていると感じました。作品世界舞台設定がしっかりと構築されていますね。序盤で丁寧に説明してあるので分かりやすいです。中盤でやや説明が多い気もしますが、私は設定ファンなので楽しめました。ついでに冒頭で、主人公がどんな女の子かも、もうちょっと描写していただけますと、バトルシーンをイメージしやすいですよ。 鬼の設定、物理攻撃だけで西洋のオーガのような印象です。精神攻撃とか、物理攻撃無効化とか、個性があった方が面白さが増すと思いました。せっかく熱いバトルを描くのですから、なんらかの因果もあった方がより白熱しそうです。 ウサギ型戦闘ロボ、短い足での豪快な蹴り、物理的に難しそうな気もします。人口に膾炙したやり方ですと、心霊的なパワーを行使しますよね、むしろ物理攻撃オンリーの方が独自性があるかな。 「いやあああああ」の絶叫で、何らかの隠された力が覚醒したかと思ったらまさかの援軍到着。昔読んだ「さるまん」に載っていたのですが、超能力覚醒は主人公がピンチで叫んだ時って、これ読んじゃったからいつも構えちゃうやら自分で書けないやら。 二人の男の子登場、それぞれが思わせぶりなキャラですね。 主人公の暗い過去など、面白そうな全景の一部だけ見せてもらったような印象です。 ありゃりゃ、最後にメッセージを見て納得。 |
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総レス数 4 合計 60点 |
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