森の住人 フェネック
 森の住人 フェネック
  

 目の前に広がる緑の濃さは平地のそれとは比べ物にならなかった。太陽を奪い合う木々のおかげで、まだ夕方にもなっていないのに辺りは薄暗かった。
 かれこれ二時間は歩き続けている。アルトは膝に手を着き息を吐いた。肺の中に入る大気も平地で吸うもとのはまるで違う、湿り気を含み、少しだけ甘い香りがする。まるでこの古い森が溶け出しているようだった。
 このまましばらく休みたかったが、あと数時間もすれば辺りは完全な暗闇になってしまう、アルトは息を大きく吸い込むと腰の高さまである羊歯の群生を押しのけて前に進んだ。
 羊歯の葉はみっちり所狭しと生えているが、アルトの進む道はその密度が少しだけ薄かった。この道は動物が通る獣道なのか? それとも全く別の生き物が…… やはりここは人が入り込んではいけない所だとアルトは感じた。
 そのとき背後から羊歯の葉を大きく揺さぶる音が聞こえた。アルトは慌てて振り返る、だがそこには何も居なかった。羊歯の葉がアルトをあざ笑うかのようにゆらりゆらりと揺れているだけであった。
 まただ、緩衝地帯に入ってから見張るような視線はずっと感じている。緩衝地帯では何処からともなく小石が飛んできたが、彼らのテリトリーである古き森に入ってからはそんな妨害もなくなった。かわりにこちらを見張る視線の量が格段に増えた、三百六十度全てからこちらを見張られている様な気がする。
 
 無断で彼らの領土に入り込んだのだ。ただでは帰してくれないだろう。だが、自分の身を捨ててでも彼らと対面しなくてはならない理由がアルトにはあった。
 アルトの住む村は二十人と少しの小さな村であった。元々は四十人ほどいたのだが、五年前、国から戦争に備えると言われ若い男達が徴収された。おかげで村に残ったのは女と老人と子供だけになってしまった。
 男達がいなくなった村は盗賊に狙われて、略奪や人さらいの被害にあったが、残った村人は力を合わせて生きてきた。
 懸命に命を繋げてきた村だが、今年は例年にない飢饉に襲われる。日照りも良く、雨をも十分に降っていたが、なぜか作物が育たなかった。根菜は小さくなり、小麦は実を付ける前にボロボロと崩れ落ちた。
 不作の原因は分からなかった。近くにある隣村でも不作とのことだった。隣村では南の空が七色に光っていたのを見たという者がおり、神の祟りが起きたのだと信じる者が居た。
 もうすぐ冬だというのに備蓄していた食糧も底をついてしまった。このままでは村人全員が飢え死んでしまう。
 苦肉の策として森の住人、フェネックに食料を分けてもらうという案が出た。フェネックは人間とは別種の生き物であり、属する国家も文化も異なる。二つの種族にほとんど交流をもっていない。
 森のすぐ近くに住むアルトたちも直にその姿を見た物はいなかった。ただ御伽噺のような形で彼らのことは皆知っていた。フェネックは人とほとんど変わらない姿をしており、頭が良く、理性的で、森を守っているというのが一般的なイメージだった。
 人間とフェネック、二つの所属の間には緩衝地帯が設けられており、どちらの種族もみだりに入ってはいけない決まりとなっていた。緩衝地帯は人の手の付いていない動物たちの楽園となっていた。
 以前、豊富な動物を狙って緩衝地帯に入った村の男がいた、だが、ある日突然村に帰って来なくなった。村ではフェネックに連れ去られたのだと噂が立った。

 森の住人、フェネック達から食料を分けて貰わなければ村は絶滅する。いや、食料を分けて貰わなくとも、緩衝地帯で狩をする許可さえもらえれば、それさえ認可されれば村は生き残れる。だが、上手くいくのだろうか? 自分の身はどうなるのだろうか? アルトの心臓は不規則な鼓動を打っていた。
 緩衝地帯は既に越え、彼らの領土である古き森に入っている。森の奥に進めば進むほど視線の数は増加していく気がした。
 ガサっと音がして目の前の羊歯の茂みが大きく揺れた。アルトが驚きながら視線を向けると大人の犬ほどの大きさの影が動いていた。だが、影は次の瞬間には森の深みに入り込み消えていた。
 一体なんだ? 彼らがフェネックなのか? 不安と興奮が入り混じりアルトの呼吸は荒くなっていった。
「おーい! 誰かいるんだろー! さっきから見ている人! 君がフェネックなのかー!」
 森は静まり返っている。アルトの問いに答えるものはいなかった。
 くそ! 心の中で苛立ちを吐き出しアルトは再び歩き出した。夜になるまでにフェネック達に会わなくてはならない、古き森にはどんな怪物が潜んでいるのかわからない、次第に弱くなっていく日を感じてアルトは焦っていた。
 何の気なしに茂みに踏み込んだ。途端にアルトは足元がズルリと滑る感覚を味わった。続いてしりもちをついてしまう。だがそれで終わりではなかった。アルトの右足は天を向き、ぐんぐんと引き寄せられていった。
 なんだ!? 半分パニックになりながらアルトは辺りの状況を見渡した。右足のくるぶしのあたりに太いロープが掛かっている。そのロープは真上にある木の枝に架けられており、アルトの身体をグイグイと引き寄せていた。
 罠だ! と気が付いた時にはすでに遅く、アルトの身体は地上から二メートルほど浮き上がっていた。
 すぐに縄を解かなければと腹筋に力を入れるアルトの目に異様な光景が飛び込んできた。先ほどまで無人だった森から赤い顔をした小人、いや、子鬼達がワラワラと溢れ出てきた。
 子鬼達はボッ、ボッと叫び声を上げながら吊り上げられてたアルト目指して集まってくる。
 子鬼達は頭部が体長の三分の一程も有り、耳が尖り、鼻が低く、目が釣り上がっていた。恐ろしい化け物、アルトは率直にそう思った。
 まさか彼らがフェネックなのか? アルトが下ろしてくれと叫び声を上げようとした瞬間、後頭部に大きな衝撃が走った。
 何か硬いものをぶつけられた。最後に抱いた感想はそれでアルトの意識は途切れた。

 頭が氷のように冷えて、ズキリと痛んだ。おまけに鼻が詰まって吐きそうなほど気分が悪い、ゴボッ、ゴボッと獣の咳き込みのような声が耳に入ってくる。意識を失う前の事など忘れておりアルトは目を開いた。
 うおっ! 我知らずに叫び声を上げてしまった。アルトの周りには無数の子鬼が取り囲んでいる。声に反応したのか子鬼達は黒目しかない目をアルトに向けた。
 アルトは子鬼達を刺激しないように目だけを動かして状況を探った。日はさらに沈んでいるがまだ目で辺りを探れるだけの光はある。気を失った場所からは移動しているようで、辺りには羊歯のような茂みは無く、くすんだ黄金色の砂地が広がっていた。
 そして自分は逆さに吊られている。ロープは低く下げられており、地面に頭が着くすれすれまで下ろされている。だが、手は背中に回されてロープできつく縛られており、両足もきつくロープで縛られていた。全く身動きが取れなかった。
 子鬼達は、三十、いや、四十匹はいるだろうか? こうして様子を伺っている間も森の中から新しい子鬼が集まっていた。彼は吊られているアルトの目をじっと見ていた。
 彼らがフェネックなのだろうか? アルトの中に疑問が沸いた。御伽噺の中ではフェネックは頭が良いと聞いていたが、目の前の子鬼達の瞳からは理性の欠片さえ感じなかった。
「放してくれよ、俺は森に盗みに入った訳じゃないんだ。ただ話をしにきただけなんだ」
 誰に向ける出なくアルトは言った。すると一匹の子鬼が飛び出してアルトに向かってきた。こいつがリーダーか? 飛び出した子鬼の顔を見てそう考えたのも一瞬で、次の瞬間には別の所を注視して寒気が走った。
 飛び出してきた一匹の手には鋭く尖った石が握られていた。
「オイ、やめてくれよ! 何もしてないだろ!」
 アルトは叫び声を上げ、不自由な身体を揺らしたが、石をナイフの様に握った一匹は臆すること無くアルトに向かってきた。子鬼は三十センチ程の大きさだったが、逆さ吊りの状態のアルトには大きく見えた。
 石を握り締めた一匹がアルトの鼻先で止まった。子鬼の身体からは雨に濡れた犬の様な匂いがツンとした。お互いの吐息が当たる距離で子鬼はアルトを見下すように睨めてつけていた。
「たのむ…… やめれくれ……」
 アルトは震える声で懇願したが、子鬼は全く意に返えさず石のナイフを握った手を振り上げて、アルトの喉元に振りかざした。
「止まれ!」
 背後から良く通る少女の声が聞こえた。石のナイフは首の薄皮一枚を破ったところで止まっていた。声は子鬼達に耳にも届いたのか皆微動だにせず、声の聞こえた方向をじっと見ている。
「その人間を放してやれ、足のロープを切れ、手は縛ったままだ、首にロープを付けろ」
 少女の声がそう言うと、子鬼達は一目散に動き出した。ロープを持った二匹がアルトの周りをぐるりと回り、アルトの首をきつく縛りあげた。あまりにもきつく絞めるのでアルトは咳き込んだ。
 ブチリッ 何かが切れる音が聞こえると、頭と肩が地面に衝突して、受身の取れない腰が地面に叩きつけられた。しかし、痛いと感じたのも一瞬でうっ血した血液が身体に巡りアルトは生き返るような気分だった。
 しばらく息を整えてから上半身を上げてみると、二匹の子鬼が石のナイフを振り回して足のロープを切っていた。乱暴な手つきに冷やりとしたが、足を切られることは無かった。
 助かった、アルトは安堵して大きく息を吐き出した。少しだけ落ち着つくと、五メートル程離れた所からじっとこちらを見ている少女の姿が目に入った。
 その少女は灰色のフードを被っており顔は良く見えなかった。何処にでもいる普通の女の子にも見えたが一目で人間では無いと分かった。深く被ったフードに切込みが入れられているのか、尖った狐のような耳がピンと飛び出していた。
 フェネックだ、彼女がフェネックだ。アルトは確信した。
「お前達はもういい、解散」
 少女が号令をかけると子鬼達は三三五五森に向かって散りすぐに一匹もいなくなった。
「おまえ、立てるか?」
「あ、はい、たぶん大丈夫」
 立ち上がってみると少し立ちくらみがしたが、吐き気がするぐらいで歩くことに支障はなさそうだった。アルトの首から伸びているロープの先を少女はしっかりと持っていた。
「付いてきてもらう」
 少女はアルトの返事を待たずに踵を返すと、森の暗闇に向けて歩き始めた。アルトはロープに引っ張られないように少女の後を歩いた

「あの、貴方がフェネックですか?」
 アルトはどうしても我慢できなくて言った。少女に連れられて歩くこと一時間、日はすでに沈んでいる、僅かな月明かりを頼りに二人は進んでいた。道は再び羊歯の群生地帯に入っていた。
「ああ、そうだよ」
 思いのほか少女は素直に答えてくれた。
「あっ、そうだ。助けてくれてありがとう。もう少しで殺されるところでした」
「別にお前の身を案じての事じゃない、ゴブリンが人間の味を覚えると面倒になるからだ」
「さっきの小さな鬼みたいな奴らですか?」
「ゴブリンだ。森に入った人間を見張らせている。一度人間を喰うと次は人の子供を狙うようになる」
 もう少しで喰われていたのか、今更ながらにアルトは背筋が凍るようだった。そして助けてくれた少女に対して感謝した。
「本当にありがとう」
 二度目の感謝の言葉を少女は無言で返した。フェネックの少女と話すうちにアルトにふと疑問に思うことがあった。
「言葉って普通に通じるんですね、人間と同じ言葉を喋るんだ」
「……私達が人間の言葉を喋ってるんじゃない。人間が私達の言葉を盗んだんだ」
「そうなんだ。知らなかった。あと、これから何処に行くんですか?」
「私達の村に来てもらう。そこで裁判を受けて貰う」
 裁判、普段聞かない物々しい言葉にアルトはゾクリとした。
「これから僕はどうなるんですか?」
「フェネックの領土である古き森に入った人間は、フェネックの法に従って裁判を受ける。罰はそこで決められる」
 やはり罰せられるのか、これからどうなるのかと不安を覚えた。
「待ってください。無断で森の中に入ったことは謝ります。でも、僕は何も取っていません、ただ貴方達と話したかっただけなんです。僕の村では作物が育たなくて、少しだけでいいから食料を分けて貰いたくて……」
 少女は不意に振り返った。フードで隠れて顔は見えなかったが、冷たい目で睨みつけられている気がした。
「それは我々とは関係の無い話だ。無断で人間が森に入ったという事が重罪なのだ」
「そんな、このままでは村が絶滅してしまうです」
 少女はアルトの言葉を聞き流すように森の先へ先へと進んでいった。首を引っ張られないようにアルトも後に付いていく。
「……村のことよりも自分の身を案ずるんだな」
 それってどういう、アルトが声を出す前に少女の言葉が続いた。
「着いたぞ」
 カーテンの様に垂れ下がったツタを少女が退けると、向かい側から僅かな光が漏れてきた。アルトは息を飲んだ。目の前に広がる光景は子供の頃にした想像と一致していた。
 月明かりが巨大な木の上に立てられた家々を優しく照らしている。村の中心を通る小川が月光を反射してキラキラ光っていた。家々の扉の前や小川の周辺を炎ではない何かが照らしていた。
「まずは地区長に会って貰う」
 幻想的な風景に見とれているアルトに構うことなく少女は歩き出した。

 ふんわりとした若草がフェネックの村全体に敷き詰められていた、それらを踏むとひんやりとして気持ちが良かった。村には木の上に立つ家が二十件ほどあったが、直接地面から建っている建物もあった。
 アルトが村の中ほどまで足を踏み入れると、家々の窓が開き人が出てきた。彼らも獣のような耳をピンと立たせており、遠くから物珍しそうにアルトの様子を伺っていた。
 村の一番奥、一番大きな木の上に立つ、一番大きな家の前に着いた。家には梯子が架けられており、少女とアルトはそれを登った。
 少女が家に付けられた戸を三度叩くと、中から男の声でどうぞと声が聞こえた。失礼しますと少女が言ってドアを開ける。
「トリアナ!」
 小さな男の子の声が聞こえた。アルトが中に入ると部屋の中心で固まっている少年が見えた。少女の姿が見えて飛び出して来たが、人間のアルトを見て固まってしまった様だ。
 男の子はしばらく静止していたが、追い詰められた獣のように素早く小さな窓から外に出て行ってしまった。
 この少女の名前はトリアナというのだろうか、少女の顔を見ようと隣をみたが、やはりフードに隠れて見れなかった。
 家の中はゴチャゴチャと散らかっていた。古い本が木製のテーブルの上に溢れかえっている。
「悪いね、散らかっていて」
 こちらの意を見透かすような言葉だった。ベランダに続く窓際に老人が座っていた。白髪の豊かな髪をしており、口に含んだ枝のようなものをグニグニと噛んでいた。少女と違い老人の耳は少しだけ垂れて白くなっていた。
「侵入者一命連れてきました」
「ご苦労、二人とも楽にしなさい」
 はい、そう言って少女は足を少しだけ開き、手を後ろに回した。アルトもそれに習い少し足を開いた。
「さて、人間の君、君はドルバルラ領の人間かね?」
「え? あ、はい、そうです」
「国印の入った通行証は持っているかね?」
「い、いいえ」
「国を代表しての使者でもないね?」
「は、はい」
「では、ドルバルラの国から何の許可も無く、この古き森に足を踏み入れたんだね?」
「まぁ、そうです……」
「わかった」
 老人は眉間に皺を寄せて手元にある手帳を開くと何かを書き込んだ。
「明朝十時に裁判を開始する。留置場に居なさい。トリアナ、彼を案内してあげてくれ」
 少女は踵を返し外に繋がるドアを開いた。待ってくれ、このまま帰る訳にはいかない、村には飢えている人達がいるんだ。アルトの脳裏には腹を空かした村人達が浮かんだ。
「ちょっと待ってください! 村には飢えてる人が……」
「君らの事情は関係ない。君は国と国とが定めた約束を破ったのだ。侵入者にはこちら側の裁量で裁ける条約がある」
「でも……」
「何をしている、早く来い」
 少女の持つロープがグイと引かれアルトの喉を絞め上げた。
「君の身は明日の裁判で決める。それまで大人しく待っていなさい」
 待ってください、そういう訳にはいかないんです。アルトは声を出そうとしたが、少女に引っ張られて家の外に引き出された。

 月の光が小さな窓から入ってきている。留置場は四メートル平方の狭い空間だった。アルトのいる区画以外にも同じものが三つある。外側の壁は石で出来ており、鍵のかけられた格子は木で出来ていた。 
 牢に入った後ですぐに手のロープは切られた。トリアナと呼ばれていた少女はここで待っていろとだけ言い、格子に鍵をかけて出て行ってしまった。
 これから自分はどんな罰を受けるのだろうか、村には食料が与えられるだろうか、アルトはあまりに不安になり腹が痛くなってきた。
 木の擦れる音がした。目を向けるとトリアナと呼ばれていた少女が木の盆を持って立っていた。
「夕食だ。人間の口に合うかは分からないが」
 そういって少女は受け渡し用の小さな格子を開けて盆を押し出した。盆の上には木の器に入ったスープと木のスプーンが載っていた。
「食べていいのかい?」
「ああ、どうぞ」
 アルトは慎重にスープを口に含んだ。食べてみるとただの野菜スープだと気が付いた。小さく切られた白菜とニンジン、それに里芋が三つ入っていた。味付けはしておらず、美味いとは感じなかったが腹がすいていたので夢中で食べた。
 食べ終わってから自分に向けられている視線に気が付いた。少女はじっとこちらを眺めている。
「ごちそうさまでした」
「盆を返してくれ」
 少女は盆を返却された後も立ち去ることなくじっとアルトを眺めていた。アルトはいたたまれずに声を出した。
「あの、何か?」
「いいや、別に用はない、人間が珍しいから観察していただけだ」
「そうですか」
 しばらくの沈黙があった。アルトはなにやら重苦しく感じて視線を窓の外の月に投げた。
「名前は?」
「え?」
「名前だよ、人間にも名前を付ける文化はあるんだろう?」
「ああ、オレはアルト」
「聞いておいて自分は名乗らないのは無礼だな。私はトリアナだ」
 トリアナと名乗った少女は深く被ったフードを外した。アルトはトリアナの顔を見て息を飲んだ。綺麗だ、シャープな顎と切れ長な目が完璧とも言えるバランスで配置されていた。小さな村で育ちあまり多くの人を見てきたとは言えないアルトだが、滅多にいない美しさだと思った。
「なんだ? じろじろと」
「いや、なんでもない」
 トリアナが美人と分かるとアルトの心臓は勝手にソワソワと騒ぎ出した。二人きりの状況が急に落ち着かなくなり、立ち上がりウロウロしたくなったが、何とか堪えた。
「単純な興味で聞くんだが、何故私達の森に入った?」
 それは何度も言っているだろう? どうしてそんな事を聞くのかと思いトリアナの顔を見たが、目が合ってしまいアルトは顔をそむけた。
「おまえの村が窮地なのは分かっているが、何故他所の村や町に助けを求めないんだ? 我々フェネックに助けを請うより同じ人間に頼んだ方が良いだろう?」
「それはやったよ、でも他の村も余裕が無いんだ。何処も俺たちの村と同じように作物が全然育たなかったんだ」
「それでお前が森に物乞いに来たのか」
「そうだよ」
 トリアナはふーんと声を出すとアルトの顔をじっと見た、物乞いという言葉が引っかかり見返してやろうと思ったがやはり目を反らしてしまった。黙って見られているのも居心地が悪いのでアルトは目下一番気がかりな事を聞いてみることにした。
「裁判って言ってたけど俺はどうなるんだい?」
「フェネックの森に入った人間は裁判で罰を決める。森の中に入ってくる人間は多いんだよ。この地区だけでも年に五人は入ってくる。道に迷った者、緩衝地帯や森の中で狩をして捕まった者、お前のようにフェネックに会いに来た者」 
 以外だった。幻想の権化とも思っていたフェネックにそれほど多くの人間が会っているとは思いもよらなかった。
「入ってきた者は皆、絞首刑だ」
 その言葉の意味はすぐに頭の中で像を結ばなかった。絞首刑? 首吊りのことか? 言葉の意味を理解するとアルトの全身に鳥肌が立った。
「ちょっと待ってくれよ! 首吊り? うそだろ! 俺は何もしてないよ! 何も食べてないし、取ってない!」」
「人の庭に勝手に入ったんだ。殺されても文句は言えない」
 アルトは必死に訴えたが、トリアナは事も無げに続けた。
「人間の世界でも、城や宮殿の中に勝手に入り込んだら殺されるじゃないのか?」
 そうかもしれないが、いきなり殺すことは無いだろう! アルトは何とかトリアナに反論しようとしたが、頭の中は死への恐怖と混乱で錯綜していた。言葉を出そうとしても思考が散らばり言語化できない。
「朝には結果がでるさ」
 トリアナはそう言うと踵を返して出口に向かった。アルトは必死に呼び止めたが彼女は止まる事も振り返る事もせず、牢獄から出て行った。
 一人取り残された牢獄は窓から虫の音色が聞こえてくるだけでひっそりと静まりかえっていた。

 一睡もしないで夜を明かした。日が昇って二時間程経つとトリアナが昨晩と同じスープを持って牢獄にやって来た。
 極度の緊張からか空腹も感じず、抗議の意味も込めて食事を絶とうと思っていたが、もしかすると最後の食事になるかも知れないと考え、結局は全て飲み干した。
 食事が終るとトリアナは牢の中に入ってきてアルトに手錠をはめた。牢の外に出してくれたが、首についた綱はしっかりと握られていた。
 逃げ出してやろうかとも考えたが、村を抜け出せたとしても土地勘の無い森の中では遭難するだけだと思いやめた。裁判とやらで罰が決まってから逃げ出そうと決めていた。
 トリアナに連れて来られたのは、木の上ではなく地面に建てられている大きな平屋だった。中に入ると三十平米ほどの間仕切りの無い大きな空間で、真ん中に椅子があるだけで余計なものは何も無かった。
 奥の方は段差があり他よりも一段高くなっていた。そこに三人のフェネックが椅子に座っていた。三人の真ん中に座るのは昨日あった地区長といわれていた老人で、左が地区長と同じくらいの年の男、右が同じく老いた女だった。
 アルトはトリアナに連れられて空間の真ん中にある椅子に座った。一段高みにいる老人達からちらりと視線を向けられた。
 地区長が軽く咳払いをすると立ち上がった。
「これより裁判を始めます」

 肩に食い込んだ木の棒が酷く痛む。そのまま倒れそうになる所を寸前で踏ん張った。前後にぶら下げた桶の中の泥水がチャプチャプと危うく揺れている。
 作業を始めて三時間、これは思っていたより骨が折れるなとアルトは辟易とした。
 裁判はすぐに終った。地区長が人間とフェネックの間に取り交わされた条約の序文を読み上げた後で判決は言い渡された。
 本来フェネック領の森に入った人間は死刑だが、今回は身元引き受けの申し出があった為例外とする。被告の身元をフェネックに帰属させトリアナ預かりとする。アルトは最初言葉の意味が分からなかったが、時間が経つにつれて人間の世界を抜けて、フェネックの為に尽くせという判決の意味合いを薄々と理解した。
 絞首刑と聞いていたので助かったとアルトは喜んだが、奴隷となった身の上を理解するとしだいに青ざめてきた。傍らに立つトリアナの横顔をチラリと覗くと一点を睨みつけているだけで心意は分からなかった。
 裁判が終わり、平屋から出るとトリアナは手錠と首に掛けられた綱を取ってくれた。
 とりあえず礼を言わなければならない。死刑であるはずの所をトリアナに救われたのだ、アルトが感謝の意を伝えるとトリアナはそっけなく構わないとだけ答えた。
 次にアルトがこれからの事を不安に思い聞いてみると、別に何も決めていないと言われた。別にお前を奴隷の様に働かせるつもりは無い、ただ村には絶対に返さないと言われた。
 このままここで暮らせと言うことか? それではまるでペットかじゃないか! アルトが言うとトリアナは無表情でそれが一番近いかもなと答えた。
 トリアナの住居は他のフェネックと同様木の上にあった。だが、アルトはトリアナの家に上がれる訳ではなく、その下にある木の洞が新しい住処として与えられた。
 木の洞の中には古い藁が少しだけ残っており、動物の糞の匂いがした。昔馬を飼っていたらしい、掃除すればまた住めるようになるだろう言ってトリアナは木の上に行ってしまった。
 一人残されたアルトは掃除を始めた。見てくれは綺麗になったが、染み付いた獣の匂いは簡単には取れなかった。
 薄暗い洞の中でアルトは自分の村の事や森の中から逃げ出す方法を考えたが、良い考えは浮かんで来なかった。太陽が真上から少しずれた頃、トリアナがスープを持って降りてきた。
 アルトはこのまま何もしないのは嫌だ、何か自分の村の為にしたいと言うとトリアナはしばらく思案する様子で天井を眺めて言った。
「だったら仕事をやろう」

 日はすでに沈みかけており世界を赤く染めている。目の前には五〜二十平米程の泥沼が十数個見えた。どの沼も生き物の気配などは無く、すえた臭気の様なものを放っている。
 トリアナから言い渡された仕事はいたってシンプルだった。この泥沼の泥水をすくって十メートル程離れた草の生えた平地にぶちまけるのだ。
 元々こんな泥沼は無かったが、昨年大雨で川が氾濫した時に出来てしまったらしい、そして淀んだ泥水に蚊が大量に卵を産み付けているらしく春になるまでに駆除しなくていけないのだとトリアナは言った。
 アルトは前後に桶を垂らした木の棒を肩に担ぎ、休み無く泥沼と平地を往復した。沼地まで行くと前後の桶に同じだけ泥水を入れる。入れる量が違うとバランスを崩し転倒しそうになる。 
 草の生えた平地に泥をぶちまけた後で、泥沼の手前にある木に付けた鈴を鳴らす。鈴を鳴らさせば、村にいるトリアナの耳にも聞こえるらしい。今日トリアナから言い渡されたノルマは三百往復だった。
 過酷な仕事だったがアルトは挫ける訳にはいかなかった。ノルマの三百回をこなせばジャガイモを十二個分けてくるとトリアナが約束してくれた。もちろんもらったジャガイモは全て村に届けて貰う。
 村の人口は二十五人なので当然足りることはないが、明日からノルマの数を増やせばジャガイモも増やしてくれると言ってくれた。
 沼地と平地の一回の往復で約二分かかる。計算するとおおよそ三百往復するのに十時間以上かかる計算となった。しかも後半は疲れが出るためさらに遅れるかもしれない。
 しかし、村の人々は腹を空かしているのだ。これしきの事を何だというのだ。アルトは一向に減る気配の無い泥沼を恨めしく思いつつ作業を続けた。

 体が痺れて動かない、肺が震えて呼吸の仕方がおかしくなっている。アルトがノルマを達成出来たのは日付が変わる直前だった。
 藁を敷いただけの住居に戻ってくると冷めたスープが置いてあった。食べようと思ったが胃が痙攣して体が受け付けなかった。仕方なく口を湿らせる程度にチビチビと水気だけを身体に入れた。
 スープを飲み干した後は意識が無くなり、泥のように眠った。
 物音で目を覚ました。目を開けるとトリアナがスープを持って立っていた。起き上がろうとすると筋肉が悲鳴を上げ、痺れるような痛みが走った。
「今日も仕事するか?」
 アルトは何とか腰を上げると首を縦に振った。
「ジャガイモは届けてくれたのか?」
「ゴブリン共に運ばせた。村人は天の恵みだと泣いていたそうだ」
 嬉しかった。その言葉を聞くだけで昨日の疲れが癒されるようだった。
「今日のノルマは五百回だ。ジャガイモは二十個に増やす」
 先ほどとは反対に聞くだけで体が重くなった。きっと作業を終えるには十六〜十七、いや、十八時間以上かかるだろう。だが、ジャガイモ二十個ではまだ足りない、村人は二十五人だ。五人が食べられない。それに一日にジャガイモ一つでは腹が持たないだろう。
「どうした? 辞めるか?」
 トリアナはアルトの迷いを読み取ったように言った。アルトはやるよとだけ答えた。作業に行く前に今朝のスープと昨日の具だけになったお椀も腹の中にかきこんだ。
 
 現場に着くとアルトは唖然とした。昨日作業を始める前と泥沼の大きさはまるで変わっていない。何処かから水が沸いているのでは無いかとさえ思った。
 泣き言ばかり言ってられないと桶の付いた棒を担ぐと肩に激痛が走った。服をめくって見ると青い痣がくっきりと出ていた。さらに手を水に付けると針で刺されたような痛みが走った。皮膚が割れて切れ目が出来ていた。
 手の切れ目は服を破き唾を付けた布で巻いた。桶の付いた木を担ぐ肩は左右交互に変える事にして負担が蓄積しないようにした。
 昼を少し回るとトリアナがスープを持ってやって来た。アルトが食べているところをトリアナはじっと見ていた。
「なんだい?」
「いや、別に、ただお前がどうしてそこまでするのかと思ってな」
 アルトはそんなこと当たり前だろと思って、村の為だと答えた。
「村か、……それにそこまでする価値はあるのか?」
 何を言っているんだと思った、そんな事当たり前じゃないか。
「アルト、お前は捨て駒にされたんじゃないのか?」
 そんなわけ無いだろう! アルトは声を荒げたがトリアナは淡々と続けた。
「だってそうだろう? 行ったら戻ってきた人間の居ない森に行かされたんだ。捨て駒以外何がある? お前が自分で志願した訳ではないんだろう?」
 それは…… とっさに上手く言い返す事が出来なかった。村に残った男達には皆家族がいた。だから家族を支える為にも残らなくて駄目で、必然的にオレが行くしか……
「アルト、村に家族はいるのか?」
 アルトは無言で首を横に振った。
「他人の為にどうしてそこまでするんだ。みんなお前の事なんて考えてないだろうに」
「そんな事無い! 村の人たちは皆家族みたいなもんだ!」
 アルトはトリアナの言葉を振り切るように真っ黒な泥沼に戻った。
 
 水を含んだ重い泥を運びながらもトリアナの言葉は棘の様にアルトの心の奥に突き刺さっていった。
 ―違う、俺は捨て駒にされたんじゃない。村の皆がそんなふうに思っているわけない。
 村の皆を信じよう、そう思っていても一度生まれた疑いは黒い靄の様になって広がっていった。
 アルトには家族はいなかった。両親とはすでに死別している。息子のアルトから見ても真面目で温厚な仲の良い夫婦だったと思う。長男としてアルトが生まれ、その一つ下に妹が生まれた。何処にでもいる農村の家族だった。
 アルトが十歳の頃、共通の知人が死に両親がそろって町まで葬儀に行く事となった。二人が町に行き二日が過ぎ、三日が過ぎ……、何時まで待っても二人は帰ってこなかった。
 何かあったのかと不安を感じた頃手紙が届いた。町に居る母からだった。町では全身に湿疹が広がる病が蔓延しているという、父もその病を移されたとあった。村に病気を持ち込めないので帰れない、父の病が治るまで一緒に居るので私も帰れない、父の容態は快方に向かっているからしばらく妹と待ってなさいと書いてあった。
 手紙の言う通りにアルトは大人しく待っていたが、それが一ヶ月を超えると我慢の限界が来た。あれから手紙も一切来ず、両親の安否がまるで分からない。明日にでも町に出て様子を見てこようと決意した時、手紙が来た。
 見たことの無い字だった。母でも父の字でもない。差出人は町の病院からだった。手紙には簡素に二人が死んだ事が記されていた。
 唖然とした。余りにも突然に事でとてもその事実を信用する気にはなれなかった。だが、両親が帰らず、一ヶ月、二ヶ月が過ぎると二人は死んだのだと実感して悲しみが広がった。
 ―あの二人が何をしたのだ。アルトはこの世の不条理に泣いて憤った。
 両親が死んだのでこれからは自分達だけで生きていかなくてはならない。自分だけでなく妹も抱えるアルトは激しい不安に駆られたが、村は幼い二人を見捨てなかった。
 両親が教え損なった畑の耕し方や、村のルール等を村人はアルト達に親切に教えてくれた。それにアルトは深く感謝した。
 母に似て器量の良かった妹は十五歳の時に町の大商人と結婚した。元々小さな村を出たがっていた妹は喜んで町に出て行った。
 兄として妹が新しい家庭を築くのはとても嬉しかったが、アルトは本当に一人になった気がして寂しかった。
 今年の大飢饉の際、恥を忍んで妹に食料を援助して貰うように手紙を出した。帰ってきた返事には町でも食料は値上がりしており援助する余裕は無いとのことだった。近々、二人目の子供が出来るのでこちらの家庭もきゅうきゅうだとあった。   
 妹に子供が出来たことをアルトは始めて知った。新しい家族が出来た事が嬉しく、見に行って良いかと手紙を出すと返事は返ってこなかった。
 何時まで待っても帰ってこない手紙にアルトは自分は本当に独りになったのだと実感した。ポッカリと心に穴が空いたような気分だった。
 思い返すと食糧援助不可の手紙が届いた際の村のみんなの反応は酷かった。期待していた分の失望も大きく、アルトに罵声を浴びせる者もいた。
 森に送り込む人材の選定は男だけの寄り合いで決められた。寄り合いに参加者は今年十七歳を迎えたアルト以外、五十代以上の老人だけであった。
 フェネックに食料を援助してもらう案はすぐに出たが、誰も志願者はいなかった。戻ってきた者のいない森であるので当然である。
 張り詰めた空気が漂う中でアルトは男達の顔を見渡した。皆年老いているとはいえ誰もが各家庭の家主である。彼らが居なくなればその家庭は今よりもさらに窮地に落ちる事になる。
 つまりは守る者が居るのである。それに引き換え自分は一人で気楽なものだ。死んで悲しむ家族ももういない。いままで世話になってきた村のためならば……
 アルトは手を挙げた。特に反対意見を述べる者はおらず、森に行くのはアルトに決定した。
 確かにあの時、自分は村の為に身を捧げると決意した。だが、あの寄り合いで最初から森に行く人間が決まっていたとしたら考えは変わってしまう。
 正直一番年下の自分が手を挙げると誰かが反対してくれると期待してきた。だが、実際は誰もが顔を伏せながらも安堵の表情を浮かべるだけであった。
 もしかして、俺が森に行くことはすでに決まっていたのだろうか? 身内の繋がりが強い村で自分は孤立していたのだろうか?
 思案に暮れる中、アルトの手に激しい痛みが走った。思わず肩にかけた棒を落とし、せっかく汲んだ泥を撒いてしまった。
 先ほど巻いた布が外れており、手のひらにぱっくりと横にひびが入り血が滲んでいた。アルトは服を破り布を巻きなおした。
 後何回だ? 三四六? いや、三四七か? 先のことを考えると意識が遠くなった。

 何とか気力で乗り切った。作業が終ったのは日付が変わった後だった。藁を敷いた寝床に戻ったアルトは泥の様に眠った。
 目が覚めると最初に感じたのは体の痛みだった。そして気力も萎えているのが自分でも分かった。トリアナに今日は作業に行くのかと聞かれて答えるのに時間がかかった。
 手が痛い、肩も痛い、仕方が無いので桶の繋がった棒は肘で持った。当然効率も悪くなる。このままのペースで進むと何時までかかるか分からない。
 あっと言う間に日が沈み、日付が変わった。朦朧とした意識の中でアルトは何とか歩みを進めていた。
 後二十回、もうすこしだ。僅かな月明かりだけが差し込む暗闇の中である考えが浮かんだ。トリアナはもう寝ているのではないか? 誤魔化せるのではないか? そもそもこちらの作業など見てはいないのだ。ズルをしてもばれるわけが無いじゃないか。
 アルトは沼と平地の間にある鈴の付けている木の前に座った。鈴を指ではじいた。澄んだ音色が暗闇に広がる。大体二分数えてからさらに指で弾いた。
 今日だけ、今日だけは休ませてくれ。明日からはズルはしない。鈴の澄んだ音色がアルトには心苦しかった。
 寝床に戻り、冷めたスープを飲んでいるとはしごを下りてくる音がした。アルトは心臓をキュッと絞められるような感じがした。
 こちらを見るトリアナの目は責め立てるような感じは無く、感情が乗っていなかった。
「お前ズルしただろ」
 ばれている、だが、アルトは白を切った。
「え?」
「鈴に近づく足音で分かるんだよ。座り込んで鈴だけ鳴らしてただろ」
 駄目だ。トリアナは全てお見通しだ。
「悪かった。もうしないから許してくれ。おねがいだ」
「別に苛立ったりはしてない。それより続けるのか? 辞めるのか? 後二十回だぞ」
「行く。行くよ」
 アルトは慌てて立ち上がり泥沼に戻った。身体は限界を超えていてが死に物狂いで泥を運んだ。両手はボロボロにひび割れており、身体を動かすたびに骨が軋むようだった。
 作業を終えて寝床に帰るとトリアナが待っていた。怒っているのかと顔色を伺ったが、そんな様子は無く相変わらずの無表情だった。
 とにかく疲れた、休みたい。アルトが藁に座ろうとするとトリアナの腕がぐいと伸びて手を捕まれた。
「手が割れているな」
 トリアナはアルトのボロボロの手をじっと観察している。
「ああ、痛くて堪らないんだ」
「薬を塗ってやる」
 トリアナは懐から緑色の液体の入ったビンを取り出すと、その液体をアルトの手に振り掛けた。
 緑色の液体が手に触れると痺れるような痛みが走ったが、次第に手がじんわりと暖かくなって痛みが引いていった。
 先ほどまでぱっくりと裂けていた傷口は何か半透明な膜のような覆われており、手を握ったり開いたりしても痛みは全く感じなかった。
「すごい、ありがとう。全然痛くなくなったよ」
 フェネックの魔法の薬なのか、アルトが少し興奮して感謝を述べるとトリアナは意外な言葉を返した。
「手が裂けているのなら何で私に言わなかったんだ?」
 確かに、そういわれてアルトは何故自分はトリアナに言わなかったのだろうかと疑問に思った。
「自分から言わなくても、私が気遣ってくれると思ったか? 辛いなら自分から言え」
「そういうわけじゃ……」
「周りから気遣われて、世話して貰って生きてきたんだろ。ずいぶん甘えて育ったんだな」
 この一言にはアルトもカチンと来た。そんなふうに言われる筋合いは無い。もう寝るとだけ語気を強めて言うと藁の上に寝転がった。
 背後でトリアナがしばらくこちらを見ている空気があったが、しばらくすると梯子を上り自分の家に帰っていった。

 翌朝、手の傷は完全に治っていた。だが、確実に疲れは蓄積されており身体は鉛の様に重かった。
 トリアナがいつものスープを持って降りてきた。
「今日は仕事に行くのか?」
 アルトは少しだけ時間を置いてから行くよと答えた。里芋のスープを飲み干したが、それだけでは足りないと身体が訴えていた。
「頼みがある。もう少し食事の量を増やしてくれないか?」
「この村も余分な食料があるわけじゃない、お前の村に運んでいるジャガイモも本当は私達が食べる物だ」
 交渉の余地はなさそうだった。アルトは諦めてわかったとだけ答えた。
「そんなに腹が減っているなら村に送る分のジャガイモを食べればいい、あれはお前が仕事で稼いだ分だからな」
 村に送っているジャガイモは一日に二十個、そこからひとつくらいは…… 駄目だ。二十個でも十分とはいえない。村の人口は二十五人なのだから。今でも五人が食べられないのだ。
「いや、いいよ。このままでいい」

 三日が過ぎた。もはや限界を通り過ぎていた。定常的に吐き気に催されて、排便と排尿が止まっていた。作業が終るのがますます遅くなり、睡眠時間は三時間を切っていた。
 昨晩は身体が痛みと吐き気で眠ることが出来なかった。美しく差し込んでくる朝日を見ながらアルトは考えた。今日作業に行けば確実に死ぬ。
 何故俺はこんな苦行に耐えているのだろう。すぐに答えは出た。それは村のためだろう。だが、もう俺は村には帰れないじゃないか? 死ぬまでフェネックのペットなのだから。
 苦痛に耐えることに意味があるのかと思った。頭に浮かんできた村の光景が憎いとまで思った。笑顔で笑っている村人達が悪魔のように思えた。
 いつの間にか目の前にトリアナが立っていた。
 行くか? と問われたが何も答えなかった。行くと言う気は無かったが、行かないと言うのも嫌だった。
「……少しだけ待ってくれ」
 そういうとトリアナはいいよと答えて、古びた木の箱の上に座った。
 三十分ほど時間が過ぎた、トリアナは目をつぶってじっと待っている。外は日の光が力を増して爛々と輝いて見える。きっと今から作業に向かえば終るのは明日の朝になるだろう。
「イヤだ、行きたくない」
 自然と口にしていた。それを口にする葛藤や迷いなど無く、心の隙に滑り込また様に半分無意識に言葉を発していた。
 トリアナは目を開けて、こちらを向いてそうかとだけ呟いた。そしていつものようにじっとアルトを観察した。
「何?」
「がんばったな」
 何を言っているんだと思った。こんな辛いことをさせておいてがんばっただと? 綺麗な顔をしているが趣味が悪すぎるとアルトはトリアナに嫌悪の目を向けた。
「何で辞めたんだ?」
「何でかって? 疲れたからに決まってるだろ? 見て分からないのか?」
 言葉にすると自分が醜くみっともない人間のように思えた。そんな心境を見透かされたのかトリアナが少し笑っているように見えた。
「実は黙っていたんだがジャガイモをお前の村に運ぶようになってから、村人がよく緩衝地帯に入って来るんだよ。アルトを返してくれ、会わせてくれってな」
 一瞬トリアナが何を言っているのか分からなかった。しばらくして村の皆が恐れながらも緩衝地帯にはいってくる像が浮かんできた。とても信じられなかった。
「それは本当なのか?」
「入ってくるたびにゴブリンを使って追い払っている」
 そうなのか、村の皆は俺の為に……、今まで黒い靄のように広がっていた悪い想像は消えた。自然と目頭が熱くなっていた。
 ゴメンとひたすらに謝りたい気分になった。村の皆は俺の為に命を危険に晒してまで森の中に入ってきている。それなのに俺は今の今まで疑って……
「すまない、やっぱり今日は……」
 行く。そう言いたかった。だが、喉がその言葉を発するのを許可しなかった。俺はなんて身勝手な男だ。アルトは心の中で自身を罵った。
 ハハハハハ、初めて聞くような哄笑が耳朶を打った。見るとトリアナが口を大きく開けて笑っている。
「何がおかしいんだよ」
「なんでもない、気にするな。今日は休みだ。これ以上働いたら本当に死ぬぞ」
 でもそれでは、アルトの脳裏には飢えている村人が浮かんだ。
「安心しろ、ジャガイモはやるよ。二十五個な」
 本当か、本当にいいのか? アルトは何度も確認した。トリアナは笑顔で言った。可愛い奴だよお前は。
「そのかわり今日は私に付き合ってもらう。昼過ぎに迎えに来るからそれまでは寝てろ。いいな」
 トリアナが姿を消すとアルトは意識を失うように眠った。

 深緑の樹海。目の前のトリアナはすいすいと滑るように険しい傾斜を登っていく。アルトはその後ろを付いていくのにやっとだった。
 今日は山に登る。トリアナはそれだけ言ってここまでアルトを連れてきた。目的は言ってくれなかった。
「トリアナ、あとどれくらいで着くんだ?」
「もうすぐだ。根を上げるな、もっともない」 
 そこから歩き続けて二十分程が経った。標高が上がるにつれて木々が隙間を持つようになり、赤く焼けた木漏れ日が見れるようになった。
「着いたぞ」
 目前のトリアナが歩みを止めて待っている。アルトはその隣に立った。
 言葉が出なかった。美しいと感じるより圧倒された。それほど目に入ってくる色とりどりの森は迫力を持っていた。遥か地平の先まで緑や、黄、赤の森が広がっていた。
「すごいな……」
「これら全てが古い森だ。私達フェネックの母親だ。太古から変わることの無い私達の全て……」
 アルトはしばらく何も考えずに目の前の絶景を眺めた。力強い光景は自分にも力を分けてくれるような気がした。
「私のことを恨んでいるか? 理不尽な奴だと思うか?」
 トリアナと出会ってからの事を思い返した。散々働かされたので性格はよくないと思っていたが、ゴブリンと裁判の時の二回命を救われている。恨む筋合いは無い様に思えた。
「そんなに」
 しかしながら感謝を述べる気にはなれず、アルトは素っ気無く言った。
 可愛い奴だよお前は、トリアナは笑って答えた。
「さっきも言っていたが可愛いはおかしくないか? 俺の方が年上だろう?」
「何を言ってるんだ。私の方が年上だ。フェネックは人間に比べて寿命が長いし、成長が遅いから人間の見かけより幼いんだ」
 そうなのか? だったら目の前に居る少女に見える女はいったい幾つなのだろう? アルトがまじまじと見るとトリアナは少し頬を赤く染めた。
「じろじろ見るな。上といってもそこまで上じゃない。たぶん二つか三つだ。たぶん」
 アルトはフフと笑った。トリアナが初めて年頃の少女に見えて可笑しかった。
 そんな事を喋りに来たんじゃない、トリアナは照れを隠すように言った。
「アルト、あれを見ろ」
 トリアナが指差した方向、他と同じようにずっと山が続いているように見えたが、僅かに木々がまばらになっているのに気が付いた。
「木が抜けている?」
「人間の所為だよ」
 先ほどまでとは違いトリアナの目は冷たく沈んでいた。
「おかしいだろ、さっきここは全てフェネックの古き森といったじゃないか、人間が入れるわけ無い」
「直接切りに来たわけじゃない。人間が降らせた雨が悪いんだ。それが木々を枯らせる」
 そうなのか? アルトは村の作物の事を考えた。確かに今年は十分雨も太陽もあったのに枯れてしまった。
「人間作った煙が雨になって森に降り注いでいる。舐めてみて分かった、雨に汚い鉄が混じっている」
 そういえば戦争に備えて大量の鉄を都市で溶かしていると聞いたことがある。虹色の雲もそれに関係しているのだろうか?
「向こうだ。あの山の先から煙が来る」
 トリアナが指差した先はハゲ山のさらに先、ドルバルラの首都がある場所だった。
「森を汚されている、とても許せることではない」
 冷たい目をしていた。人間全体を見下し、恨んでいるような。
「当然抗議しに行く」
「抗議? トリアナが行くのかい?」
「ああ、フェネックの国司として鉄を溶かすのを止める様に伝える」
 受け入れられるのだろうかとアルトは疑問に思った。いや、戦争に備えているのだ森を守る為だなんてそんな願いが受けいれられる訳が無い。そのときフッとある考えがよぎった。
「一人で行くのか? 君一人で?」
「……そうだよ」
 俺と同じじゃないか、受け入れられないと分かっている願いを携えて、同胞が踏み入れたことの無い見知らぬ地に行く。
 アルトにはトリアナが何故自分に過酷な労働を強いたのか今分かった。彼女自身が募らせていた迷いや不安をアルトにぶつけていたのだ。彼女の中にも捨て駒にされたのではないかという疑問があって……
「アルト」
 今まで冷酷だと思っていた少女は酷く不安そうに見えた。
「付いて来てくれ。私は人間の世界を何も知らない。だから案内して欲しい」
「俺なんかを信用して良いのか? 知り合ってまで一週間も経ってないだろ?」
「お前は人間にしては見所がある。人間はもっと野心的で我欲に塗れた動物だと思っていたが、お前はそこまで酷くない」
「どうかな? そんな事無いと俺はおもうけど」
「ジャガイモもあるだけやる。全部あればお前の村の人間も冬は越せるはずだ」
 不安で泣きそう、そんな表情だったと思う。
「いいよ、付いて行く。いつ行くんだ?」
 トリアナの表情がパアッと明るくなった様に見えた。
「明日には出発だ。今日は荷造りをするから手伝え。あっ、そうだ村に手紙を書いておけよ、あいつらゴブリンで追い払うの大変なんだ」
 日が沈みかけていた。暗くなる前に二人は急いで帰った。

 朝になって昨日夜に終らなかった荷造りを片付けた。後は出発するだけだという頃になってフェネックの村の住人がゾロゾロと集まってきた。
 アルトは奇異の目を向けられるのが嫌だったのでトリアナから離れて待機していた。フェネックの住人達はみんなトリアナを取り囲んで言葉を述べている。トリアナは家族は居ないと言っていた。ただ遠くに行ったとだけ答えた。それが何を意味するのかアルトには計りかねた。
 その様子を見てそういえば自分が出発する前もあんな感じだったなとアルトは思い出した。しかしながらフェネックの住人を見ているとトリアナよりも年上の者も多く居る。何故にトリアナが人間の世界に降りる国司になったのか不思議に思った。昨晩荷造りをする際にトリアナに聞いてみたかったが、何か彼女を傷つけるような気がして聞けなかったのだ。人間には分からないフェネックなりのルールがあるのだろうとアルトは一応自分の中で納得した。
 トリアナが村の地区長から封書のような物を受け取っていた。あれが国書なのだろうか? トリアナは深々とみんなに頭を下げるとこちらに向かってきた。
「待たせたな」
「もういいのかい?」
「ああ」
 トリアナは振り返らずに言った。住人達はすでに解散して三三五五散り散りになっている。早々に去っていったそれをアルトは酷く冷酷なように見えた。
 トリアナの表情を覗くと緊張しているのか不安げな顔をしている。今まで同胞が誰も行った事の無い世界に行くのだから当然である。アルトは何かしら不安を紛らわせる言葉を掛けてやろうかと思ったが、すぐに諦めた。それは自分が言っても仕方ない事の様に思えた。この村の住人から言われなくては意味が無い。
 アルトが何気なく振り返るとある物が目に入った。思わず笑みが漏れた。
「トリアナ、ちょっと振り返ってみて」
 彼女は怪訝な表情を浮かべて振り返る。
 皆が去っていった場所に地区長の家で出会った少年が一人残って、腕が振り切れるほど手を振っていた。
 トリアナはその様子を見て嬉しそうに微笑んだ。 

 

 終わり
タンポポを刈る者
2013年03月03日(日) 00時34分18秒 公開
■この作品の著作権はタンポポを刈る者さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 始めまして。タンポポを刈る者という者です。よろしくお願いします。
 この小説のテーマは集団の中の個人の考え方みたいなものです。感謝されるからがんばれるそんな気がします。
 何かしらファンタジックな物を書いてみたかったですが、雰囲気の作り方が難しいですね。
 色々と不足している箇所が多いと思いますがご指摘お願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  陣家  評価:20点  ■2013-04-09 01:48  ID:98YScwpXzig
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拝読しました

とても丁寧な文章で安定感が感じられる筆運びだと思います。
でも全体的に地味な印象ですね。せっかくファンタジー世界を舞台にしているのに、ここという見せ場がないのが残念です。
どうも中途半端に現実世界の理屈を残しすぎてるせいかもしれません。
国家や国境、裁判に通行証など、何年も交流がないと言いつつやけにシスティマチックです。
緩衝地帯と言いつつ、武力で実効支配していることからも、戦力に置いてはフェネックが人間をしのいでいるはずなので、それが何を背景にしているのかを匂わす位はしても良いんじゃないでしょうか。
ゴブリン? だとするならどのような力で使役させているのか知りたかったです。
農作業もゴブリンの仕事なんでしょうか。
と言いつつも、ファンタジーっぽさというのは微妙で難しいものだなと改めて思いました。
例えば、度量衡の単位なんかで、メートルくらいならまだしも
>平米
へいべい、ってのは尺貫法が廃止された昭和三十年代以降の日本独自の略称ですから、かなり違和感があります。
主人公はやけに時間を正確に、分単位で把握していますが森の中に時計塔のような物があったんでしょうか。
里芋(タロイモ)は東南アジア原産です。

そして最後に単身で交渉に乗りこむ少女は、結局背景にしている武力があったればこそなのではないのかな、とも思えてしまいます。

読み終えて頭に浮かんだ言葉は“土下座外交vs無慈悲な××外交”でしょうか。
総レス数 1  合計 20

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