人形遊戯
 初め、雪待(ゆきまち)には体がなく、ふわふわと魂だけの存在として世界を浮遊していた。なんていう不条理。なんていう不安定。誰も彼女の存在に気づいてくれない。不安で、心細くて、今にも消えてしまいそうだった。
 そんな中、声をかけてくれる青年が現れる。
 雪待は青年に訴えた。
「世界に触れてみたい」
 その願いはかなえられる。
 青年は人形師だったのだ。
 人形の体を手に入れた雪待は世界を歩いて回った。見ているだけだった世界に手で触れて息づかいを感じることができる。一瞬一瞬が驚きと喜びの連続だった。世界を案内してくれる青年は優しくて。雪待は初めて幸せを感じていた。
 その気持ちが変化したのはいつからだっただろうか。
 人形の体ではできないこと。
 生身の体を手に入れて青年に愛されてみたい。
 それは永遠を孤独に生きるより、ずっと素晴らしいことに思えた。



 月の明るい夜のこと。
 異形の群れに追い詰められて雪待は屋上で風にあおられていた。月明かりに濡れたように光る銀髪が躍る。
 追い詰められて?
 否。
 追い詰められたのではない。誘い出したのだ。
 雪待は右腕を伸ばす。
「武装、顕現」
 一瞬の後に右手に握られていたのは長柄武器であるハルバートだ。切る、突く、叩く、引っかける、と多くの機能を持つ。二メートルはあろうか。それを、重みを確かめるように片手で軽々と振るう。まるで小枝のよう。まったく重量を感じさせない。
 ここに誘い出したのは長柄武器に適する広さで戦いたかったから。
 断じて逃げ出したのではない。
 異形の群れは多種多様の奇形の人形で構成されていた。いずれも人間に近い形状だが、どこかの部位が欠けていたり、多かったりする。制作者の歪んだ美意識がにじむようだ。対する雪待は人体の理想形を模して作られてある。ほっそりと伸びた手足も、戦いに臨む顔立ちも、いずれも完璧で見る者の心を奪う。
 じりじりと包囲の輪が狭まる。
 雪待の凛とした声が響く。
「貴方たちに用はない。操っている者と話がしたい。いるんでしょう、そこに」
「驚いたわ。気づいていたのね、わたくしの存在に」
 と応じる女の声があった。
 陰に隠れていた女が姿を現す。
 雪待が鋭く看破する。
「貴方も自動人形ね」
「そう言う貴方もね」
「人間を次々とさらって何が目的?」
「お父さまの命を長らえさせるために大量の血液が必要なのよ」
「お父さま? その人物が貴方の作り主なの?」
「ええ、そうよ」
「そう。目的は分かった。でも許容できない」
「人形が人間の味方をするの? こっけいだわ」
「確かに私は人形。でも、だからこそ人間らしくありたい」
「わたくしの邪魔をするなら容赦しない」
 やりなさい、と女は異形の群れに短く命じた。
 殺戮が幕を開ける。
 異形の群れは一斉に雪待に襲いかかった。
 雪待はハルバートを横に一閃する。横なぎの一撃に見舞われて群れが砕け散ってゆく。雪待はさらにハルバートを振るう。
 一振りごとに群れは確実に数を減らす。
「馬鹿な!」と女はうめく。
 自動人形には動力源である魔石(ませき)が埋め込まれている。
 その魔石が破壊されない限り自動人形は活動を停止しない。
 魔石の場所は胸とは限らず、全身のどこでもありうる。
 それなのに――。
「何故、一撃で破壊できる?」
 そこで女は思い至ったように声を発する。
「法眼(ほうげん)? 法眼所持者なの?」
「そう」と雪待はうなずく。「私には命の在り処が見える」
 その時にはすでに群れは全滅している。
 逃げようとするかのように女が通路を向いた時、その向こうから新たな人影が車椅子を押しながらやってくるところだった。
 その人物は素直に驚嘆してみせる。
「いやあ、すごいね。全滅じゃないか。これではボクの出る幕はないね」
 名前は鈴原天音(すずはら・あまね)。男性のような口調だが、歴とした女性で、今年で十四歳になる。髪は肩まで伸ばしたショートボブと、ほっそりとした子供っぽい華奢な体つきと相まって、セーラー服を着ていなければ少年に見られてもおかしくはない。
 一方の雪待は、緩やかに波打つ長い銀髪に緑の瞳と、日本人離れした容姿を持つ。ノースリーブのシャツだけが灰色。長手袋、ネクタイ、ロングスカート、ブーツなどは黒色で統一してある。ゴシック調の装いだ。
 雪待と天音。
 異色の組み合わせと言える。
 だが自動人形の女の関心は車椅子に乗った人物に集中していた。
「お父さま! お父さまにひどいことはしないで!」
「安心したまえよ」と天音は優しい声音になる。「死者に鞭打つ真似はしたくないからね」
「死者? お父さまは死んでなどいないわ」
「いいや死んでいるね」と天音は告げる。「これでは延命しようがないだろう。もともと死んでいるのだから」
「そんな……」
 と自動人形の女は絶句する。
 どうやら彼女には人の死というものが理解できなかったらしい。
「憐れね」と雪待はつぶやく。
 確かに憐れと言うほかにない。
 彼女も、彼女に殺された者も。
 自動人形の女は車椅子に座る作り主の死体を抱き締める。
 天音が車椅子から離れた。
「せめていっしょに送ってあげよう」
 小さな火の粉が舞う。青い鱗粉のよう。それは自動人形と作り主の二人に着火して燃え上がる。青い炎だ。地獄の業火を思わせる。事実、天音の炎は罪人ほどよく燃えるのだ。二人はあっという間に炭化した。
 雪待は白み始めた空を見上げる。
 二人の魂は無事、輪廻の輪に導かれて転生できただろうか。
 法眼の法力(ほうりき)をもってしてもそれは分からなかった。

 雪待の作り主であり恋人でもある仁科誠司(にしな・せいじ)の工房は雑居ビルの一角にある。そこで雪待は事の顛末(てんまつ)を語り終えた。長椅子のとなりに座る誠司は良い聞き手だ。彼に話しているうちに本当に話したい心の底にしまっていた本音が顔を出すことがある。
 今朝もそう。
 話の最後に雪待は本音をこぼす。
「死は悲しい。でも死を理解できないのはもっと悲しいと思う」
「そうだね」と誠司はうなずく。「人間は死があるから、より良く生きようとするのかもしれない」
「誠司もそうなの?」
「そうだよ。たくさんの死を見てきたからね。だから人形師になったのかもしれないな。朽ちてゆく者の美しさを永遠にとどめたくて」
「私もその一つ?」
「君は俺の最高傑作だ。それでも魂の美しさには到底かなわないけどね。魂だけが浮いていた君を見た時、その魂の輝きに俺は心を奪われた。こういうのを一目惚れと言うんだろう」
「朝から酔ってるの?」と雪待はあきれ気味。「恥ずかしいセリフを堂々と言ってるけど。聞いているこっちが恥ずかしい」
「酔ってない。素面だよ」
「もっと恥ずかしい」
「本気なのにひどいな」
 と誠司は苦笑した。



 病室で少女が体を起こす。
 自分の手を何度も握ったり開いたりして感触を確かめる。
 つぶやきが漏れた。
「これが体」
 ベッドから降りる。
 素足でリノリウムの床を歩く。
 まだ体が重い。
 ずっと寝ていたせいだろう。
 白い作業服を着た女性と廊下で出くわす。
「先生! 患者さんが起きてます!」
 病院内が急にあわただしくなった。



 人間と死体の中間に位置する何か。生きているわけではない。腐ってゆくわけでもない。そのどちらにも属さない美しいもの。者と物の中間。仁科誠司の人形はそう評されて人気を得ている。その仁科誠司の工房に訪れるのは何も人形制作の依頼人ばかりではない。霊的な事件に遭遇した者が駆け込むこともある。対応するのは、雪待と鈴原天音の二人。荒事が苦手な仁科誠司はお茶を出すくらい。
 制服姿の天音が情報をまとめる。
「ボクが整理しよう。自殺未遂の末、意識不明のままだったお嬢さんが目を覚ました。実に喜ばしいことだ。通常ならば。ところが友人はおろか父親の顔すら覚えていないと来た。しかも、おかしなことを口走っているとか。これは何かに取りつかれたと思ってここにやってきたわけだね」
「はい」と依頼人である父親はうなずく。
「単刀直入に言おう」と天音は判断を下す。「お嬢さんは何らかの霊体に取りつかれている。何に取りつかれたかは実際に会ってみないと分かりかねるがね。しかし、霊体にはこういうことをする知恵はないはずなんだが、これはレアケースかな」
「じゃあ娘は……」
「本当のお嬢さんはまだ眠ったままなのだろうね」
「そんな……」
 と父親はうなだれた。
 残酷な事実だったかもしれないと雪待は思わないでもない。
 なぐさめるように雪待が声をかける。
「安心して。娘さんに取りついた霊体を払うことはできるから」
「はい、よろしくお願いします!」
 そうして依頼人は帰っていった。
 三人が残される。
 天音はソファに座ったまま足を組み替えた。
「本当に払うことができると思うかね。難題だよ」
「そうね」と雪待も同意する。
「どうして難題なんだ?」と誠司が口をはさむ。
「こちらからの攻撃は依代(よりしろ)であるお嬢さんを傷つけてしまう。人質を取られたようなものだよ。となると方法はただ一つ。眠ったままだというお嬢さんに起きてもらうことだ。難しいが、それしか解放する方法はないだろうね」
「この依頼、本当に受けるの?」と雪待は天音に問う。
「雪待君は気が進まないみたいだね」
「ええ。だってあの依頼人、すごく嫌なオーラの色をしていたから」
 十人十色と言う。
 人それぞれオーラの色は異なる。
 法眼を持つ雪待はそれを見分ける能力を持つ。
 雪待は先ほどの依頼人の色を思い出す。
 例えれば腐ったオレンジのような色。
「額面通りの仕事にはならないかもしれない、ということだね」
「それでも受けるの、天音?」と雪待が問う。
「それが護法使いの務めだからね」と天音が言い切った。
 護法(ごほう)使い。
 境界を越えて人界(じんかい)を侵す勢力と戦う者たち。
 鈴原天音は代々続く護法使いの家に生まれた。
 彼女には戦うことにためらいはない。
 対して自分はどうか、と雪待は思う。生身の体を手に入れる。その手がかかりを求めて異形の者たちとの戦いに身を投じてきた。今回は果たして手がかりが見つかるだろうか。
 天音が提案する。
「まずは本人に会ってみようじゃないか。話はそれからでも遅くない」

 件の病院に雪待と天音は出かけた。
 レンガのような温かい色調の外壁が見えてくる。桜並木が美しい。列島の北に位置するこの街では桜の開花が遅い。四月末が開花時期となる。期せずして満開。用向きが用向きでなければこのまましばらく花見を楽しみたい。
 霊体が取りついていると思しき少女は沢渡加奈(さわたり・かな)と言う。
 彼女の病室に急ぐ。
 だが途中、思いもかけない人物に出会った。
「兄さん?」
「天音?」
 天音とは三つ違いだという兄がいた。制服姿のままだ。
 学校帰りに寄ったのだろうか。
 天音の口調は兄に対しても変わらない。
 いつもの調子で語り出す。
「兄さん、こんなところでどうしたのかな? ボクの知る限り病気とは無縁の人だと思っていたのだけどね」
「僕の方は見舞いだよ。クラスメイトだった子がやっと目覚めたんだ」
「ほう。それは沢渡加奈というんじゃないかな」
「どうして分かったんだ」
「ちょうどボクらも彼女に用があったからね。正確には彼女に取りついている霊体に、だけど」
「霊体? やっぱり霊的な事象がからんでいたのか?」
「護法使いを引退した兄さんは首を突っ込まないほうが賢明だ。解決するのはボクらの役目だからね」
「それは……そうだけど」
 兄の鈴原和音(すずはら・かずと)は意気が消え沈む。
 見ていて気の毒なほど。
 余計なことと思いつつも雪待が和音に声をかける。
「後で沢渡加奈について教えてくれる?」
「ええ」と和音はうなずく。「いいですよ、雪待さん」
「じゃあ行きましょう、天音」
「ああ。兄さん、またね」
 鈴原和音に別れを告げて病室へ向けて足を進める。
「貴方のお兄さん、やっぱり良い人ね」
「凡人だよ。ただし稀有な凡人だ」
「どういう意味?」
「通常、中道とは意識的に歩むものだ。人はそうそう公正中立に生きられるわけではないからね。ところが無意識的にこれをやってのける者がまれにいる」
「それが貴方のお兄さんというわけ?」
「そうなるね。さて、着いたようだ」
 病室の前に二人は立つ。
 沢渡加奈。
 ネームプレートにはそうある。
 天音はドアをノック。
 返事はない。
 再度ノックする。
「開いておる」
 失礼、と雪待と天音は病室内に入った。
 ベッドの上で上半身を起こす少女がこちらの目的を問いただす。
 厳しい口調だ。
「儂に何ぞ用か?」
 十代の少女の口調ではない。
 やはり霊体が取りついているのだろうか。
 天音は雪待に尋ねる。
「雪待君。君はどう視る?」
 雪待は目を凝らす。
 法眼が真実を見定める。
 少女が持つオーラの基調は緑色。そこに赤色が重なっている。緑を赤で塗りつぶしたような乱暴な印象だ。
 雪待は断じる。
「貴方は沢渡加奈じゃない」
「いかにも」とその人物は動じない。「儂は加藤沙衣(かとう・さえ)。生きていたのは百年ほど前になる。本来ならば、おぬしらが口を利ける相手ではないが、特別に話しかけることを許そう。退屈しておった故な」
「ではボクから質問しよう。その体は沢渡加奈君のものだ。解放して出てゆくつもりはないかね」
「出てゆくだと」と加藤沙衣は失笑する。「捨てられてあった体を誰がどう使おうが関係あるまい」
「沢渡加奈君には目覚めを待つ人々がいる。その意思は尊重すべきだよ」
「目覚めぬわ」と加藤沙衣は一顧だにしない。「自害など心の弱い者のなすこと。そのような者が目覚めることはない。今も心の隅で震えておるわ」
 続いて雪待が発言する。
「貴方のために人形の体を用意できる。それで満足できない?」
「何故、儂が生身に劣る人形の体に移らねばならぬ。そのような提案に乗ると思うたか」
 もし自分が加藤沙衣の立場だったらどうするだろう。と雪待は思わないでもない。誘惑はある。奪ってでも生身の体が欲しいと。だが、その選択は仁科誠司を悲しませる。だから決してしない。
 話すべきことは話した。
 交渉決裂か。
「おぬしらは儂の敵だな」と加藤沙衣が認定する。「どれ、退屈しのぎに少し遊んでやろう」
 と加藤沙衣がベッドから降りる。
 その手は徒手空拳のはず。
 ところが一瞬のちには剣が握られている。抜身の直刀だ。
 剣が投じられた。

 鈴原和音は家に帰れずにいた。
 気になる。
 沢渡加奈と妹たちは何を語っているのだろう。
 することもなくロビーで時間をつぶしていると同級生の二ノ宮志信(にのみや・しのぶ)が入ってくる。彼は和音よりずっと沢渡加奈と親しかった。
 見舞いだろうか。
「やあ、志信。おまえも来たんだ」
「和音」
「見舞いだろ、沢渡さんの」
「あ、ああ。そうだけど」
「ん?」
「いいのかな、オレが沢渡に会いに行っても」
「どういう意味だよ?」
 二人はソファに座って話すことにする。
 和音がうながす。
 ぽつりぽつりと二ノ宮志信が語り出す。自分が好意を打ち明けた当日に沢渡加奈が自殺を図ったこと。そのことがずっと引っかかっていたと言う。
 沢渡加奈と二ノ宮志信は会うべきだ。
 そう和音は思う。
 しかし、あの状態の沢渡加奈と会っても良いものだろうか。
 分からない。
 それでも会わないよりはいい。
 和音が二ノ宮志信の肩を叩く。
「僕は会うべきだと思う。行こう」
 連れ立って病室に向かう。
 その時、上の方で騒ぎが起こった。逃げ惑う人たちが駆け足で階段を降りてくる。人の流れに逆らって和音たちは病室を目指した。

 その病室がある病棟では戦いがくり広げられていた。
 加藤沙衣は直刀を次々と顕現させて投射する。直刀の長さは一メートル弱。その長さをして正確に投射してみせる。
 対するのは雪待。
 こちらもハルバートを顕現させて投射される直刀を叩き落としてゆく。
 天音は雪待の背に隠れて様子を見ている。加藤沙衣は物理的な防御に難がある天音には不向きな相手だった。
 と言って雪待も防戦一方。
 やはり人質を取られているのが厳しい。
 攻め手に欠ける。
「ふぬけどもが」と加藤沙衣があざける。「この娘がそれほど大事か」
「大事ね」と雪待が即答する。「まだ話したこともないけれど」
「して、どのように儂に勝つつもりだ? 攻撃できねば勝利はないぞ?」
 雪待にとっては悔しいが、加藤沙衣の言う通りだった。
 沢渡加奈の肉体を傷つけず、加藤沙衣の霊体だけを攻撃する手段はないものか。
 そこへ第三者がやってくる。
 帰ったはずの鈴原和音だった。
 知らない男子高校生を連れている。
「兄さん、帰るように言ったはずじゃないか!」
「ごめん。心配でさ」と和音は謝る。
 いつの間にか加藤沙衣の攻撃がやんでいた。
 加藤沙衣は和音が連れてきた男子高校生に目を奪われている。
 ぽたり。
 加藤沙衣の両目から水滴が落ちる。
「涙? 儂は泣いておるのか?」
 戦闘という非日常の中にあって、その男子高校生は理性的だった。
「沢渡。オレ、こんなこと沢渡らしくないと思う。だから、やめるんだ」
「黙れ」と加藤沙衣は言葉とは裏腹に泣いていた。「黙れ黙れ黙れ黙れ」
 黙れ、と加藤沙衣は連呼する。
 加藤沙衣は片手に三本ずつ直刀を顕現させて男子高校生に向けて投じる。
 雪待が叫ぶ。
「危ない!」
 ところが六本の直刀はいずれも男子高校生には当たらなかった。
 壁や床をえぐったのみ。
 これはどうしたことだろう。
 最も疑問に思っているのは投げた当人らしい。
「何故だ? 何故、儂は外した?」
 加藤沙衣は一人納得する。
「そうか、この肉体の支配率を完全なものにするためにはこの者が邪魔と言うわけか。この続きは後ほどけりをつけてやろう。存分にやれる場所でな」
 そう語りつつ加藤沙衣は窓辺に寄ってゆく。
 背後には開け放たれた窓。
 ただし、ここは五階だ。
 落ちれば無事では済まない。
 それを加藤沙衣は背中から落ちた。
 雪待たちはすぐに窓から身を乗り出す。地上を見る。だが加藤沙衣の姿はどこにも見出せなかった。



 雪待たち四人は、まだ騒ぎが収まらない病棟を抜け出し、中庭に来ていた。
 遠くから喧噪が届く。
 あれだけの戦闘だ。巻き添えが出なかっただけでも幸いと言える。
 そんな思いが素直に雪待の口から出る。
「誰も死傷者が出てなくてほっとした」
「まったくだ」と天音が雪待の言葉を引き継ぐ。「兄さん。ボクは手を引くように言ったよね。聞いてなかったのかい。しかも関係のない一般人まで連れ出して。もし巻き込まれでもしたらボクはどうしたら良いのか分からないよ」
「何だかおまえの方が僕より年上みたいだな」と和音が説教を受けて一言漏らす。
 ここで和音が連れてきた男子高校生が口を開いた。
「関係ならある。オレは沢渡のことが好きだから。何が起きているのか知りたい」
「貴方は誰?」と雪待が問う。
「オレは二ノ宮志信。去年まで沢渡とはクラスメイトだった」
 沢渡加奈はおとなしい地味な子だったと言う。どこか陰を感じさせるようでクラスメイトたちから浮いていた。ただ、時おり見せる笑顔が可愛くて好きだったと二ノ宮志信は語る。もっと笑うようになって欲しかったのに。あんなことになるなんて。
 雪待が指摘する。
「沢渡加奈も貴方のことが好きだったみたいね。そうでないとあの反応は説明できない」
「そんな!」と二ノ宮志信は声を上げる。「じゃあ、何で告白したその日に自殺しようとするんだ!」
「それは私にも分からない。でも沢渡加奈を目覚めさせる鍵になるのは貴方だということは分かる」
「オレが?」
「私たちに協力してくれる? 危険だけど」
「やるよ。沢渡のためなら何でもやってみせる」
 やがて日没となる。
 雪待と天音は二ノ宮志信を連れて加藤沙衣の行方を追った。あれだけ派手に法力を使って見せたのだ。少なからず消耗いているはず。となると街にある霊地で休息を取っている可能性が高い。病院から徒歩で人目につかない霊地と言えば――。
「中央公園だろうね」と天音が予測する。
 雪待も同意見だった。
 中央公園は外から眺める限り森のように見えなくもない。庭園だったものを開放して公園にしているため景観は良い。
 外灯に明かりが点き始める。
 目的の少女は池のほとりにいた。
 沢渡加奈。あるいは加藤沙衣と言うべきか。今は加藤沙衣に肉体の主導権がある。それを取り戻さなければならない。しかし、どうやって?
 雪待は連れてきた二ノ宮志信に伝える。
「貴方に賭ける。呼びかけて」
「分かった」と二ノ宮志信はうなずく。「沢渡! オレだ! 二ノ宮だ! 覚えているだろ?」
「おぬしなど知らぬ」と加藤沙衣は否定する。「儂は加藤沙衣。沢渡加奈などじきに消える」
「消させない! オレが消させない!」
「消えるとも。これを聞けばな。沢渡加奈は父親に犯されていた。そんな汚れた女が分不相応にも恋をした。その相手がおぬしだ。おぬしから想いを打ち明けられた時、沢渡加奈は恐ろしくなったのだ。もし真実を知られればどうなるだろうかと。おぬしの中でだけは清いままでいたかったのであろうな。それが自殺未遂の真相だ。どうだ、それでも沢渡加奈への想いは同じままか?」
「……だろ」と二ノ宮志信の声は小さい。
「なんだと?」
「同じに決まってるだろ!」
 二ノ宮志信が沢渡加奈に歩み寄る。
「オレは沢渡が好きだ。それだけじゃ、そばにいちゃいけないのか?」
 抱き締める。
 雪待の法眼が加藤沙衣の支配率が急速に減じてゆくのを見ていた。
 両者が分離する。
「今だ!」
 叫ぶや否や雪待は加藤沙衣の霊体を殴り飛ばした。
「あとはボクの出番だね」と天音が指を鳴らす。
 業火が加藤沙衣の霊体を捉えた。
 一気に燃え上がる。
 炎が消えた後には加藤沙衣の姿もまた消え去っていた。
「二ノ宮君。あたし、ずっと二ノ宮君の声が聞こえてたよ」
 目覚めた沢渡加奈が二ノ宮志信に抱かれながら想いを吐露する。
「うれしかった。二ノ宮君の声が聞けてうれしかったよ」
「ああ」と二ノ宮志信は答える。
「あたしなんかでいいの? あたし、きれいな体じゃないんだよ?」
「関係ない。そんなの関係ない」
「ありがとう」
 しとしとと雨が降り始める。
 それでも二人はしばらく離れなかった。



 沢渡加奈の父親はその夜、遅くに帰宅した。
 家中に甘い香りがすることに気づく。
 リビングに誰かいる。
 父親は思わず声を上げる。
「誰だ?」
「仁科誠司です。昼間はどうも」
 昼間、会いに行った人形師だ。
 リビングにあるテーブルには香炉が置かれてあった。
 これが香りの源か。
「ご依頼の件ですが、無事に娘さんは意識を取り戻しました。除霊は成功です」
「本当ですか!」
 父親は喜色を隠せない。
 仁科という男の不法侵入をとがめることも忘れてしまう。
 これで娘との生活も元通りになる。
 淫らな想像が脳裏に浮かぶ。
 仁科誠司の冷ややかな声が水を差す。
「あとはこちらの問題を解決すれば万事終了です」
「こちらの問題?」
 不意に背後で人の気配がした。振り向けば、知らない女が二人すぐそばに立っているではないか。いつの間に家に入ってきたのだろう。いや、それよりも。
 父親の思考は女たちのことで占められていた。
 二人とも喪服を思わせる黒いドレスに身を包んでいた。だが、喪服にしては露出が多い。豊満な胸元が強調されている。衣装のみならず二人は顔立ちもそっくりだった。どちらがどちらなのか区別がつかない。
「夢魔を呼ぶために香をたいておきました。貴方は性欲が強そうなので双子の姉妹を。――どうかな、君たち。新しい供物は」
「いい具合に腐ってるわ」と姉妹は答える。「本当に私たちにふさわしい」
 父親は声も出せない。
 逃げなければ殺される。
 だが、この女たちに取り殺されるのであれば本望ではないか。
 仁科誠司が最後に言い添える。
「それでは俺はこれで。ゆっくり夢に溺れてください。衰弱死するまでね」
 妖しい夢が紡がれる。



 リビングでは蓄音器が静かに曲を流していた。電気を使わない蓄音器にはノイズが一切混じらない。上質の音が味わえると和音たちの父親はいたく気に入っていた。この日の夜に流していたのはピアノ曲。どこか眠気を誘うようでいて、時おり混じる不協和音が眠気を覚ます。眠れそうで眠らせてくれない不思議な曲だ。
 テレビの音はしない。
 鈴原家にはテレビは応接間にしか置いておらず、そこは天音の領分となっている。
 その天音が珍しくリビングにやってきた。
「兄さん。連休中の予定はもう決まっているかい?」
「連休中の予定? まだ特にないかな」
「じゃあ温泉旅行に行かないかな? 雪待君たちと四人で」
「ああ、いいよ。父さん、母さん、いいだろ」
 天音、と母親がたしなめる。そういうことはまず私たちに断ってから決めなさい。
「どうして?」と天音。
 家族でしょう。と母親が諭す。
「うれしいね、炎に目覚めたおかげでボクは晴れて家族の仲間入りというわけだ」
 天音はどこか斜にかまえた皮肉っぽい微笑を浮かべる。
 緊張が走った。
 そう感じたのは和音だけだっただろうか。
 母親は何も答えない。
 父親も何も言わない。
 これが鈴原家の実情だった。家族の振りをしている他人ならまだ良い。天音はちゃんと血のつながった鈴原家の一員だというのに腫物のような扱いを受けている。何とかしようと奮闘するものの和音の努力はいまだ報われていない。
 それでも和音は諦めない。
「天音。今のは言いすぎだ。母さんに謝れ」
「兄さん。兄さんは誰の味方なんだい?」
「おまえの一番の味方でいたい。だから注意してるんだ」
「その言い方はずるいね。実に誠実で兄さんらしい。そんな言い方をされたらおとなしく退散するしかないじゃないか」
 と答えて天音はリビングを去る。
 いつのまにか蓄音器は止まっていた。

 五月の連休に入った。仁科誠司の運転する車に乗り込むのは雪待、和音、天音。計四人での道行き。車窓から流れる景色に目をやれば冬はすっかり去っていた。和音は、目的地は山間にある温泉街と聞いていたから雪でも残っているかと思っていたが、すでに人も山も装いは春一色に染まっていた。
 我も知らず、心が浮き立つ。
 妹が指摘する。
「楽しげだね、兄さん」
「ん、そうかな」
「そう見えるね」
「そっか。まあ旅行なんて久しぶりだからな」
「ボクも誘った甲斐があるというものだ。同行を許してくれた二人に感謝するといいよ」
「そうだな」と和音は前に座る誠司と雪待に礼を言う。「ありがとうございます。せっかく水入らずの旅行だったのに」
 誠司は気さくに笑う。
「気にすることはないよ。同行者は多いほど楽しいからね」
「そうね」
 と、その恋人の雪待も同意する。
 こうして見ている限り人間の恋人同士にしか映らない。つい最近まで和音は雪待が人間だとばかり思っていたのだ。自動人形という単語は浮かばなかった。それほどまでに彼女は人間らしい。恋人である誠司と楽しそうに会話する様は実に生き生きとしている。
 そうこうしているうちに温泉街につく。
 宿は木造部分を多く残した古風なたたずまいの旅館だった。
 意外にもロビーは近代化した造りになっている。
 受付を済ませて部屋に荷物を置く。
 部屋割りは、誠司と雪待、和音と天音。
 部屋には浴衣が置かれている。
「せっかくだから浴衣に着替えるか」
「そうだね」と天音も同意する。
「待て待て。いっしょに着替える気か。僕は部屋を出てるからその間に着替えろ」
「ボクは気にしないよ」
「僕が困るんだよ」
「いいじゃないか、減る物でもないし」
「そういう問題じゃない」
 と、和音は今にも着替えを始めそうな妹を置いて部屋を出る。
 困ったやつだ。
 自然、ため息がこぼれる。
 待っていると、ほどなくして浴衣姿の天音が出てきた。
 子供だと思っていたが、意外にも似合っている。
「どうかな」
「良く似合ってるぞ」
 と和音はほめておく。
 何を期待してのものでもない。ただ単に思ったままを口にする。
 と、その時となりの部屋から誠司と雪待がやはり浴衣姿で出てきた。雪待は長い銀髪を高い位置で結わえている。うなじの白さと細さが強調されているのは気のせいか。ふだんとは違う装いにどきりとさせられた。
 天音は不満げだ。
「む。ボクの時と反応が違うじゃないか」
「次元が違うだろ」
 そう。
 雪待は最高級の自動人形。
 その外見はトップモデルと見まがうほど。
 妹には悪いが、本当に次元が違う。

「あーいいお湯だった」
 と和音は温泉を堪能して部屋に戻ってきた。
 部屋にはすでに天音が帰ってきている。天音はもう温泉から上がったようだ。ほんのり赤い。
 布団が用意されてあった。
「近くないか」
 二組の布団はとなり合って敷かれてある。
「近くない。兄さんは気にしすぎだよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。もう寝よう。そろそろ寝てもいい時間だ」
「ああ、もうそんな時間か」
 明かりを消して二人はそれぞれの布団に入る。
「おやすみー」
「おやすみ、兄さん」
 沈黙のとばりが下りる。
 寝つきのいい和音はもう眠気が襲ってきた。
 その時、
「兄さん、起きてるかい?」
「んー、どした?」
「そっちに行っていいかな」
「はぁ?」
 思わず和音は素っ頓狂な声を上げる。
 そっちに行っていいかな。脳内でくり返す。
 何を言っているんだ、こいつは。
 和音は努めて冷静な声を出す。
「駄目。子供じゃないんだから一人で寝ろ」
「小学生まではよくいっしょに寝たじゃないか」
「昔は昔。今は今」
 そう答えて和音はごろりと横向きになる。
 妹に背を向けて会話は終了。
 そのつもりだった。
 だが、もぞもぞと天音はこちらの布団に入ってきてしまう。
「天音。おまえな」
 背中から天音が抱きついてくる。
 華奢な腕が巻きつく。
 胸が当たって、さすがにどきりとした。
 天音が耳元でささやく。
「兄さんにずっと隠していたことがあるんだ」
「何だよ?」
「好きだ。兄妹としてではなく異性として」
 和音はがばっと跳ね起きる。
 天音も上半身を起こす。
「何言ってるんだ? 自分が何を言ってるか分かってるのか?」
 妹は怖いくらい真剣な眼差しだった。
「抱いて欲しい。ボクの初めての男になってくれ」
「僕たちは兄妹だろ! そんなの駄目に決まってるじゃないか! 常識で考えろ!」
「兄妹である前に一組の男女だよ」
「むちゃくちゃ言うな! 無理! 妹を抱くなんて無理だって!」
「こんなに頼んでも?」
「いくら頼まれても無理なものは無理!」
 確かに可愛く育ったと思わないでもない。けれど妹。一人の女の子として見るなんて不可能だ。
 だが妹の方はどうだろう。
 自分を一人の男として見ていたと言う。和音は自分自身を平凡な男だと思っている。そんな兄のどこに惹かれたのだろうか。
 分からない。
 今は回答を引き延ばすしか頭に浮かばなかった。
「少し考えさせてくれ」
「いいよ」
 と、あっさり天音は身を引いた。
 天音はため息をこぼす。
「良識人である兄さんが受け入れてくれるには一度くらいの告白では無理だと分かっていたさ。それにボクはこのしゃべり方だし、この外見だ。お世辞にも女性的魅力にあふれているとは言い難い。女として見られていないのは分かっていた。分かっていたが、やはり辛いな」
「ごめん」
「謝られると余計に辛い」
「……」
「もう寝よう。今度こそおやすみ」
 そう告げて天音は自分の布団で横になった。
 和音も横になる。
 眠気はすっかり遠のいていた。

 相談する相手は仁科誠司しか思い浮かばなかった。
 朝食の後、和音は誠司に声をかける。
 誠司は話しやすい相手だ。年齢差を感じさせない物柔らかな対応。それでいて年長者の頼もしさを兼ね備えている。
 誠司は突拍子もないであろう内容にも真摯に答えてくれた。
「天音ちゃんに告白された? それは驚いただろうね」
「はい」
「冗談ではないみたいなのかな」
「本気のようでした」
「そうか」
「僕の接し方が悪かったんでしょうか?」
「君の家の事情は聞いている。天音ちゃんは両親から放置されていたそうじゃないか。それを君が両親の代わりに守ってきた。君は立派なお兄さんだよ。ただ、この場合は立派すぎたのが良くなかったのかもしれないね」
 代々続く護法使いの家に生まれた和音と天音は将来護法使いになることを期待されていた。ところが、天音は中学生になるまで法力を発現させることはなく、両親から見放されて暮らすことになる。
 ネグレクト。
 育児放棄。
 そう言われても仕方がない環境だったかもしれない、と和音は振り返る。
 一人、和音は天音の味方でいたいと奮闘してきた。
 結果として、それが良くなかったのかもしれない。
「僕はどうすればいいでしょう? どうすれば妹を傷つけずに諦めてもらえるでしょうか?」
「傷つけたくない気持ちは分からなくもないよ。でも、それは難しいかもしれないね。失恋と言えば失恋になるわけだし。今は傷つけてでも突き放すのが一番じゃないかな。優柔不断が一番良くないよ。変に期待を持たせるのは何より天音ちゃんのためにならない」
「そう、ですね」
 と和音はうなずく。
 突き放す。
 本当に自分にできるだろうかと思い悩みながら。

 露天風呂にて。
「そう、上手くいかなかったの」
 と雪待は天音の言葉を受けた。雪待は以前から天音の気持ちを知っていた。応援もしている。人間社会の習わしは雪待にとってなじみの薄いもの。そういった一般常識はまだ雪待には難しい。血族間の恋愛感情がどうして忌避されているのか分からないでいる。
 昔こんなことがあった。
 まだ誠司と旅を始めたばかりの頃。
 場所は電車。
「誠司。あれが欲しい」
「あれ?」
「あれ」
 と雪待の指がベビーカーに乗った赤子を指す。
 当時、雪待は人間とは成人の状態で生まれてくるものとばかり思っていた。あの可愛らしい赤子が成人の前段階であろうとは想像すらできず、愛玩物か何かだと受け取っていたのだ。
 雪待は訴える。
「あれが欲しい。誠司、あれを作って」
「作れって言われてもね」
「誠司でも無理なの? じゃあ私も手伝う。二人で作ろう。ねえ早く」
 雪待は赤子を作ろう作ろうと訴える。
 電車内の乗客たちにはどう見えただろう。今思い返すだけで恥ずかしい。
 自分には常識が足りない。今では雪待自身が自覚するほどにはなった。では天音の恋心についてはどうだろう。雪待は、恋は恋だと思う。禁じられていようと好きになってしまったものは仕方ない。だが、この考えも時期が経てば反省する時が来るのだろうか。
 天音の声はため息交じり。
「やはりと言うべきか。兄さんに受け入れてもらうには一度くらいの告白では難しいのだろうね。良識人である兄さんらしいと言えばらしいけど」
「諦める?」と雪待。
「まさか」と天音は首を横に振る。「小さい頃から想い続けてきたんだ。このくらいで諦めてたまるか」
 二人とも風呂から上がる。
 それぞれの想い人のもとへ。
 夜が更けてゆく。



 人々が寝静まる夜を待って彼らは行動を開始した。
 大型のバンから小火器を手にして降りる。手にしているのはHK416。アメリカ軍が制式装備としているM4カービンを改良したものだ。屋内での近接戦闘を考慮して銃身は短い。銃声を抑えるため用意周到にサウンドサプレッサーまで備えてある。
 彼らは音もなく地面を滑るように走ってゆく。
 その様に高浜狭霧(たかはま・さぎり)は満足して、みずからも車を降りた。



 旅館に張り巡らせてあった糸が焼け焦げた。
 敵意を持った者たちが来る。
 誠司、雪待、和音、天音の四人は一室に集まって対応を話し合う。
 結論はすぐに出た。
 逃げる。
 取る物もとりあえず車へ向かう。その途上で襲撃に遭った。とっさに先頭を走っていた雪待は物陰に引っ込む。
 銃弾が床や壁をえぐる。
 銃声はしない。
 サウンドサプレッサーか。
 どこから撃ってきているのか、敵は何人いるのか、誠司にはにわかに分からない。
 雪待が飛び出す。スノーボードのように手すりの上を滑って階段を駆け降りる。
 ロビーに降り立つ。
「武装、顕現」
 ハルバートが姿を現す。振るう。鮮血が舞い散る。踊るような動きで銃弾をかわしつつ雪待は敵を片づけてゆく。
 さらに青い火の粉が散る。天音の放った業火が人間だけを燃やす。さながら人体発火に似て、床は焦げず、服も燃えない。体だけが燃える。命が尽きるまで救いを求めて歩き回る姿は幽鬼のよう。肉を焦がす臭いが鼻を刺す。
 最後の敵が倒れた。
 ロビーに静寂が戻る。
 誠司がつぶやく。
「終わったのか」
 その時、ロビーに新たな人影が立った。長い黒髪を後ろで束ねた和装の女性が一人。誠司は一目で悟る。あれは善くない者だ。美しい外見に惑わされてはいけない。そこにいるだけで周囲の空気が凍りつくような。そんな不穏な気配をまとう。
 誠司は雪待に声をかける。
「雪待、気を付けろ。彼女はおそらく外法(げほう)使いだ」
「分かってる」と雪待は正面を見据えたまま答える。
 外法使い。
 護法使いの対極に存在する者たち。護法使いが内なる法に従うのに対して、外法使いは外なる法にもとづいて力を振るう。おのれの欲のために行動する外法使いは護法使いとは相容れない。
「銃はやっぱり駄目ね」と外法使いと思しき女性が声を発する。「腕は立つはずだったけど、それでもこの有様」
「貴方は誰?」と雪待。
「わたしは高浜狭霧」
「高浜狭霧か」と天音が口を開く。「宝石コレクターと聞いている。そんな君がボクらに何の用かな」
「単刀直入に言うわ。貴方の魔石が欲しいのよ」
 と高浜狭霧は白魚のような細い指で雪待を差す。
 魔石とは魔界に住む魔神を倒した時に結晶化したもの。人界と魔界の境があいまいだった昔とは違い、今は魔神自体が人界に来訪することがまれと言う。自然、宝石としても鑑賞される魔石の価格は高騰する。十七世紀以後、自動人形の制作が難しくなったのはそのためだ。
 動力源である魔石を失えば自動人形は死ぬ。
 高浜狭霧は微笑む。
「その代わり、貴方の想い人は見逃してあげるわ。それでどう?」
「そんな条件、のめるわけがない」
 と雪待は脅迫めいた提案を一蹴する。
 すると高浜狭霧は袖の中から魔石を取り出す。
 地面にほうる。
 高浜狭霧の笑みが増す。
 何かが招来される。瞬く間に魔石は周囲の構成物質を取り込んでゆく。床が振動する。何か巨大なものが顕現する予感が誠司を襲う。
 声を大にして誠司は叫ぶ。
「ゴーレムだ!」
 まずは腕が姿を現す。巨木のような腕を振るう。
 またも振動。
 かろうじて雪待と天音は立っている。
 ゴーレムの全体像が見え始めた。直立する。五メートルはあるだろうか。構成物質は木。しかし柔らかな印象は全くない。その硬い外皮はチェーンソーすら弾きそうだ。
 高浜狭霧はみずからのゴーレムに呼びかける。
「貴方はそこの可愛らしい護法使いの相手をしてあげて。わたしは本命を狙うから」
 ゴーレムは腕を振り上げた。

 雪待は一人、高浜狭霧と名乗る外法使いに対する。高浜狭霧は一見する限り武装していない。攻撃手段は何なのか。だが、相手に出方をうかがうよりも、こちらが取るべき最善の手は攻撃される前に倒すこと。
 雪待はハルバートを手に斬りかかった。
 その動きが途中で止まる。
 高浜狭霧は何もしていない。
 いや、違う。
 視ている。視線だけで雪待を拘束して放さない。これは魔眼だ。効果はおそらく魅了だろう、と雪待は推察した。
 状態異常には大きく分けて八種類ある。混乱、麻痺、凍結、衰弱、炎上、猛毒、睡眠、そして魅了。いずれも対象に悪影響を及ぼす点では変わりないが、やっかいな点では魅了が最も抜きん出ている。魅了された対象は魂を抜かれたように行動不能に陥るのだ。一度魅了されたら最後、自力での回復は不可能。この状態を俗に魅了ロックと呼ぶ。回復するには時間が経つのを待つしかない。
 だが、一秒すら惜しい戦いの場にあって魅了ロックが解けるのを敵が待ってくれるはずはないだろう。
 ではどうするか。
 高浜狭霧の指が中空に法印を描く。
『斬』
 衝撃波が飛ぶ。
 敵を切り裂く鋭い風だ。
 驚きの声が漏れる。
 雪待ではなく高浜狭霧から。
「かわした?」
 雪待は魅了ロックから回復して風を避けた。
 魅了ロックから自力で回復する方法はない。
 一つの例外を除いて。
 その例外に高浜狭霧は気づいたようだ。
「法眼ね。甘く見ていたわ。貴方、法眼所持者だったのね」
 魔眼による状態異常は視線と視線を合わせての暗示と言っていい。だが、まやかしは法に照らせばほころぶ。法眼は人々を導くために真実を見抜くもの。魔眼がいかに強力であろうと、暗示である以上、法眼には通じない。
 自由を取り戻した雪待は再び高浜狭霧に斬撃を見舞う。

 巨人と戦うことになった鈴原天音は落ち着いていた。
 圧倒的な質量が彼女に迫る。
 天音は後ろに跳ぶ。すんでのところでゴーレムのこぶしをかわす。破片が飛び散る。その中で天音が炎を使う。
 ゴーレムの巨体が炎に包まれる。
 このゴーレムの構成要素は木。
 よく燃える。
 燃えながらゴーレムは前に進む。
 腕を伸ばす。
 だが天音には届かない。
 その前にゴーレムは燃え尽きた。

 ハルバートの刃が高浜狭霧を捉える。
 かに見えた。
 だが次の瞬間、大量の羽毛が舞い散り、高浜狭霧の姿はかき消えてしまう。
「消えた?」
 雪待が周囲を見渡す。
 いない。
 どこにも高浜狭霧の姿は認められなかった。
 だが声はする。
「今夜は退くわ。でも、わたしを甘く見ないことね。わたしは狙った獲物は絶対に逃さない」
 そして途絶える。
 しばし、その場を沈黙が支配した。
 誰も声を発しない。
 やがて、ホールに降りてきた仁科誠司がようやく言葉を雪待にかける。
「大丈夫か」
「私は大丈夫。誠司は?」
「俺は大丈夫さ」
 仁科誠司が雪待を抱き寄せる。
「いつも危ない目に遭わせて済まない」
「謝らないで。自分で選んだ道だから後悔はしてない」
 それは心から自分の言葉。
 後悔はしていない。
 この恋を成就させるために生きると決めた。
 道行きに何があろうとも恐れない。
 でも今は――。
「温かい」
 この腕に抱かれていたい。



衝撃。そして回復。
見澤健吾(みさわ・けんご)はほぼ圧潰した車内で目を覚ました。落下した衝撃によって刑務官は二人とも死んでしまったようだ。健吾は刑務官のポケットを漁って鍵を探し出して手錠を外す。
両腕の自由を確保してから車から出る。
何故、自分だけが無事なのか不思議なくらいの大事故だった。
車道に飛び出してきた歩行者を避けようとして護送車は崖から落下。途中の木にぶつかりながら下まで落ちていった。全員が死んでいてもおかしくはない。
だが自分だけは生きている。
天運に恵まれていたに違いない。やはり自分はふつうの人間とは違う。選ばれた存在なのだ。殺人という究極の娯楽に目覚めたのはそれと無関係ではない。別に他人が憎いわけでも嫌いなわけでもない。それどころか自分ほど人間を愛している者がいようか。愛する者をより深く理解したいのは誰もが同じと言えよう。その手法があまりにも斬新すぎて一般人にはついていけないだけ。いずれ人々は自分の偉大さに気づく。それまでの辛抱だ。
健吾は踊るような足取りで事故現場を立ち去った。



「怖いね」
と仁科誠司はつぶやいた。
リビングでテレビを見ていてのこと。
となりに座る雪待が本に落としていた視線を戻す。
「どうしたの?」
「殺人鬼が移送中に逃げ出したそうだよ。ほら顔写真が出てる」
「そう」
「見澤健吾。典型的な快楽殺人者だ。ついでに誇大妄想も持っているみたいだね。恐ろしいやつが逃げ出したものだよ」
「ねえ」
「ん?」
「殺人はどうしていけないの?」
「そうだな」と誠司は少し考え込む。「可能性を奪うことだからじゃないかな」
「可能性?」
「そう可能性」と誠司はうなずく。「誰にでも可能性はある。善にも悪にもなる可能性がね。その可能性を奪うことはいけないことだ。それはみんなにとって損失だからね。俺はそう思ってるよ」
「そうね。私もそう思う」
雪待は再び本を読みながらそう答えるのだった。



 深夜の街路に声が響く。
何度目かの警告がなされた。
「止まれ!」
見澤健吾は無視して前に進む。
撃たれる。肩のあたりに当たった気がする。不思議と痛くない。
警官がさらに発砲する。
大丈夫。
まったく平気だ。
体は絶好調。
どこも痛くない。
それより今はのどが渇いている。のどの渇きを潤したい。健吾は警官にかみつく。流れ出る血をすする。美味い。かつてない味わいに健吾は感動していた。人の血がこんなにも美味かったとは。もっと早く知りたかった。どうして誰も教えてくれなかったのだろう。きっと、あまりにも美味すぎて癖になる者がたくさん出ることを恐れたに違いない。



鈴原天音が仁科誠司の工房にやってきた。
夕方のことだ。
学校から直接やってきたのだろう。
天音は制服姿のまま。
彼女は雪待に問いかける。
「連続殺人事件のことは聞いたかい?」
「何のこと?」
「最近、夜になると街で殺人事件が起こる。警察では手に負えないらしい」
「そうだったの」
「そこでボクらの出番だ。聞くところによれば犯人には銃も通じないらしいじゃないか。ボクらが出るしかない」
「そうね。行きましょう」
雪待は即決する。
そうなれば行動あるのみ。
雪待は天音とともに夜の街を巡回することにした。
何と遭遇するか予想もしないまま。

そろそろ梅雨入りの頃。
夜空はくもっていた。
いつ雨が降ってもおかしくない。
雪待と天音は夜の街を巡回し、歓楽街を一回りしたところ。
今のところ目ぼしい成果はない。
雪待が天を仰いでつぶやく。
「降らないで欲しいな」
「そうだね」と天音も同意する。
巡回を再開する。
今日は成果なしか。そう思い始めた頃。
天音が異常を嗅ぎ取った。
「血の匂いがする」
自動人形には味覚や嗅覚はない。
頼みは天音の鼻だ。
「天音。どっちから匂いはする?」
「こっち、かな」
天音が先導して歩み出す。
何度も路地を曲がる。気が付けば二人は狭い路地裏に入り込んでいた。照明が乏しい。あたりに一つきりしかない街灯が月のように青白く街路を照らし出す。
その路面が血に濡れていた。
天音がしゃがみこんで確かめる。
「血だね。まだ乾いていない」
「近いということね」
「うむ」と天音はうなずく。「急ごう」
路地に点々と付いた血をたどってゆく。
袋小路の最奥にその人物はいた。
犠牲者の首筋にかみついて血をすすっている。
まるで吸血鬼だ。
いや本物か。
大量殺戮などの悪行を働いた者は死後、吸血鬼になってよみがえるらしい。
雪待が呼びかける。
「貴方が連続殺人事件の犯人ね」
「おや」とその人物がこちらを向く。「麗しいお嬢さん方だね。実は男の血に飽きてきたところなんだ。ちょうど良かった」
「貴方、見澤健吾ね」
「良く知っているね。そうとも。俺が見澤健吾。血まみれのエンターテイナーさ」
「エンターテイナー?」天音が口を開く。「君のどこがエンターテイナーだって言うんだ?」
「俺の事件が人々を楽しませる。ほら、立派にエンターテイメントが成立してるじゃないか。需要に応じて供給する。俺は自分の役割を果たしているだけさ」
「話にならないね。それが大量殺人の言い訳かい?」
「天音。声は届いても心には通じない。話すだけ時間の無駄」
「そうだね。では始めようか、雪待君」
と天音の業火が見澤健吾を捉える。
見澤健吾が燃えてゆく。
だが彼は着ていたレインコートを一瞬にして脱ぎ捨てて炎から逃れる。
そのまま天音を襲う。
「っ!」と天音が息をのむ。
雪待が間に入った。
素早く顕現させたハルバートが見澤健吾の鋭く伸びた爪を弾く。
ハルバートが回転する。
刃が見澤健吾の胴体に命中。
しかし――。
「効かないね」と見澤健吾があざ笑う。
見澤健吾の体は硬質化していた。
吸血鬼はそれぞれの個体ごとに固有の能力を持つと言う。この場合は硬質化というわけか。ならば、どう攻める?
雪待の法眼が見澤健吾を視る。
見澤健吾のオーラは紫色をしていた。
うぬぼれの強い人物に多い色だ。
見澤健吾の体中に亀裂が走っているのが視える。吸血鬼とは死人と言えよう。死体を無理やり生かしているのだ。その不自然な状態が亀裂として表れているとしたら。
雪待はその亀裂に沿って刃を走らせる。
するりと抵抗感なく両手両足を寸断してゆく。
首だけが残った。
見澤健吾が悲鳴を上げる。
「いてえ! いてえよ! いっそ殺してくれ!」
雪待は宣告する。
「貴方は殺さない。殺してあげるほど私は優しくない」
ハルバートの柄の部分で見澤健吾の頭を殴る。
見澤健吾が昏倒する。



見澤健吾は暗がりで目を覚ました。冷たい床に寝かされている。手足は切断されたままだ。首だけを動かして様子を探る。
どうやら牢屋らしい。
ひんやりした空気からして地下か。
かつかつと靴音が近づいてきた。
扉が開く。
雪待という女性が入ってきた。
「ここはどこだ?」
「ここは地下牢。貴方は一生ここから出られない。吸血鬼の貴方は死ぬこともできず這いつくばって生きてゆくの。貴方の罪にふさわしい終わり方ね」
「嫌だ。これじゃあ死んだ方がましだ」
雪待は見澤健吾の哀願を無視して地下牢から出てゆく。
「さよなら」
「助けてくれ!」
見澤健吾の悲鳴が狭い地下牢に木霊する。
返事はない。
助けはない。
永遠に出られない監獄に見澤健吾は囚われた。



 このくらいなら大丈夫。
 自分は酔っていない。
 有川健(ありかわ・たける)は車を走らせた。見通しの利かない夜道でのこと。ヘッドライトの光が闇を裂く。その明かりの中に唐突に人らしきシルエットが二つ現れた。おそらくは母子。
 急ブレーキ。
 間に合わない。
「っ!」
 ひいた。ひいてしまった。
 何を。
 誰を。
 分からない。分からないでいたい。もう少しブレーキを踏むのが早ければ。やはり酔っていたせいか。いや、それよりも。
 有川健は周囲に目を走らせる。
 人気(ひとけ)はない。
 誰も見ていないはず。
 車を急発進させる。
 逃げる。逃げる。逃げる。
 今は少しでも早くこの場を離れたかった。
 ひいた人間たちがどうなったかは有川健の頭にない。



 仁科誠司が個展を開くことになった。評判が評判を呼び、一部の好事家の観賞物であった人形が一般の目に触れるまでに。それもこれも出資してくれた人物の助力が大きい。その人物は誠司に自動人形の制作を頼んだことがある。今は自動人形を娘のように扱い、二人で満ち足りた暮らしを送っているとか。
 初日。
 会場は静けさに包まれていた。
 来場者は多い方だろう。
 にもかかわらず静まり返っているのは誠司の作品群に目を奪われているからだ。
 何も見ていないようで視線を感じさせる瞳。温度を感じさせない冷たく白い肌。黒絹のようにつややかな光沢を放つ黒髪。時間が止まったように静止している人形たち。
 来場者たちは、ただ息をのみ、音を立てることさえ恐れているかのよう。
 それが異様な静けさを生んでいる。
 盛況と言えば盛況と言えた。
 かつかつ。
 決して健康的な嗜好とは言えないものの。
 かつかつ。
 ブーツのかかとが挑発的に床を叩く。
 扉を攻城鎚で破るような勢いで乱暴に開ける者が一人。
「ちょっと、セイジ! せっかくの晴れ舞台にアタシを呼んでないってのはどういうこと?」
 ピンク色の女だった。ツーテールにした長髪までピンクだ。服装は、ピンクを基調としていながら黒も配することで上品さは失われていない。ただ、目立つのは確か。会場の静謐な空気が一瞬にして吹き飛ばされていた。
 来場者と懇談していた誠司は一言断ってから歩み寄る。
「リュシカ。久しぶり。遠方だからね。さすがに来られないだろうと思ったんだ」
「心配無用よ。パパに頼めば軍用ヘリだってチャーターできるわ。それはそうと盛況みたいね。さすがセイジ。そこいらの人形師とは違うってことね」
 リュシカは満足げに会場を見渡す。
 彼女こそ、この個展に出資してくれた人物から娘のように愛されている自動人形だった。
 もちろん血のつながりはないが、リュシカは「パパ」と呼んで慕っている。
「ところで雪待はどこ? 話があって来たんだけど」
「あれ、さっきまでここにいたんだけどな」

 雪待は屋上にいた。
 女性客と語らっている誠司を見ているうちにいたたまれない気持ちになって会場を出たのだ。どれほど外見に優れていても決定的にかけているものが自分にはある。それが雪待を申し訳ない気持ちにさせてしまう。
 今は、屋上から見える眺望に何とはなしに目をやって時間を過ごしている。
「雪待」と呼ぶ声があった。
「リュシカ」
「こんなところにいたの。探したわよ」
「ごめんなさい」
 二人は仁科誠司を巡って争ったことがある。誠司の気持ちは揺れず、変わらず雪待を選んだことで争いは終着を見た。
 雪待はリュシカに対して真っ直ぐな女性という印象を持つ。それは出会ってから今まで変わっていない。欲しいものは欲しい。そういう気持ちをはっきり口にできる女性だ。リュシカなら生身の女性に対して嫉妬することはないのだろうか。
 雪待は心の底に溜めていた思いを吐露する。
「リュシカ。貴方は嫉妬することはある? 人間は人間といっしょにいるのが自然。そう思うことはない?」
「馬鹿馬鹿しい質問ね。でも答えてあげる。好きなんでしょう。いっしょにいたいんでしょう。それが答えよ」
「そうね。そうかもしれない」
「アンタにはちゃんとしてもらわないとアタシが困るのよ」
「どうして?」
「こんなやつに負けたと思うと腹が立つじゃない」
 実にリュシカらしい言い様だった。これでも心配しているらしい。分かりにくいといったらない。
 ところで、と雪待は話題を変える。
「貴方、何をしに来たの?」
「分かったのよ、人化(じんか)の方法が」
「本当に!」
「本当だって。わざわざここまで嘘を言いに来ないっての」
「それで、その方法というのは?」
 夜光杯(やこうはい)というガラス製のグラスがある。
 そのグラスに竜属(りゅうぞく)に連なる者の生き血を注いで飲めばいい。
 それで人間になれる。
「竜属……」と雪待は考え込む。「今の時代に竜の血が伝わっているかどうか……それにその夜光杯もどこにあるのかも分からないし……」
「分かるわよ」
「分かるの?」
「夜光杯ならパパのネットワークで何とかなるみたい」
「何とかなるの?」
「パパのネットワークをなめないことね」とリュシカは得意気だ。「でも竜属については見当がつかないみたい」
「そう。でも人化の方法が分かっただけでも前進よ。ありがとう。助かった。ところで、どうして教えてくれるの?」
「アタシは今、幸せなの。パパと出会えて良かった。今は素直にそう思える。そう思えるようになったのはアンタたちのおかげだと思うわ。だからアンタたちには幸せになって欲しいのよ」
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃないわ」
 とリュシカはきびすを返す。
「結婚式には呼びなさいよ」
 そう言い添えて。



 有川健の父親が会社のエレベータで溺死体になって発見された。
 エレベータのどこに溺死するほどの水があったのか警察は分からずにいる。
 分からないのは有川健も同じ。
 異常はそれだけにとどまらない。有川健の近しい者たちが次々と溺死体になって発見されてゆく。
 原因不明。
 動機不明。
 犯人不明。
 分からないことだらけだ。分かっていることは一つ。いつか自分の番が来るということ。それだけは確信できる。警察は当てにならない。有川健は街の顔役に頼み込んで護衛を雇った。護衛たちは物騒なものを持ち込んでいる。
 スターリング短機関銃。
 古典的なデザインをしており、マガジン(弾倉)が下方ではなく左方に突き出している。戦後を代表する短機関銃の一つだが、今では旧式化して第一線からは退役し、活躍の機会は少ない。だが性能が悪いわけでは決してない。接近戦では現代でも十分な威力を発揮するだろう。
 護衛の一人が声をかけてくる。
「有川さんよ。組の精鋭があんたを守ってるんだ。安心しなって」
「あ、ああ」
 と有川健は力なく答える。
 本当に大丈夫だろうか。睡眠不足のせいか精神状態が安定しない。不安で仕方なかった。酒を飲むことにする。浴びるほど飲む。あの夜と同じように。アルコールが不安を押し流してくれる。思考が鈍ってゆく。何も考えられない。
 ぽたり。
 水滴が落ちてきた。ふと見上げれば天井から水が垂れている。
 ぽたりぽたり。
 水量が多くなってゆく。
 上階は寝室などで占められている。
 今は誰もいないはず。
「見て来い」
 護衛たちの一人が上に向かう。
 間もなく銃声が響いてきた。だが、それも唐突に途絶える。後には先ほどの銃声が嘘のように思える静寂。護衛たちが全員、短機関銃の安全装置を外す。
 誰かがゆっくりと下りてくる気配が廊下から伝わってくる。
 開け放たれていたドアに人影が差しかかった。
「撃て!」
 護衛たちが一斉にフルオートで短機関銃を連射した。銃弾が壁をうがつ。一瞬にして壁が穴だらけになる。それでも人影は何事もなかったように入ってきた。無傷で。
 髪の長い女だった。
 うつむいているせいで表情はうかがえない。
 肌の色が異様に白い。
 人間とは思えなかった。
 ではいったい何だ。
 女が片腕を勢いよく振るう。護衛たちが声もなく切断される。一瞬の出来事だった。何か異様に切れ味の良いものが護衛たちの胴体を切断したのだということは有川健にも分かる。
 その女が告げた。
「おまえは楽には殺さない」
 気が付けば生きているのは有川健だけ。
 逃げる。
 酔っているせいで足がもつれてしまう。転んだ。振り返ると女がすぐそばまで迫っていた。
 有川健は唐突に思い至る。
 この女はあの夜にはねた母子の片割れだ。生きていたのか。
 両腕でしがみつかれる。
 有川健の視界が変わった。周囲を水が包む。溺れる。もがく。もがけばもがくほど酸素を失う。意識が遠のく。
 その瞬間だった。
 女が突然、青い炎に包まれる。
 水から解放された有川健は酸素を求めてあえぐ。
「こっちだ! 走れ!」
 呼ぶ声がする。
 有川健はすがるように声のする方へ走った。
 廊下に出る。
 中学生と思しき少女が手を引っ張った。
「あんた、誰だ?」
「説明は後! 今は逃げるのが先決だ!」
 家を出る。
 人混みの中へ。
 有川健は壁を背に息を整える。
 少女が問う。
「命を拾った感想はどうだい、殺人者」
「何のことだよ」
「君は一組の母子を車ではねて逃走。いわゆるひき逃げだ。その結果がこの有様というわけだね」
「何なんだよ、あの女」
「あれは魔神。人間ではないのだよ。君がはねたのはたまたま魔界から人界に来て人間と恋に落ちた魔神とその子供だったわけだ」
「何だよ、それ。わけ分かんねえ」
「人間をはねた場合であれば命を狙われることもなかっただろうが、この場合は違う。君は魔神が諦めない限り命を狙われ続ける。子供をひき殺されたのだから無理もないがね」
「あんた、俺の味方じゃないのかよ」
「一応ね。気は進まないが、ボクは護法使い。魔神を征伐する使命がある」
「その魔神ってやつ。さっきの炎で死んだんじゃないのか」
「甘いね。魔神の生命力を分かっていない。あの程度ではとてもではないが、死んでいまい。せいぜい時間を稼いだ程度だね」
「ちっくしょう! なんて俺がこんな目に!」
「まだ分かっていないのかね」と少女は冷ややかにこちらを見る。「ひき逃げの代償は決して小さくはないということだ」
「う……」
 有川健は絶句。
 一見して幼い外見を持つ少女に圧倒されている。
 悔しいが、少女の言う通りだった。
 自分がずっと罪から目を背けていたのは確かなことだ。
 指摘されるまでもない。
 微塵も親しみを感じさせない口調で少女が言葉をつむぐ。
「一応、自己紹介しておこうか。ボクは鈴原天音。人間の世界を守るのが役目の護法使いだ」
「俺は有川健」
「知ってる。名乗らなくていい。役目だから君を守るが、親しくなる気はまったくないからね。じゃあ行こうか」
「どこへだよ」
「魔神を迎え撃つのに最適な場所にさ」
 鈴原天音と名乗った少女はそう答えたきり沈黙する。
 今はおとなしく従うよりほかにない。

 天音が向かった先は廃工場だった。ここなら人目を気にせず存分に戦える。逆を言えば魔神にとっても襲いやすいということ。来襲は時間の問題と思われる。
 ふと人影が陰から現れた。
「天音。彼が狙われているひき逃げ犯?」
 先に来ていたのは雪待だ。彼女はここで罠を作っていた。魔神とは言え、事情が事情であり、できれば生け捕りにしたい。天音と雪待はそう意見が合致した。むしろ卑怯なひき逃げ犯より被害者である魔神に感情移入しているかもしれない。魔神の復讐は明らかにやりすぎではあったが、動機は十分に理解できる。
 恋をした相手はすでに死んだらしい。
 残されたのは子供だけ。
 何としても守りたい対象であったことだろう。
 それを奪われた。
「なあ、誰? この美人?」
 と有川健が雪待について天音に問いかけてきた。
 自分の置かれた状況をまだ理解していないのかもしれない。
 天音は殴りたくなる衝動を押さえなければならなかった。
 すぐに日が落ちる。
 襲来の時は近い。
 じっと待つ雪待が口を開いた。
「やっと分かった。人間になれる方法が」
「ほう」と天音。
「実現は困難ではあるけど、不可能じゃない」
 と雪待は説明する。
「竜属か」と天音は思案する。「確かに探し出すのは難しそうだ。しかし、だとすればいいのかな」
「何が?」
「こんな男を守っても君の得にはならない」
「護法使いである貴方の手伝いをしたいと申し出のは私。得にならないのは初めから分かっていた」
「ならば何故?」
「人間らしいことがしたかったから。それが理由。私たち自動人形は人間とは決定的に違う。でも、その差異を人間らしいことをすることで埋めたかった」
「そうか」と天音はうなずく。「君への理解が深まった気がするよ。竜属が見つかるといいね。その時は手伝うよ」
「ありがとう」
 廃工場の正面入り口を閉ざす扉を何者かがノックした。
 ごーん。
 扉は鉄製だ。
 ごーん。
 素手で叩いているのだろうか。
 ごーん。
 まさか、と天音は首を横に振る。
 ノックはやまない。
 むしろテンポが速くなる。
 急かすように。
 焦らすように。
「有川健ならここにいる! 姿を見せたらどう?」
 と雪待が叫ぶ。
 ノックがやむ。
 しばし沈黙。
 扉が何かによってくり抜かれた。音を立てて扉が床に倒れる。やはり魔神だった。今はまだ人間の姿だ。
 雪待が説得を試みる。
「復讐を果たしても子供は帰ってこない。それは分かっているでしょう?」
「だからと言って許せるはずがない」
 と魔神は歩みを進める。
 その歩みを止めるものがあった。雪待が張っておいた陣だ。不可視の陣だったが、魔神がそこに触れた途端、姿を現して効果を発揮する。地面から無数の触手が伸びて魔神に絡みつく。触手が魔神の体をはい回る。完全に魔神を拘束。魔神は動けない状態で宙吊りになる。
 だが――。
「これで勝ったと思ったか」
 魔神の体が変化(へんげ)する。
 全高は三メートルへ。
 脇腹から長く伸びた手足はクモに似ているように天音は思う。手足の先は尖っていて鉄板でさえ貫通しそうだ。全体を黒光りする装甲のようなものが覆う。化け物と言っていい。それでも顔だけは美しい女のままなのがかえって恐ろしい。
 魔神の巨体が陣による拘束を脱する。
 その姿を見た有川健は正気を失った。
 アルコールに依存していた精神では魔神の正体に耐えられなかったらしい。
「業火よ!」
 天音は焼き尽くそうと炎を呼ぶ。
 生け捕りにするつもりだったが、失敗した以上は仕方ない。青い業火が魔神を包む。業火は罪を責め立てるもの。これまで魔神が殺めてきた命の重さが魔神を苦しめる。
 法力全開。
 天音は後先考えず全力を出す。
 魔神の動きが止まる。
 黒い装甲が溶けてゆく。
「あと少し……!」
 あと少しで倒せるはず。
 その時、内臓の中身を引っかき回されるような違和感が天音を襲う。おう吐感に耐える。
 顔を上げると炎は消えていた。
 集中力が途切れたのだろう。
「まずい!」
 魔神の腕が一閃する。
 何かが噴き出す。
「危ない、天音!」と雪待が抱きついてくる。
 天音と雪待は紙一重でかわした。
 見れば、背にあった廃材が切断されている。
「水だ」と天音は正体に気づく。
 高圧で押し出された水流は鋭利な刃物すら凌駕する切れ味を見せる。
「ボクにかまうな。ボクの法力は尽きた。戦力外だ」
「分かった。あとは私が何とかする。貴方は隠れていて」
 雪待が走る。
 魔神に向かって一直線に。
 水による斬撃が彼女を襲う。
 跳ぶ。
 雪待は高く跳んで斬撃を避ける。
 雪待は魔神の首の位置で滞空。
 ハルバートの刃が光る。

 雪待が着地する。
 ハルバートは振るわれなかった。
 後方で見ていた天音が疑問を口にする。
「何故、斬らなかったんだ? 絶好のタイミングだったはずだよ!」
「彼女、泣いていた」
「だからと言って手加減している場合かね! 相手は魔神! 人類の敵だ!」
「分かってる。でも私には見捨てられない」
 再び斬撃が雪待を襲う。
 紙一重で雪待はかわす。見切っている。それでも攻撃しなければ勝ち目はない。いつか負けるだろう。
 雪待はあらん限りの声を出す。
「貴方の気持ちは分かる! 確かに今は復讐しか頭に浮かばないかもしれない! でも未来のことを考えて! 貴方はこれからも生きる! 生きてゆく! 復讐からは何も始まらない!」
 雪待は危険を承知で魔神の正面に立つ。
 だが攻撃は来なかった。
 目と目が合うのが分かる。
 漏れる嗚咽。
 それは魔神からのものだった。
 天音がつぶやく。
「法眼の法力が魔神の復讐心を解いた?」
「そんなこともできたんだ……」
 雪待は自身のことながら半信半疑。
「法眼は人々を迷いから救うためにあるからね。そんなことも可能なのだろう。いやはや。驚いたよ」
 いつの間にか魔神は人型に戻っていた。
 涙を流しながら。
 雪待はそんな魔神を抱き締める。
 泣き止むその時まで。



 高浜狭霧はその様子を遠くからうかがっていた。
 やはり法眼の法力はすさまじい。前回、対決した時より法力は増しているよう。まさか復讐心に囚われた魔神を説得してしまうとは。
 攻略は容易ではない。
 高浜狭霧の戦闘方法は状態異常によって相手の行動を封じようというもの。そのために魔眼をみずからの目に宿した。状態異常を与える上で最も適しているのが魔眼だからだ。だが、それも法眼には通じない。直接的な攻撃が最も有効なのだろう、と高浜狭霧は決断せざるをえない。
 それも手は打ってある。
「見ていなさい」
 不吉な言葉を残して高浜狭霧はこの場を去った。



 鈴原天音は静修(せいしゅう)女学院という女子校に通う。何かと斜にかまえたところがある素行に悩まされた両親がそこへ行くように命じたからだ。静修女学院はいわゆるお嬢さまたちが通うミッションスクールとして知られる。中高一貫で、キリスト教にもとづく女子教育を施すことを目的に戦後間もなく開校した。寄宿舎も充実しており、ほとんどの生徒たちがそこで寝食をともにしている。天音のように自宅から通う生徒はまれだ。
 魔神との戦いが終わり、天音はいつもの退屈極まる生活に戻っていた。
 お嬢さま学校というのはどうにも性に合わない。
 型にはめようというやり方に対して反射的に逆らってしまうところが天音にはある。両親にも教師にも反抗してしまうのだ。おかげで問題児として見られている。放校されないだけましだろう。今、天音は中学二年生。卒業まであと四年あまり。この調子でもつだろうか、と思わないでもない。
「よお、天音。また生徒指導室に連行されたんだって?」
 と教室で声をかけてきたのは数少ない友人である佐村静流(さむら・しずる)だ。
 長く伸ばした黒髪に眼鏡という外見だけを挙げれば優等生に見えなくもない。
 実態は、ロックを好む好漢。
 ふつう少女を好漢とは呼ばないが、静流に対してはそういう呼び方がしっくりくる。教師たちやシスターたちの前では猫をかぶっているが、天音の前では地金(じがね)が出るらしい。外出時にも制服着用が義務付けられている静修女学院にあって、私服でライブハウスに通う勇者でもある。
「静流君か。何もしてないよ。ただ用事があって二日ほど学校に来れなかっただけさ」
「十分だろー」と静流。
 護法使いとして活動していることは当然ながら秘密。学校にも友人たちにも。だから返す言葉がない。こういう時、正義の味方は辛いと天音は思う。人知れず傷つき、人知れず涙する。それでも、この世界から不幸が一つでも減ってゆくのであれば十分だ。
 兄の代わりに護法使いになった日、そう思い定めた。
 その思いは今も変わっていない。
「おまえはマークされてるからなー」
「それより静流君。何か用があるんじゃないのかね」
「お、勘がいいね」と静流は声を落とす。「カラオケ行かないか。みんな付き合い悪くてさ」
「校則違反だからね」
「で、どうよ?」
「行くよ。今日は特に用もないしね」
「そうこなくっちゃ」
 それで放課後。
 駅前にあるカラオケ店にてロックを熱唱する佐村静流の姿があった。
 さすがに上手い。
 ライブハウスに足しげく通っているだけのことはある。
 一曲歌い終えて静流が感想を尋ねる。
「どうよ?」
「上手いね」
 天音は率直なところを述べる。
 静流は満足げだ。
 次は天音の番。
 天音は演歌を選曲していた。
 切々と恋する女心を歌い上げる。
「天音、上手いじゃん」
「君ほどじゃないよ」
「いやいや。なんか熱が入ってたぜ」
 それからしばらく天音たちは歌い続けた。
 さすがに疲れて小休止する。
 息を着いた静流は突然に言い出す。
「おまえって謎だよな」
「何だね、急に」
「いや、だから男関係の話」
「男?」
「校内じゃ浮いた話一つ聞かないし、こっそり男を作ってるようでもない。かと言って男に興味がなさそうかと言えばそうでもない。なあ、謎だろ」
「ボクはこの通り、男の子みたいなしゃべり方だし、貧相な体だ。言い寄る男なんていないさ」
「そうでもないだろ。確かに小っちゃいなりをしてはいるが、顔や体の作りは悪くない。で、どうなんだ、好きな男はいないのか?」
「黙秘権を行使する」
「かー、そう来たか」
 言えるはずがない。実の兄を愛しているなどと。いくら厳しいミッションスクールであっても、ふつうの恋愛ならばまだしも許容される可能性があるが、近親同士となると完全に倫理に反している。認められる可能性はない。親しい間柄でも秘密にしなければならない想い。例え成就しても隠しておくべき関係なのだ。佐村静流を信用していないわけではないが、秘密を知る者は少ない方がいい。
 その静流はあっさり引いた。
「まあ、いいさ。詮索するなって言うならしない。それがあたしの流儀だからな」
「君のそういうさっぱりしたところは好ましいね」
「さあ、気を取り直して歌うか!」
 そこで時間が来た。
「どうする、静流君。延長するかね?」
「歌い足りないのは確かなんだがなー。時間的にまずい。そろそろ帰らないと寮の門限になっちまう」
「では仕方ないな。帰るとしよう。楽しかったよ、静流君。また誘ってくれ」
 それぞれの家路につく。

 天音は駅前で佐村静流と別れて帰宅しようと歩き出す。
 その足が止まった。
 見知った顔を見かける。着物姿に束ねた長い黒髪が印象的な女性。外法使いの高浜狭霧だ。一人で雑踏の中にいる。相当目立つ外見にもかかわらず人々の目は彼女に向いていないらしい。何か法力を使っているのかもしれない。
 天音は高浜狭霧の後を追うことにする。
 良からぬことを企んでいるに違いない。
 追いながら雪待と連絡を取る。
 すぐに雪待とつながった。
「雪待君か。ボクだ。高浜狭霧を見つけた。今つけている。場所は駅前の――」
 高浜狭霧はショッピングモールに入ってゆく。
 中は人で込み合っている。
 異変は高浜狭霧の足元で起こった。
 彼女の影の中から怪異が現れる。
 巨体を漆黒で染めた虎(とら)だ。
「存分に食らいなさい」
 と高浜狭霧が猛虎を放つ。
 買い物を楽しむ人々に向かって虎が走り出す。
 その前に立ちふさがる小柄な人物。
「やめたまえ」
 鈴原天音だ。
 小さな体で矢面に立つ。
 邪魔された虎は用心深く様子をうかがう。
 高浜狭霧が悠然と語りかける。
「久しぶりね、小さな護法使いさん。貴方に用はなかったのだけど、ちょうど良いわ。新しい使い魔の実力を測る相手になってもらおうかしら――行きなさい」
 その言葉を待っていたかのように虎が天音に飛びかかってくる。
 とっさに天音は横に転がって避けた。
 天音は体勢を整えながら炎を発現させる。
 虎を炎が包み込む。
 爆散する業火の中で虎は平然と耐えていた。
「業火は背負った罪が重いほど効果的。でも獣が人を殺しても罪にはならない。人から遠いものほど大量殺戮に向いていると言えるわね」
 高浜狭霧は余裕の表情で観戦している。
 虎が立ち上がった。二足歩行に姿勢を変更。全高は二メートルを超える。その爪を振り下ろす。回避は間に合わない。
 死ぬ。
 鈴原天音は死を覚悟した。

「天音!」
 雪待がショッピングモールに駆けつけた時には一歩遅かった。鈴原天音ははらわたを飛び出させて仰向けに倒れている。致命傷ということは一目で分かった。
 天音のかたわらに立つ虎と女がこちらを向く。
「久しぶりね、雪待さん」
「何故こんなことをするの」
「そうね」と高浜狭霧は口元に指を当てて考え込む。「貴方の魔石が欲しいからでしょうね。魔石はただ美しいだけじゃない。歴史があるの。その歴史ごと奪ってわたしのコレクションに加えたい。それが理由でしょうね」
「そんな理由で……!」
 激高した雪待が飛びかかる。
 同時にハルバートを顕現。
 着地とともに刃を振り下ろす。
 その刃を受け止めたのは虎だった。
 鋭利に伸びた爪でハルバートを止めてみせる。
「ワータイガー?」
「その通り」と高浜狭霧がうなずく。「獣人の中でも最も強靭な体を持つわ。物理的に圧倒するにはうってつけの使い魔というわけ」
 雪待とワータイガーが打ち合う。
 ハルバートと爪が激しくしのぎを削る。
 一合。
 二合。
 五合。
 十合。まだまだ終わりが見えない。
 そこへ高浜狭霧が割って入る。
 中空に法印を描く。
『射』
 地面がめくれ上がるように変化する。
 石つぶてが雪待を襲う。
 攻撃自体はたいした威力ではない。
 だが気をそらすには十分だった。
 ワータイガーの一撃が決まる。雪待の体が吹っ飛ぶ。エントランスホールに立つ柱に背を打ちつける。
「く、ぅ!」
 苦悶の声が漏れる。
「止めを刺しなさい」と高浜狭霧が命じる。
 ワータイガーが雪待に迫る。
 圧倒的暴力。
 自分ではかなわないのか。
 いいや、諦めない。
 雪待は目を見開いて敵の姿を捉える。ワータイガーは神話の時代に原型を持つ生物だ。雪待はその歴史と対峙しているに等しい。年月という重みがのしかかる。だが雪待が宿すのは法眼。あらゆる悩みから人々を解放させる。
 ハルバートが一閃した。
 それでワータイガーが停止する。その姿が人間に戻ってゆく。
 雪待はワータイガーを斬ってはいない。
 では何をしたのか。
「何をしたの?」と高浜狭霧は問う。
「歴史と個人を切り離した。ここにいるのは、もうワータイガーなんて怪物じゃない。ただの人間」
「馬鹿な」と高浜狭霧は納得していない。
「歴史の重圧に苦しむ人を救うのも法眼の役目」
 と雪待は高浜狭霧に向き直る。
 ハルバートが光った。
 高浜狭霧が逃げ出す。
 その体が鳥に変わる。
 散りゆく羽毛。
 またしても逃がしたか。



 鈴原天音はおぶされている格好で目覚めた。
「ボクは……?」
「気が付いたか」
 兄の和音だった。
 自分を背負って歩いている。
 どうして自分は生きているのか。
 致命傷だったはず。
 まさか。
「兄さん! 法力を使ったのか!」
「使ったよ」
 和音は治癒術に優れた護法使いだった。
 だが――。
「忘れたわけじゃないだろう。兄さんは呪いを背負っている。法力を使えば寿命が減るんだよ!」
 過去の戦いで鈴原和音は敵となった外法使いの呪いを受けて引退を余儀なくされた。
「でも、法力に頼らなくちゃ、おまえを助けられなかった。仕方ないだろ」
「どうしてそこまでするんだ」
「妹だからな」と和音は即答する。
「たかが妹じゃないか。そこまでする気が知れないよ」
「たかがじゃない。大切な家族だ」
 相変わらずの模範解答。
 兄のすごいところは本気で命をかけてしまう点にある。
 生まれついての聖人君子とでも言おうか。
「でも……」とためらいがちに天音は口を開く。「女の子としては見てくれてはいないんだろ」
「当然だろ」
「今は大切に扱ってもらっていても、いずれ兄さんには恋人ができて、結婚もして、ボクから離れてゆく。耐えられないよ」
「例え結婚しても、おまえは特別な存在だよ。それは決して変わらない」
「兄さん……」
 胸が熱くなる。
 妹としてしか見てくれないことは分かっていても、優しくされるたびに切なくなってしまう。ずっと兄の背に寄りかかっていたい。このまま家に着かなければいいのに。そんな子供じみた考えが天音の心に浮かぶ。
 そこでふと気になった。
「なんでタクシーを使わないんだい?」
「血まみれのおまえを乗せられなかったんだよ。だから徒歩。ほら家が見えてきたぞ」
「うん」
 きっと自分たちは今の関係が最良なのだろう。
 そう思える。
 恋は実らなかったけれど。
 この人を好きになって良かった。



「また負けた……」
 高浜狭霧のつぶやきが漏れる。
 場所は仮のアジトとして使っているホテルの一室。
 手早く素肌の上に襦袢(じゅばん)をまとう。
 法眼は確実に進化している。もはや手に負えない。だが負けを認めるのは悔しい。最高級の自動人形を動かす魔石の価値は計り知れないのだから。
「汝の役割は終わった。諦めてどこへなりとも去るがいい」
 不意に声が響いた。
 見れば、部屋には黒衣の男がいつの間にか入ってきている。
 高浜狭霧はつぶやく。
「御杖隆賢(みつえ・りゅうけん)……いつからここに」
 答えず、
「汝のおかげで法眼は完成した。歴史と個人を切り離すとは素晴らしい。まさに衆生(しゅじょう)を導くにふさわしい」
 と御杖隆賢と呼ばれた男は己の存念を語る。
「魔石の情報をわたしに流したのはわたしを使って法眼の成長をうながすため?」
「然り。我はこれまでいくつもの障害を用意した。汝もその一つ。光栄に思うがいい。汝は法眼の完成に寄与できたのだから」
「貴方の目的は何?」
「法眼を手に入れる。我はこれまで衆生を導くための法力を与えてくれるものを五体に埋めてきた。法眼を移植すれば我の夢はかなう。末法の世に新たな仏が顕現する」
「そんなツギハギだらけの神仏で人々を救うなんてお笑いね」
 高浜狭霧が御杖隆賢をにらむ。
 魔眼発動。
 魅了の魔眼が御杖隆賢の自由を奪う。
 そのはずだった。
「切人(きりひと)」
 一瞬にして間合いを詰めた御杖隆賢の手刀が高浜狭霧を斬る。
「そんな……」
「我の心を魅了することはかなわない。我の心はすでに死んでいる。我の関心事は全て人類救済のことばかり。そのほかのことには意味がない。我は人として死んだも同然。死体をどうして魅了できようか」
 高浜狭霧が倒れ伏す。
 御杖隆賢。
 異常な男だ。
 法眼に対して妄執のようなものを感じる。こんな男に人類は救済されるのだろうか。高浜狭霧の意識がかすむ。
 せめて一矢報いたい。
『爆』
 法印を描く。
 爆発がホテルを揺さぶった。



 夜光杯が雪待と仁科誠司のもとに届いた。
 夢の実現に一歩近づく。
 あとは竜属が見つかればいい。
「あと少しね」と雪待。
「ああ」
 とうなずきながら誠司は雪待の髪を撫でる。
 気持ち良い。
 どうして髪に触れられているだけなのにこんなにも心が安らぐのだろう。
 これが生身ならば。
 雪待はそう思ってしまう。ふつうの人間に生まれることがどれだけ幸せなことか。そもそも生まれることのできなかった雪待には分かる。だが今はこの幸せをせいいっぱい感じていたい。

 仁科誠司に人形制作の依頼が入っていた。先方は、見せたいものがあるからと言って工房には足を運んではいない。誠司の方から直接おもむくことに。
 一人、誠司は車を走らせる。
 近郊に建つ屋敷が目的地だ。
 到着すると使用人がすぐ奥へ案内してくれた。
 誠司は一目見て気づく。今の使用人は自動人形だった。まさかとは思うが、この屋敷にいる者は全て自動人形なのか。
「お待たせした」
 と応接間に入ってくる人物。
 彼が依頼人か。
 僧服のような黒衣を身にまとっている。
 厳かな声で名乗った。
「御杖隆賢と申し上げる。このたびはご足労いただき感謝する」
「いえ、仕事ですから」
「早速だが本題に入ろう。仕事というのは方便。汝を一人で誘い出すための口実だ」
「何が目的で?」
「我の目的は雪待殿が宿す法眼。雪待殿をおびき寄せるために汝には人質になってもらう」
「法眼を手に入れてどうするつもりだ?」
「我が仏となって衆生を救う。そのためにはどうしても法眼が必要なのだ」
 正気を疑うような発言。
 それでも御杖隆賢の声はあくまで落ち着いていた。
 まるで説法を受けているかのよう。
 本当に僧侶なのかもしれない、と誠司は御杖隆賢という男を観察する。この男に雪待たちは勝てるだろうか。結論は出なかった。

 その日のうちに雪待は一人、御杖隆賢の屋敷に呼び出された。
 一人で来いとのこと。
 御杖隆賢という名前に鈴原天音は反応を示した。
「御杖隆賢? 監禁している犯人は御杖隆賢というのかね?」
「そうだけど」と雪待。
「竜属と聞いているよ」
「有名なの?」
「護法使いの間では名が知られているね。優れた護法使いだったと言うが、途中から外法使いに転んだとか。言わば裏切り者だ」
「どうして裏切ったの?」
「それは分からない。だが強敵だよ。用心してかかった方がいい」
「ありがとう。でも私一人で行く」
 そして雪待は夜光杯を収めたトランクを持って御杖隆賢のもとにおもむいた。
 時刻は夜半。
 雪待を迎えるように正門がひとりでに開く。
 庭にはいくつものかがり火がたかれている。
 雪待はハルバートを顕現させた。
「御杖隆賢! 誠司はどこ?」
「ここに」
 と御杖隆賢と思しき黒衣の男が答える。
 いつの間にか庭先に立っていた。
 そこには縛られた仁科誠司の姿も。
「誠司を放しなさい!」
「いいだろう。ただし――」と黒衣の男は手を伸ばす。「その両目、この隆賢がもらい受ける」
「っ!」
 気づいた時には御杖隆賢は目の前にいた。
 雪待の反応が間に合う。
 ハルバートが横なぎに振るわれた。
 御杖隆賢は片腕でハルバートを止めてみせる。
 だが、その腕は無傷のまま。
「そんな!」
「我の体の各所には竜骨(りゅうこつ)が埋め込まれている。その程度の攻撃では傷もつかんぞ」
 御杖隆賢は、予備動作を感じさせず、滑るように間合いを詰める。
 その手が雪待の頭をつかむ。
 締め上げる。
 すさまじい力。
 骨がきしむ。
「ぐっ!」
 活路を求めて雪待の法眼が御杖隆賢を視る。御杖隆賢の色は様々なものが混じり合って濁った黒色をしていた。体中、継ぎ接ぎだらけだ。一瞬だけ竜骨と竜骨の継ぎ目が見えた。そこに刃を走らせる。するりと腕が切断された。
 解放された雪待は間合いを取って後退する。
「驚いたぞ。法眼にはそのような使い道もあったとは」
 片腕を失いながら隆賢は動揺の色を見せない。
 むしろ賞賛さえしている。
 異常な人間性を前にして雪待は聞かずにはいられなかった。
「いったい何が目的なの?」
「その法眼があれば衆生を救う道も見える。汝より我こそが法眼を持つにふさわしい」
「そんな押しつけがましい救いにどんな価値があるの? 人はみずからの意思で自発的に変わるべきでしょう」
「それではいつまでも衆生は救われん。救おうとしてもこぼれ落ちる命がある。我は法眼によって誰一人こぼすことなく救ってみせる」
「貴方は悲しい人ね。優しすぎて世界の残酷さに耐えられなかった。だから最後に人の業(わざ)を超えたものにすがらずにはいられなかったのよ」
「それでも我は我の道を行く――切人」
 二人の影が交差する。



 教会の鐘が鳴り響く。
 結婚式の始まり。
 雪待は純白のウェディングドレスを身にまとっていた。今日の日のために用意しておいたものだ。まだ下腹部のふくらみは目立たない。教会の入口から祭壇まで赤いじゅうたんが敷かれている。祭壇のところには正装した仁科誠司が立つ。父親のいない雪待は一人バージンロードを歩む。
 盛大な拍手が雪待を迎える。
 祭壇まで着いた。
 誠司が微笑む。
「良く似合ってる」
「はい……」
 誠司が雪待のベールをめくる。
 誓いのキス。
 そして、どちらともなく腕を組む。
 歩み出す。
 二人――いや三人で歩む未来へ向けて。

クジラ
2013年02月05日(火) 19時18分49秒 公開
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■作者からのメッセージ
未熟な出来ですが、読んでいただけると幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:30点  ■2013-08-17 12:25  ID:WlfWMIqHymQ
PASS 編集 削除
面白かったですが、いろいろと掘り下げが甘いような気がしました。
急展開すぎて、一気読みがキツかったです。
ラストも、唐突に感じました。

キャラ自体は好きなので、そういう点でも惜しいように思いました。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2013-02-13 06:45  ID:52PnvSC7.hs
PASS 編集 削除
こんな不完全な作品に感想をくださってありがとうございます。
正直、この小説は書いていて設定に失敗したと思っていたんです。
だから早く書き終えて次に移りたかったのです。
描写不足はそのあたりに起因していると思われます。
やはり事前の設定作りは重要ですね。
No.1  お  評価:30点  ■2013-02-09 02:42  ID:.kbB.DhU4/c
PASS 編集 削除
どうもです。
えーっと、ちゃっとでもちょっとお離ししましたね。
描写が少ないという評価をされたそうですが、僕は、らのべってそんなものじゃ? とその時返事をしました。
が、実際読んでみて、あぁ、こりゃ、いくらラノベにしても描写なさ過ぎだろうと感じました。
この文章量なら展開はこの半分以下、この展開なら文章量はこの倍以上が僕の相場観ですね。
面白い面白くない以前に、性急すぎて、楽しんでいる間もない。
ま、落ち着いて茶でも一杯お上がりなされと言いたくなるw
あと、ラストはいくらなんでも……
前作同様、設定に個性が光らないのも、ちょっと、きにかかる点ですね。
そして、今作はまるっきり生かされていないキャラがいる。それも主要キャラで。続き物ならばそれでも良いんでしょうが、単発ではキツイと思いました。
なにより、書き込み不足のため、ワンエピソードが薄い印象しか持ち得ない。ただ、今回は悪者オネーさんが繋ぎになっていた分、展開の繋がりはあって、その分には一本の物語りらしくて良かったです。逆に言えば、もっと早くから人化を目的に掲げていても良かった気もしますね。
単発のエピソードを数詰め込むよりは、意味のあるエピソードを厳選して効果的に配置すると、より良くなるんじゃないかなぁと観じました。
でもまぁ、愉しかったです。でわ。
総レス数 3  合計 60

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