彼女と時計の物語
 彼女が故郷の森を出たのは、前を向いて生きてゆくため。



 彼女には奇癖がある。
 彼女――ジゼルは人間の街に潜みながら殺し屋を生業にして日々の糧を得ていた。殺し屋として、自分に欠陥があることにジゼルはすぐに気付いた。彼女は、無抵抗な標的では充たされず、むしろ手強い標的を進んで求めるところがあった。標的が手強いほど、体は火のように熱くなり、心は刃のように冷たくなってゆく。
「生きている。今、私は生きている」
 緊張感と高揚感が入り混じる瞬間は何物にも換えがたい。
 種族も、宗派も、国家も、個と個の戦いでは役に立たない。頼りになるのは己のみ。ジゼルはそれが気に入った。どうやら自分は殺し屋としてだけでなく生き物としても欠陥があるらしい、と彼女は自らに結論を下す。
 不満はなかった。



 ジゼルはある男の命を狙った。
 結果は彼女の惨敗。
 殺し合いにすらならなかった。男に軽くあしらわれただけ。圧倒的な技量の差を見せつけられてジゼルは逃げるしかなかった。
 一言だけ漏らした男の言葉が何故か印象に残っている。
「ダークエルフか。珍しいな」
 そうつぶやく男はあくまで淡々としていた。
 珍しいものを見てつい率直な感想を口にしたのかもしれない。実際、ジゼルに対して特に興味を持っているようにも見えなかった。
 そんな対応をされたのは、森を出て初めてのことだった。



 いつだったか、物好きな神父がジゼルを訪ねたことがある。
 正確には、自分のことをかぎ回っている人間を返り討ちにしようとジゼルが待ち構えていたとも言う。
 ダークエルフに対する人間の対応は、この国では二種類に分かれる。一つは、悪の種族である彼らは根絶すべきというもの。もう一つは、愛をもって彼らを善に導こうというもの。
 後者に属する神父は説教の最後をこう締めくくった。
「かわいそうに」
 憎悪には憎悪を。
 報復には報復を。
 けれども同情には何をもって応えればいいのだろう。
 ジゼルには分からない。
 それでも差し伸べられた手を取ることは彼女にはできなかった。
「我らは闇の眷属(けんぞく)! 誇り高き種族だ! 神の犬になどなってたまるか!」
 そう叫んで、ジゼルは神父を追い払った。
 ジゼルは先祖のことを、強者にすり寄って同族を裏切った恥知らずに過ぎないと捉えている。力が欲しいなら、打ち倒して全て奪えばいい。分け前をもらうために擦り寄るなど論外。だが、今さら昔に戻ってやり直すことなどできない。ジゼルたちは先祖の罪を背負って生まれてくる。もう闇の力などほとんど残っていない。それでも悪の種族であることには変わりがなく、功名心に駆られて襲いかかる人間は数多い。ダークエルフの首は高く売れる。全てを承知の上でジゼルは、背を丸めることなく、前を向いて生きてゆきたい。
 悪と呼びたいなら呼べばいい。
 ならば自分は、功名のために襲いかかる者たちを、悪の種族にふさわしい高貴さと優雅さをもって迎え撃とう。



 ジゼルは毎夜のように男のもとへ通った。
 目的はもちろん男の命。
 男は何故かジゼルを殺そうとはしなかった。だが甘くもない。ジゼルの力量を見極めつつ、対応を誤れば死に至る反撃を仕かけてくる。彼女を鍛えようとでもいうのだろうか。男の目的が不明だった。単なる暇つぶしではないか、という可能性をジゼルの心のどこかが激しく否定する。
 では何のために?
 戦いの刹那に思うことがある。
 男には人殺しの技以外に誰かに遺すものを何も持っていないのではないか、と。
 それならそれでいい。
 男がジゼルを鍛えようとするなら、ジゼルは男の全てを盗むのみ。



 奇癖と言えばもう一つ。
 ジゼルは仕事を途中で放棄することはしない。一度狙った標的は仕留めるまで狙い続けるのが彼女の流儀。とは言え男との差はまだまだ埋まらない。
 当分、次の仕事に移れそうになかった。



 あれは何度目の夜のことだったか。
 男は不意に一振りの短刀をジゼルの足元に投げる。
「これは……」とジゼル。
 激しい攻防はどれほど続いていただろう。
 気が付けば夜明けが近い。
 それでもジゼルはかろうじて立っていた。だが、それももう限界。立っていること自体が自分でも不思議だった。しかし、不快ではない。心地良い疲労感がジゼルを充たしている。いつの間にか、そう、いつの間にか、ジゼルにとって男と殺し合う時間は何よりも貴重なものになっていた。
 殺しは殺し。
 それなのに何かがいつもと違う。
 何が違うのだろう、とジゼルはしばしば自問する。
 答えはまだ出ていなかった。
 ジゼルは、足元にある短刀を見詰める。奇妙な形をしていた。ずしりとした重さと厚みを感じさせる。鉈の一種で、ククリナイフという武器だとジゼルには覚えがあった。刀身は外側に湾曲しており、重みが先端にかかるように工夫されている。通常の鉈よりも斬撃に特化していると言える。
 つぶやくように男が語りかける。
「おまえには体重が不足している。不足分は刀身の重さで補うしかない。刃の鋭さではなく、重さで敵を打ち倒せ」
 男は相変わらず感情を感じさせない乾いた声でジゼルに話しかける。
 突き放すように。
 教え諭すように。
 どちらなのか、どちらでもあるのか、ジゼルには判断がつかない。
 実に簡単に言ってくれる、とジゼルは反感を覚える。できるなら誰でもやっているだろう。攻撃は、点と線に分けられると言ってもいい。ククリナイフには線のみの攻撃に限られる。線の攻撃は軌道が単純になりやすく、相手に予測されやすくなってしまう。威力が増しても防がれては意味がない。
 そう反論するジゼルに対して男は、
「ならば、相手の予測を上回る速さで打ち込んでみろ」
 と、こともなげに言い放つのだった。
 いつもこうだ。
 できなければおまえはそれまで、と男は言外にそう告げている。
 やってやる、とジゼルはククリナイフを拾うとする。
 その瞬間、強烈な衝撃がジゼルを襲う。
 疲れ果てていたジゼルは無様に地面を転がる。一瞬の意識の空白の後に、ジゼルは男に腹を蹴られたと理解する。
 ククリナイフはちょうど男の間合いの境界ギリギリに位置していた。
 拾う際の隙を見逃すような男ではわかっていたはずなのに避けることができなかった。
 疲れていたから?
 甘えていたから?
 どちらにせよ男が許すはずはなかった。
 強烈な吐き気が込み上げてくる。
 嘔吐感に耐え切れず、ジゼルは胃の内容物を地面にぶちまける。
「……お、ぐ……がっ……ごふ、ごほっ」
 その様子を男はつまらなそうに眺めている。
 男はいつも、ジゼルを見ているようで見ていない。
 少なくともジゼルにはそう感じられた。今ではないいつか。ここではないどこか。ジゼルではない誰か。男にはジゼルには見えない世界が見えているようだった。その世界を見てみたいと彼女は思う。男を倒した時、自分にも見えるようになっているのだろうか。もはやジゼルにとって、男を殺すことは目的ではなく手段になっていた。
 男を倒したい。
 男を超えたい。
 その男の声が降りかかる。
「どうした? そのまま犬のように這いつくばったままか?」
 何故か、その声がジゼルに力を与える。
 震える膝で立ち上がる。
 彼女の手にはククリナイフが握られている。不意に蹴りを入れられながらジゼルは得物から手を放さなかった。ジゼルはその整った顔を、激情と激痛に歪ませ、吐しゃ物に汚れる任せて、射抜くような視線を男に向ける。とても正視できるような顔ではないだろう。通常の人間であれば。しかし、男は非常にして非情な人間だった。
 男はジゼルの顔について、
「今までで一番いい表情だ」
 そう評して、次の瞬間に容赦なく襲いかかってきた。
 男の打ち込みは今までと比較にならないほど速く鋭い。
 ジゼルは正面から迎え撃つ。
 疲れ果てて心は虚ろ。
 何も考えられない。
 それでも体は染み付いた技を忘れていない。
 むしろ虚ろな心だったからこそ、ジゼルは自身があるべき自然な動きを見せる。
 攻防は刹那のうちに。
 ククリナイフを握ったままだらりと下げたジゼルの腕が跳ね上がり、男の得物を払い除ける。そのまま男の頭上へと振り下ろす。男は半身をずらしてかろうじてジゼルの攻撃を避ける。いや、わずかだが傷を与えていた。
 何度となく夜を越えて、初めてジゼルの刃は男に届いた。



 男は決して優しい人間ではなかった。むしろ男ほど優しさから遠い存在はないのではないか、とジゼルは肌で感じていた。しかし、ジゼルがどんなに醜い側面を見せたとしても、男の態度は変わらない。許容するわけでもなく、寛容であるわけでもなく、男は冷たい無関心さでジゼルをあるがままに受け入れる。ダークエルフという種としてのジゼルではなく、あくまで個としてのジゼルを。
 だからこそ、彼女は男の前でだけは本当の自分でいられたような気がする。
 男から与えられたククリナイフが手に馴染むまでジゼルは一人振るい続けた。
 刃の先には男の姿が見える。
 ククリナイフを振るう。
 速く。
 速く。
 さらに速く。
 男を超えて、さらに前に進むために。



「街を離れる」と男は唐突に告げる。
 また一夜が明けようとしていた時刻。
 ジゼルは心地よい疲労感に身を任せていた。
 それが裏切られたような思いがしてジゼルは跳ね起きる。
 自分でもこっけい。
 男の言葉に一喜一憂しているかのよう。
「どこへ行くの」
 そんな月並みな言葉しか出なかった。
 男は初めて自分の身の上を語り始める。



 男は時計と呼ばれている。
 職業はジゼルと同じく殺し屋だった。
 時計のように正確な仕事ぶりから名前が付いた。
 人体を作業するかのように解体する。
「おまえの心臓、時計でできてるんじゃないか」
 そんな冗談を同業者に言われたこともあった。
 時計という男も同じ感想を自分に抱いていたので腹も立たなかったそうだ。人を何人殺しても楽しいとも悲しいとも感じられなかった。自分はどこか壊れているらしい。そう時計は思う。
 そんな時計にも母親がいた。
 若く美しい女性だったと言う。この国では珍しく平民にして文字が読めた。幼い時計のために聖典を読んで聞かせるような女性だったらしい。
 それは昼の顔。
 夜は別の顔を見せる。
 体を売っていたのだ。
 そうして得た収入で時計を育てていた。
 ある夜のこと。
「お母さん」
 明け方に目が覚めた時計は母親の部屋に行く。
 妙な胸騒ぎがしていた。
 扉を開ける。
 部屋は朱に染まっていた。それが血だと気づくまで時間がかかったのを覚えている。部屋いっぱいに咲く鮮血は母親のものだった。母親は五体を切り刻まれていた。客の誰かの仕業だったに違いない。異常な人物が客として近づいてきたのだろう。どこかでそういう人間に目をつけられてしまったのかもしれない。
 ため息のような吐息が漏れる。
「……っ」
 母親は何とまだ息があったのだ。
 ふつうなら死んでいてもおかしくない傷であることは幼い時計にも分かった。
 何故まだ生きているのか。
 母親の体のどこかに宿る命がまだ壊れていないかのよう。
 朱に濡れた白い腕が時計に向けて伸びる。
 母親が時計のほおを撫でた。
「神よ、どうかこの子に天の恵みを」
 そうして母親は息絶えた。
 その時から一つの命題が時計を捕らえて離さない。
 命はどこに宿るのか。母親が死にひんしてなお動いたように人間の体にはどこかに命が隠されているのではないかと思えてならなかった。それを確かめたい。
 心臓か。違う。母親は心臓も刺されていた。
 肺か。違う。母親は肺を刺されて溺死寸前だった。
 どこだ。
 どこにある。
 時計がやがて殺し屋になったのは必然か。
 こうして時計という殺し屋は生まれた。
 命の在り処はまだ確かめることできていない。



 錬金術という禁忌の技がある。時には黄金を、時には不老不死の霊薬を、時には人工生命を作り出す。人工生命を作り出すには人工子宮と呼ばれる装置が要る。
 だが、もっと簡単な方法もあった。
 本物の子宮を使うのだ。
 司教でありながら錬金術に手を染める男がいた。
 彼は異端審問の名を借りて人間狩りを行い、女を集め、人工生命を兵士として売る。
「俺はこの司教が許せない」
 だから殺す、と時計は付け加える。
「初めてだ。自分の意思で人を殺そうと思ったのは」
「そう」とジゼル。
「おまえともこれで最後だな」
「私にも手伝わせて欲しい」
 とジゼルは願い出る。
 ジゼルは初めて自分の意思で人を殺めようと決めた時計の姿が悲しい。これは時計の遠回りな復讐なのだとジゼルは感じた。幼い頃に奪われた母親への鎮魂はこんな形でしか企図できなかったのだろう。
 ジゼルの依頼人は命を狙われた司教と思われる。
 時計を殺すという仕事を引き延ばす決意をジゼルはした。
「貴方はまだ殺さない。貴方の行く先をもう少し見ていたいから」
 ジゼルは森を出て初めて流儀を曲げた。
 今まで気づかなかった。流儀を曲げるほど男が自分の中で大きな存在になっていたとは。こんな男のどこがいいのだろう。そう自問しないでもない。それでも時計の冷たさが心地良かった。その冷たさがジゼルの激情を冷ましてくれる。
 優しさなど求めない。
 この冷たさこそ自分は求めていたのだ。



 二人は教会が管理する工場へ向かう。
 ダークエルフであるジゼルは、全身をすっぽりおおう外套(がいとう)をまとい、頭巾を目深にかぶって顔を隠す。正体が判明すれば即座に命を失いかねない。昼の行動はジゼルにとって危険なもの。それでも時計についていきたい気持ちの方が勝る。
 工場がある街で宿をとった。
 宿の主人である中年男性が尋ねる。
「ご夫婦ですか?」
「ああ」と時計があっさりうなづく。
 宿の主人は疑っていないらしい。
 夫婦。
 そう言われてジゼルは奇妙な気持ちになる。
 悪い気分ではなかった。



 その夜は月が明るかった。
 門衛が二人の姿を見とがめる。
「何者か」
 との誰何の声がかかった。
 ジゼルは袖を振る。
 短剣が門衛ののどを切り裂く。
 もう一人の門衛を見れば時計がやはり短剣で倒したところだった。
 巨大な門だった。攻城兵器でもなければ破壊できないだろう。こちらの武装は二人とも短剣のみ。時計は足場の代わりに短剣を絶壁に刺して登り始める。
 ジゼルも時計に続く。



 内部は広い。工場と言うより城塞と言った方がふさわしい建築物だ。水蒸気が漏れる排管があちこちに伸びている。それが、ここが工場であることを教えてくれていた。
 中庭に着いたところで侵入に気づかれた。
 兵たちは槍を手にジゼルと時計を取り囲む。
 もう変装の必要はない。それどころか丈の長い外套は邪魔と言える。
 ジゼルは外套を脱ぎ去った。
 月明かりの下、長く尖った耳と非人間的な青白い肌があらわになる。
「ダークエルフ……!」
 兵たちの中から声が上がる。
 畏怖の声。
 指揮官らしき男が兵たちを叱咤する。
「恐れるな。討ち取れ」
 一斉に槍がくり出される。
 ジゼルと時計を刺し貫かんとして。
「跳べ」と時計が命じる。
 考えるより速くジゼルの体が動く。
 大きく跳んだ。
 兵たちの列に飛び込む。
 乱戦になる。
 近間では槍より短剣の方が有利だ。その利を活かしてジゼルは戦った。多勢を相手にするのは慣れている。いつも一人だった。いや今は違う。今は頼もしい相方がいる。
 指揮官らしき男が、
「逃げるな! 戦え!」とわめく。
 その男ののどにジゼルの投じた短剣が刺さる。
 兵たちは崩れた。
 あちこちに逃げ散ってゆく。
 ジゼルは一息つく。
 時計を見れば返り血すら浴びていなかった。乱戦の中でありながら舞でも舞うかのような動きだったのをジゼルは覚えている。息すら上がっていない。やはり、おどろくべき技量だ。自分が敵わないのも無理はないと改めて思った。
 その時計が警告する。
「何か来るぞ」
 逃げ散った兵たちが使わなかった扉が開く。
 扉から出てきたものたちは、おおざっぱに言って人型をしていた。身長は人間の子供ほど。肌の質感は荒く、いぼだらけだ。口の中には鋭い針のような歯が並んでいる。人工生命ホムンクルスだろう。いずれも服を着ていない。
 ジゼルたちに向かって高く跳び上がる。
 人工生命ホムンクルスの群れがジゼルたちに襲いかかった。
 ジゼルは、攻撃を避けつつ、ククリナイフでホムンクルスの足をなぐ。切断する。そのホムンクルスは切られた足を断面に合わせる。すると、すぐに末端が動き出した。おどろくべき生命力だ。
「首だ」と時計が指示する。「首を落とせ。そうすれば死ぬ」
 彼らホムンクルスは人間ではなく兵器として生まれた。
 祝福されざる者。
 自分と同じだとジゼルは感じた。
 向かい合う。
 せめて一撃で。
 ホムンクルスがつかみかかってくる。それをかわしたジゼルは背後に回り込んでククリナイフで首を落とす。時計の言葉通り、それで動かなくなる。ジゼルと時計は他のホムンクルスの首も次々と落としていった。
 勝った。
 けれどもジゼルには達成感はない。
 不毛な気分になる。
 こんなものを生み出した司教が許せなかった。



 途中、先を進む時計が足を止めた。
「どうしたの」とジゼルは尋ねる。
 時計は答えない。
 道を変えて狭い脇道に入る。
 そこでジゼルもようやく異音に気づく。
 何かの機械が動いている。
 二人は扉を見つけた。
 中に入る。
 血の匂いがした。大きな装置がいくつも並ぶ。その装置には裸の女性たちが接続している。異端審問の名を借りて連れ去られた女性たちだろう。
 これが人工子宮の代わりか。
 ジゼルが装置を調べている時計に問いかける。
「助けられないの?」
「駄目だな」と時計が装置から離れる。「装置から外すと死ぬだろう」
 もはや装置なくして生きられない状態と時計は判断する。
 装置の一部として出産し続けるだけの存在。
 時計が短剣を抜く。
 ジゼルはあえて止めなかった。止めようと思えば止められた。しかし止めてどうする。一思いに殺してやるのがせめてもの情けだろう。



 司教は意外にも小さな個室にいた。
 隠れようとしていたわけではないらしい。
 書斎のように見える。
「歓迎しよう」と司教は両腕を開く。
 と同時に、この場に何かが降り立った。
 禍々しい何か。
 色もなく、形もなく、においもないというのに存在感を肌で感じる。これは善くないものだ。同じく善くないものであるダークエルフのジゼルですらそう思った。
 時計がつぶやく。
「神を降ろしたか」
「正確には神の力の一部だよ」と司教は訂正する。
「こいつ、司教のくせに暗黒教なの?」
 とジゼルはうめく。
 この司教は教会に属しながら異端である暗黒教に帰依していた。
 世界には三柱の神がおわす。創造、調和、破壊をそれぞれ司る。創造神は世界を作り出して眠りにつき、調和神は世界を安定させ、破壊神は今の世界を破壊する。そして次の世界を作るために創造神が眠りから覚めるのだ。
 そのくり返しが世界のことわり。
 世界は何度も生まれ変わる。
 善も悪も定められた役割を演じているにすぎない。
 少なくとも暗黒教ではそう説く。
 暗黒教は破壊神を奉じ、次の世界での転生を約束される代わりに、今の世界を終わらせようとする。調和神を絶対視する教会とは相容れない存在だ。そのため教会は、暗黒教の信者たちが世界各地で暗躍するのを決して許さない。
 それが何と教会の内部に暗黒教の信者がいようとは。
 しかも司教。相当に高い地位だ。この司教は、地位を利用して私利私欲をむさぼり、世を乱す行いをなしていたのだろう。
 ジゼルはダークエルフだ。ダークエルフたちは神代(かみよ)の昔、破壊神に寝返り、暗黒教の一翼を担った。それでもジゼルは暗黒教の信者というわけではない。ジゼル自身、信仰心が薄いことを自覚している。いずれの神にも心惹かれない。己の運命は己が切り開く。それが彼女の信条だった。
 司教が笑う。
「どうかな、この力は。素晴らしいだろう。君もダークエルフなら私の味方にならないか。これまでの敵対行為は不問に付す」
「笑止」とジゼルは司教の提案を一蹴する。「貴方のやり方は私の流儀に合わない。狩人はね、女子供には手出ししないものなの」
「了解した」と司教は告げる。「では罰を与えよう。神の力で、神の罰を」
「来るぞ」と時計がジゼルに警告する。「気をつけろ」
 神の力が顕現する。
 闇が司教を取り巻きながら凝縮するかのように集まってゆく。その闇は歪ながら人の形をとった。闇に包まれて司教の姿は見えない。
 大きい。
 人の背をはるかに上回る。
 部屋の天井に頭がこすれるほど背が高い。
 巨人だ。
 ジゼルは巨人を斜めに見上げる。
 振り上げた巨人のこぶしが見舞う。ジゼルと時計は左右に別れて避ける。衝撃で床が揺れた。まるで地震のよう。ジゼルはかろうじて転ぶのを防ぐ。
 時計を見れば、彼も転倒していない。
 その時計が走った。
 巨人の腕を伝って駆け上がる。首の付け根を短剣で切りつけた。短剣を弾く。どうやら表面は硬いらしい。つかもうとする巨人の手を逃れて時計がジゼルのそばに降り立つ。
 司教の声が室内に響く。
 勝利を確信しての声だった。
「今、許しを請えば楽に殺してやろう」
「……」と時計は黙殺。
「誰がそんなことを」とジゼルは拒む。
 時計がジゼルにささやく。
「床を見ろ。先ほどのやつの一撃でひびが入っている。あと何度か同じ場所を叩けば床が崩れる。それが勝機だ」
「分かった」とジゼル。
 うなづくと同時にジゼルは駆け出した。転がって巨人の股をくぐる。そのこぶしが床を打つ。司教はジゼルの速度に追随できていない。これで二度目。
 さらに時計が挑発する。誘うように巨人の正面から歩み出す。巨人のこぶしが迫る。時計は紙一重で攻撃を見切った。床が揺れる。これで三度目。
 床が抜けた。
 ひどく打ち据えられた床が衝撃に耐えきれず崩落する。
 巨人ががれきとともに落下。
 折れた柱が巨人をつらぬく。
 闇が急速に晴れる。
 闇が晴れた後、巨人の姿はなく、柱に串刺しにされた司教だけが宙吊りになっていた。司教はすでに絶命している。



 戦いの後、ジゼルと時計は宿に戻っていた。
 宿の主人はすっかり二人を夫婦と思って疑っていない様子。
 何だかジゼルは可笑しい。
 ジゼルは時計に問いかける。
「これからどうするの?」
「分からない」
「気持ちは少しは楽になった? 前より穏やかな顔になった気がするけど」
 その言葉通り。
 時計の表情は穏やかになっていた。
 まるで憑き物が落ちたよう。
 それが時計自身には分かっていない。
「そうか。そうなのか」
「自分では分からない?」
「分からない」
「自分のことになると何も分からないのね」
「そうだな」
 時計の復讐は終わった。
 この先に何があるのか。
 新しい生き方を見つけなければならない。
 時計も、自分も。
 そうジゼルは感じていた。
 唇が自然と開く。
「私といっしょに生きましょう」
 それはジゼルにしては遠回しな言い様。
「俺は人殺し以外に何もない人間だ」
「知ってる」とジゼルは答える。
「それでもいいのか」
「そんな貴方がいい」
 本心からの言葉だった。
 時計がジゼルのありのままを受け入れたように、ジゼルも時計の全てをありのままに受け入れる。
 いくどとなく刃を交えた夜を越えて二人は新しい道を歩む。
「ジゼル」と時計は初めて名前を呼ぶ。「いっしょに生きよう」
「ええ」
 確信とも予感とも違う感覚がジゼルを捕らえていた。
 自分は母親になる。
 きっと、この人とならいっしょに歩んでいけるに違いない。



 殺し屋としての彼女の記録はこれで終わり。
 これからは母親として生きてゆく。
 父親が誰かは言うまでもないことだろう。
クジラ
2013年01月14日(月) 14時08分22秒 公開
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No.6  クジラ  評価:--点  ■2013-03-03 11:48  ID:52PnvSC7.hs
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>ウィルさん

感想ありがとうございます。工場の場面ですが、言われてみれば確かに強すぎるかもしれませんね。少しぐらい苦戦させても良かったと思います。いろいろと改善の余地があります。参考になりました。
No.5  ウィル  評価:30点  ■2013-02-27 11:05  ID:q.3hdNiiaHQ
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遅ればせながら、拝読させていただきました。
最後まできれいな文章だったなぁと、綺麗にしあがってるなぁと思って、すらすら読めました。
強いて言えば、工場で、たった二人でホムンクルスや兵を倒していく場面がありますが、いくら強いとは言え、傷ついた様子もなく全員倒せるなんて、少し能力がチートすぎるかなぁ? という印象はありました。少しは苦戦する場面も欲しい局面だったかな、とは思います。。
No.4  クジラ  評価:--点  ■2013-01-21 17:18  ID:52PnvSC7.hs
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細切れにしたのはテンポ良く読み進めてもらうためでした。しかし、そういった小手先の技を用いなくても読んでもらうだけの筆力が必要なのかもしれません。章と章の間にあるエピソードがごっそり抜け落ちているので、じっくり読みたい人には不向きですね。

主人公の外見であるとか、故郷の森を出たきっかけとか、家族構成とか、考えてあったのですが、まったく触れられていません。残念です。世界観ですが、光と闇の二元論で十分ではないかという意見には私も賛成です。つい設定をややこしくしてしまいました。

ジゼルのセリフに細やかな描写を付け加える点についてですが、私より朝陽遥(HAL)さんの方がジゼルの内面を理解されているような気がします。確かにその通りですね。

感想ありがとうございました。
次回作への励みになります。
No.3  朝陽遥(HAL)  評価:30点  ■2013-01-20 15:26  ID:aORIv4g0n1c
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 拝読しました。

 面白かったです。殺し愛、アツいですよね……おもわず中二魂が騒ぎました。いまでも熱いけれど、自分が中高生のときに読んでいたら、より一層ハマったんではないかという気がします。

 個人的には、
> 「自分のことになると何も分からないのね」
 のくだりがとても好きでした。

 全体的にもう少し書きこみが欲しかったというのは、わたしも前のお二方と同意見で、せっかくこれだけの壮大な設定があるので、世界観なり主人公の過去なり、設定的な部分や回想シーン、あるいは細かな情景や心情描写を、もうちょっとじっくり読んでみたかったような気はしています。
 ただ、このスピード感のある簡潔な文体が、ダークファンタジーな世界観と作風にマッチしていて、それが魅力になっているとも感じました。簡潔ながらも、必要な情報はしっかりと盛り込まれているとも思いましたし、加えてたしかにウェブ小説という媒体では、サクサクと進む展開の早いものが読まれやすい傾向がありますから、そのあたりはターゲット層のどのあたりを狙ってゆくかの問題とも思います。なので、あくまで一意見ということで、軽く聞き流していただければ。

 あとは……これも個人的な嗜好なのですが、主人公が自分を毛嫌いする人間たちに傷つき憎しみを抱いているようですから、
> 「助けられないの?」
 このセリフがしぜんに出てきたことに、たとえば彼女自身が自分でちょっと驚いたりだとか、そういう描写があってもオイシイかもしれないな……とかちらっと思いました。

 楽しませていただきました。見当はずれな意見がありましたら、どうかご容赦くださいますよう。
No.2  お  評価:30点  ■2013-01-15 20:59  ID:.kbB.DhU4/c
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どもども。
雰囲気のいい話で楽しませてもらいました。
その上で。
細切れ作戦は、僕も厨二イベントで締め切りぎりぎりになってしまったので使いましたが、時間のない時にサクサク先に進めるには最適な方法ですね。そして、ネットで読ませる文章としてはあるいは一つの理想的形態となりえるのかもしれない。特にスマホや携帯なんかだと、長い文章を目を皿のようにして読むような必要もなく、雰囲気と物語展開を楽しむことができる。そういう意味でちょっとかじり的な感じでいいかもしれない。
と思いつつ、やはりまぁ、物足りないことは物足りないわけで。
下書き的な印象も拭えないところもありますわなぁ。
ということで、下書きということでいえば、いい線いってると上から目線でいってみたり。(下書き時点で投稿してみること自体に僕は反対ではありません)
あと、ラストバトルがあっけなさすぎない? とか、彼女がデレていく課程がやはりもう少し描写なりを交えていかないと単純には腑に落ちないとか、読み物として充実させて行くには、これからの肉付け次第かなとも思えました。
この展開だけでブラフマーの設定された意味はよくわかんないですね。光と闇の二極でも差し障りないような……て細かいことでした。
楽しませてもらいました。ありがとうございました。

そうそう、ラスト、ハッピーエンドでしたねw 僕はてっきり……、死亡フラグ立ちまくってんじゃんとか思ってましたよw
No.1  帯刀穿  評価:30点  ■2013-01-15 18:23  ID:DJYECbbelKA
PASS 編集 削除
ほぼ綺麗に話の筋が出来上がっていた。
細切れなところ、描写の少ないところなどはあったが、土台がしっかりしているので、読み進めることに苦はなかった。
最初の、読み進めやすい、という基本中の基本ができていたこと。次に、読む意欲が低下しなかったこと。
最後の司祭の部分くらいだろうか。どこをどうするべきとはいえないが、なんとなくひっかかったのは。
自らが執筆者であったのなら、どう作品を描くのか。という疑問を残しつつも、まずはこれで完成されている、と看做せる作品だ。
総レス数 6  合計 120

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