めしい
めしい

 見られている。そう感じるようになったのはいつからだろう。

 暮れなずんでいた夏の空。訪れるはずの夜の闇は、ぼんやりと霞んだ暗くもなく明るくもない、惚けて白けた何かに取って代わられ、沈下し澱んでいた。
 肌という肌、感覚という感覚にまとわるのは、行き所なく粘る夕暮れの残骸。毛穴に絡んで糸を引く汗と湿気が混じり合って、僕は所在を無くす。実在を失ったまま本物の夜を待つ僕は、窓を開けっぴろげて膝を抱え空を見る。
 月が出ていた。
 月が見ていた。
 月に見られていた。
 月が僕を見下していた。凹凸の深い冷めた貌を歪に歪め、暑さに腐った叢雲で隠した口元に、嘲りの充ちた冷笑を浮かべて僕をぢっと見ていた。冥くもない空に霞んだシルエット。視線だけがずぶずぶとどす暗い。
 耐えきれず僕は目を逸らせた。見られるのは苦手だ。見られるのは好きじゃない。見られたくない。見るな。見るんじゃない。
 僕は窓を閉め切り床に就く。布団を目深に被りじっと暗がりを見つめる。閉じこめた空間に生じた偽りの闇。擬似的な夜。暑い。
 そう、
 その時だったのかも知れない。
 少しだけ締め切らなかった押し入れの襖。洋服箪笥の引き出しの下から二番目が一寸ばかり開いたままになっている。天井板の目の節が一つ抜けていることに気付いたのは、ほんの今しがた。大きな箪笥と小さな箪笥はきっちり並べたつもりで、長い黒いモノを這わせたように細い線を引く。どんよりとした重い風が窓に掛かるカーテンを揺らした。
 きっちりと閉めたはずの押し入れ。きっちり閉めたはずの引き出し。昨夜眠ったときに節の抜け目などなかった。無論、窓はさっききっちりと閉めている。
 何かいる。
 否。そうではない。何もいない。いるわけがないではないか。何かがいるようなことがあるはずがない。
 ただ、
 何かが見ている。
 冥いのは隙間だからだ。隙間は冥い。冥いからこそ隙間なのだ。冥いモノがそこにあるわけではない。そこにいるわけではない。たとえ冥くじめっとした、粘るような張り付くような突き刺すような撫でるような擬えるような視線を感じようとも、そこに何かがいようはずがないのだ。視線以外には。僕を見つめるその視線以外には。
 僕をぢっと見つめる……。
 気がつけば朝だった。
 掻いた汗に躯が干涸らび、布団に染みこんだ汗がじくじくと蒸れて、僕はその酸性のぬかるみに沈み込み溺れそうになる。ふと見れば、時計の針が巧い具合にLの字を描いていた。のそのそと着替えをする。寝間着を脱ぎ行李に放り込む。開襟シャツの裾をズボンに押し込む。一連の動作が億劫でたまらない。外出しようと靴を履く。下駄でも良かったが一張羅の背広にそれは合うまい。暑さに少しだけネクタイを緩める。はて僕はいつネクタイを着けたのか。僕は引き戸を開けて外に出た。
 陽は既に暮れ始めていた。
 その間にも、僕は常に見られ続けている。誰かが僕を見ている。ぢっと僕を、見ている。夕焼けに影指す、ぽつんとそこだけ青灰色の雲の隙間から。垣根を編む板っぱしの擦り切れた隙間から。屋根に葺かれた茅の、一本一本の先端の隙間から。道端に苔生す岩の黒い苔と緑の苔の狭間から。
 見られている。
 見ている。
 何かが。
 誰かが。
 眼。
 否、否。
 見られているのは、視線を感じるから。
 そこに、眼を見るわけじゃない。
 にもかかわらず、いつの間にか、そこに、眼がある。
 眼。
 人の、眼。人以外の、眼。
 藍色とも紺色とも群青色ともつかない薄墨に、一億人の溜息を混ぜ込んだような空が、百億人分の未練と情念を溶かし込んだような、赤とも紅とも朱ともつかない空を浸食する。
 暗がりに電灯が灯る。
 人気のない路地に前を行く人。背を向けて歩いているその人は、僕を見ない。見ていない。なぜなら、その人は僕に背を向けているから。だから見られるはずがないし、見てもいないし、そもそも見知らぬその人は、僕のことを見ようとも思わなかったことだろう。にもかかわらず、その人は僕を見ていた。僕はその視線を感じていた。黒々とした髪に隠して、その厭らしい視線を僕に向ける。
 眼。
 髪の毛一本一本の先端に。否。そうではない。先端だけではない。髪の毛を造る粒子の一つ一つが眼で出来ているのだ。
 何を言う。そんなことがあるものか。そんなことがあるのなら、世の中の全ては……
 そうだ。そうなのだ。眼、眼、眼、眼、眼、眼、。何もかもが眼で出来ている。人も、物も、空気も、何もかもが。世の中を構築す全ての物は眼で出来ている。その無数といよりは無限、無限と言うよりは永遠とも言うべき全ての、
 眼が、
 僕を、
 見ている。
 見るな。
 見るな見るな
 見るな見るな見るな。
 見るな見るな見るな見るな見るな。
 見るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
 両手を染めるのは、じっとりと濡れて粘る体液。どくどくと流れるねっとりとした生暖かいものは、両掌の皺から覗く、何か感情に血走った眼から湧いてしたたる。両手を伝い、肘から溢れ、腹を股間を濡らし足にしたたる。
 僕はおぼつかない足取りで自宅に帰った。
 手を洗いたくて洗面所に向かう。
 そこにいる、どこか見覚えのある人物に僕は笑みを向ける。
 君だったのか、僕をみていたのは。
 僕は錆びた剃刀をそいつにあてがい、そっとその滑らかな曲線に沿わせた。

   幕
2012年09月10日(月) 02時29分10秒 公開
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■作者からのメッセージ
ちょっと他のをサルベージする際にたまたま見付けたもの。こんなの書いてたんだなぁと思って。ファイルの更新日は2008年になっていた。

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No.8  お  評価:--点  ■2013-01-15 13:16  ID:.kbB.DhU4/c
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>帯刀さん
まあ、確かに思いつきのイメージだけで書いたものですからねぇ。
一日一作とかやったときのものだっように思います。
こいつがナニか犯罪を犯して探偵が解くというのはありがちなかんじもしますね。
No.7  お  評価:--点  ■2013-01-15 13:11  ID:.kbB.DhU4/c
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>楠山さん
どもども。
ながらくコメントに気づかず申し訳ありませんでした。
それなりにお気に入りいただいたようで、なによりでございます。
「見るな」の辺りは以前も否定的な意見をもらった記憶があります。
No.6  帯刀穿  評価:20点  ■2013-01-07 18:08  ID:DJYECbbelKA
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イメージを押し広げて書いた感覚で、なるほど書きおろしらしい。
もう少しストーリーと絡めていけば面白そうだ。
幾つかストーリーと噛み合せて、新しい作品を作るネタにできるだろう。
No.5  楠山歳幸  評価:50点  ■2012-11-10 19:40  ID:3.rK8dssdKA
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 今更ながら読ませていただきました。
 すごいです。日常を徹底的に分解というか破壊したような感覚です。とても重い4kでした。庫出しということですが、僕の知っているおさんの作品の中では硬質なイメージです。
 >全ての物は眼で出来ている
 この発想?設定?がとても良かったです。こんな感じで回りを見ると確かにゾっとします。
 気になったのは”ああああ”でした。ちょっと拍子抜けした感じですごめんなさい。
 失礼しました。
No.4  お  評価:--点  ■2012-09-20 19:19  ID:.kbB.DhU4/c
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>ウィルさん

どうもどうも。
怖いすか。うふふ。怖いですね。

日常、さまざまなことを無視していますが、そのうちのどれかが火を吹くと、いったいどうなるんでしょうねぇ……コワ!
No.3  ウィル  評価:30点  ■2012-09-14 22:29  ID:q.3hdNiiaHQ
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こんばんは……
一言でいうと、狂気ですね。
怖かったです。
誰かに見られている、視線を感じるというのは誰もがあるもので、それを無視して生きているわけですが、考えすぎると……

本当に怖い。
No.2  お  評価:--点  ■2012-09-12 18:23  ID:.kbB.DhU4/c
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>桐原さん

\(^_^。ドモドモ
えーっと、これはだいぶん前に書いたものです。すっかり忘れてたんですが、こないだ別のもの捜す時に偶々見付けて、へぇオレこんなの書いてたっけ? と思ってUPってみました。
たぶん、京極さんとかの影響とかあったころじゃないかなぁという気がします。
観られている感覚は、まぁ、たまにありますよね。街歩いてる時とか。それは自意識過剰だろうと分かっちゃいるんですが、気になる時には気になるものですね。

そうそう、イクのなぜ鬼になったかですが。
いくつか、説があります。
1.元々は神だった。(過去、そんな話しを書いた記憶があったり)
2.安倍晴明に育てられた式神だった。(過去、そんな話しを書いた記憶があったり)
3.生まれながらの異形のものである。
4.異界から来た姫君の半身である。(今思いついた)
こんなところですかねぇ。
どれが正解とか分かんねッす。基本、コヤツに関しては何でもありな感じで書いてるので、ころころ設定が変わります。その度に読んで頂く方を混乱させるのですが、まぁ、ボクは気にしないす。

そんなことで。
No.1  桐原草  評価:40点  ■2012-09-11 16:07  ID:1zZ2b3u5YfY
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こんにちは。

うひゃあ、こわいですねえ。そして描写がすてきです。
誰かに見られているような気になることは時々あるんですが、これほどすさまじいのは……。
でもあの気分をこんな表現で表したのが凄いと思います
総レス数 8  合計 140

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