小梅乃振袖
「小梅乃振袖」

壱、小梅乃振袖 上

 時は承応三年《西暦1654年》。四代将軍徳川家綱の治世でのこと。
 小梅は然る質屋の箱入り娘であった。
 年は十五、うら若く美しきは江戸の巷に知れ渡れど、佳人薄命と憐れみ先立つ噂ばかり。
 火無くば煙立たず。
 その冬の終わり、小梅は風邪をこじらせ表に出ることもなく屋敷にこもっていた。万年そのような調子であるから、外出を許されることは少なく、遠出など滅多にできなかった。
 麻布の質屋は商いこそ上手くゆけども、子どもといえば病弱な小梅だけ。当然、一人娘として両親には溺愛される一方、過保護が過ぎて箱入り娘となってしまった。
 そして小梅には子々孫々の安泰のためにも小梅は立派な婿を貰って孫を残すことを期待されていた。見合い、縁談を両親はせっせと見繕うが、されど財も美貌も生来よりの体の弱さと天秤に掛けるとすんなり契ることになりはしなかった。
 そうした重圧と窮屈な暮らしにあって、小梅は余計に気を病み、病は気からと言うように体調を崩すこと幾度になるか。せめてもせめてもと両親は何か贅沢をさせてやることにした。それならば、物見遊山に外へ赴く折、たまにしか出られぬのだから綺麗な振袖を着て練り歩きたいと小梅は願った。
「父上、もしも叶うならば、小梅はとりわけ綺麗な振袖を着たいと願います。町巡り、物見遊山に外へ赴く機会は町娘の三度につき一度あるかないか。その分、せめて振袖だけは余所様よりも美しく在りたいのです。それに、こんなわたくしではありますが、美しきに勉めていれば、そのうち噂を頼りに良縁に恵まれるやもしれませぬ。どうか――」
 お安い御用と質屋の主人は呉服屋へ、切々と小梅のいじらしさを語る。
「旦那の意気込みや分かりました。そういうことならば手前どもに用意できる一番の、いえ、江戸一番の振袖をあつらえて差し上げましょう」
 そう呉服屋は大見得を切ったものの、並大抵の振袖では納得してくれまい。質屋の親馬鹿も人の情。小梅のこととて七五三の晴れ着の頃より、呉服屋は縁があって十年来そこらの付き合いになる。ここはひとつ、立派なものを作ろうと考えを巡らせた。
 けれどもただ贅沢にするだけでは、世に二つとない振袖になりはしない。呉服屋は三日三晩仕事につけ寝食につけ、悩みに悩んで白髪がどれほど増えたことだろうか。
 とうとう一週間が過ぎ、見当がついたのは腕利きの職人くらい。肝心要は閃かない。
 そうして悩み込んでいると、然る噂話を聞きつけた。
『江戸町に動く文庫あり。其は化け猫の文倉《ふみくら》なり。手紙をしたため、小魚一匹野良猫に駄賃として与えて文を猫箱へ≠ニ宛名に書くこと。さすればある夜、八百の書を携えて彼奴は来たれり。見目麗しき文倉の猫姫は、其の者の望む知恵知るされたる書を貸し与えん。されど必ず返すこと。何事も無く返せばよし、盗めば呪い殺されようぞ』
 眉唾ものの話しながらも、困った呉服屋は頼りにしてみることにした。
 というのは、猫は絹の守り神とされていたからだ。絹糸を生む蚕という虫の天敵は鼠である。蚕を食われぬように農村では猫か、あるいは猫神の像を飾る風習が少しずつ散見されるようになっていた。絹織は呉服屋に欠かせない。そもそも呉服屋というのは中国が三国時代であった頃、呉国より伝来した絹や綿の衣服を扱う商いであるからだ。その縁もあり、呉服屋は自らも猫を飼っていたので、ひとつ冗談とばかりに「日頃の恩を返すと思って」と鰯を一匹与えて文を託したのだ。
 三日後の夜更け、呉服屋は飼い猫「まゆ」のじゃれつきに起こされて提灯片手に外へ出る。
 約束通り、外には動く文倉が鎮座していた。
 その外見といえば、長屋三軒分はあろう長く大きな猫である。四本の手足や頭はあるが、その胴といえば文倉や倉庫のように四角い。少々不恰好ながら気圧されるものがあった。
 文倉より降り立つは、誠に美しき文倉の猫姫であった。紫苑染めの奇異なる髪に隠れた猫の耳、凛と涼しい面立ちもさることながら、瞳は妖しい光を灯して真夜中の闇でも冴えていた。
 しかしながら呉服屋にとってはもったいないことに、彼女はあまり着飾らず、それどころか白絹の長襦袢に男物の黒い中羽織を着ていた。ともすれば非常識だというのに、不思議と似合ってみえるのは呉服屋にとっては少々悔しくもあるが美人は何を着せてもそこそこ様になる。その着こなしは奔放で気風よく、貞淑で清廉な小梅とは対照的であった。
「私は書守車やゆよと申します。この動く文倉の主です。そこな猫の届けてくれた手紙で事情は察しがつきました。貴方には二年、私の所蔵する霊書博本を三つお貸し致しましょう。お代のほどは貴方の飼い猫が代わりに払ってくれましたので、ちゃんと返して頂ければ、と」
 丁寧にそう述べると、やゆよは三冊の書を手渡した。書は薄く簡素で、けして重くはないのだが、呉服屋は重圧感を覚えてしまった。
 親切なことに、やゆよは三冊を読み解くための覚え書きまで添えていてくれた。
「それでは、またいずれ」
 文倉の猫姫は去ってゆく。なあごと鳴いて、動く文倉はのっそりと歩いて角を曲がった。
 不思議なことに、あれだけ大きな文倉を見たというものは居なかった。なんとも不可思議な話しであるが、呉服屋はあまり怖いとは思わなかった。
 なぜかと言えば、呉服屋はしっかりと自分でお代を払っているからである。猫が代わりに払ってくれた、と文倉の猫姫は言っていた。調べてみると、ちょうど着物ひとつ分、白絹の反物が失せていた。呉服屋の猫がこっそり持ち出した反物をお代として渡していたと考えれば、辻褄が合わなくもない。あの白絹の襦袢は、呉服屋の反物で出来ていたのだ。
 で、商いというものをやっていると、やはり信用というものは大事になる。そういう商売ならば、妖怪や化け猫がやっているにしても変な噂が立っては商売にならない。タダといわれると不気味だが、しっかりと代金を渡してある以上、呉服屋は借金を早々に返した思いだった。
 呉服屋は飼い猫に感謝すると、三冊の貸し本を読み解くことにした。

                          壱「小梅乃振袖 上」了 続弐
弐、小梅乃振袖 中

 呉服屋は遂に世に二つと無き振袖を完成させた。
 それはじつに一年以上もの歳月が巡り、梅の花咲ける頃になってのことだった。
 明暦元年《西暦1655年》の二月のことである。
 病弱なる質屋の娘、小梅のために織りあげられた振袖は天下無二の逸品に仕上がった。
 動く文倉の主、書守車やゆよに借りた三冊の本を元に、それは呉服屋ならびに質屋の旦那の尽力の賜物であった。
 壱の書に記されたるは「火鼠の衣」。
 竹取物語にて示唆される五つの難題のひとつであり、この衣は炎にくべても燃えることはない。それどころか、汚れやほつれも炎に投げ入れれば直ってしまうのだという。そのおとぎ話のような素材について詳細に語られていた。
 弐の書に記されたるは「帝王紫の縮緬」。
 縮緬とは、から二十七に及ぶ絹糸を撚り、ねじって一本の糸に編み上げ、それを左右に一本ずつ織りあげた上等な絹織生地のこと。それを貴重な色素である紫に染めるためのものだ。しかし、この紫は当世流行の江戸紫ではなく、最上である帝王紫について記されていた。
 参の書に記されたるは「鶴の機織」
 鶴の恩返し、といえば呉服屋も聞いたことはある。しかしそのじつ、又聞きに次ぐ又聞き、その実体など知る由もない。恩返しのために人に化けた鶴が織った生地は、技術も材質もこの世のものと思えぬ出来。驚嘆すべきことに、その書には鶴の機織の全てが記録されていた。
 この三つを合わせれば、この世に二つと無き最上の振袖を作ることができる。
 なにせ、火鼠の皮を用い、帝王紫に染め、鶴に縮緬を機織らせるのだ。
 呉服屋と質屋の旦那は手分けして、書を頼りにそれらを探し求めることにした。

 火鼠の皮衣、火浣布は後の世において石綿という鉱石であったとされる。東方見聞録にて「サラマンダーの皮」と紹介されたこの鉱石アスベストは、この後およそ百余年後の明和元年《西暦1764年》、平賀源内によって秩父山中にて日本国内でも初めて発見された。つまり、この時代の日本で産出されるわけもない夢幻の鉱石であった。かつて竹取物語にて出された五つの難題のひとつだけあって、それは江戸のどこを探してもあるはずはなかった。
 ところが壱の書、名を「火鼠燃談」という怪書に記されているのは石綿ではなかった。
 それはまぎれもない正真正銘の本物。
 火鼠《かそ》という妖怪を狩り、その皮で仕立てよというものであった。
 それは本来、唐土の南の果ての火山の中に生る不尽木《ふじんぼく》に住まうという。しかし、この時代はとうに鎖国下である。長崎の出島を除いては外国人の出入りも滅多になく、南蛮や清国との取引で出回る珍品にも火鼠の名が出たという話もなかった。
 しかしながら火鼠燃談に拠れば九州南方の桜島に火鼠は住まうと記されていた。その記述は詳細で、筆者は猫の王に仕える学者とされていた。真偽は怪しいはずなのに、事細かなその資料は呉服屋を唸らせ、信じてみたいと思わせるに足るものであった。
 しかし、九州南方へ赴くのは容易ではない。この当時、すでに海運は発達していたものの、江戸から大阪へ。大阪から瀬戸内海を行き、島津藩領鹿児島へ。往復となれば半年は店を開けることになりかねない。金に暇をつけないといっても、本業を疎かにして探しに行くというのは呉服屋にもしかねる難題だ。せめて代わりの者を往かせねばならない。
 と、そんな話を聞いていた呉服屋の飼い猫まゆは一計を案じた。この猫、未だ化けてはいないが齢七年、そろそろ猫又に昇格しようかという頃であった。根子岳に住まう猫の王に逢いにゆかねば、位を授かることができない。根子岳というのは全国に何箇所かあるのだが、ちょうど九州の熊猫山にもあることを思い出したのだ。
 まゆは一筆、こっそりと書守車を頼って代筆を頼んだ。
『九州へ火鼠の衣を探して参ります、半年して帰ってこねば死んだものと思ってください』
 そうして書き置き一枚を残して、まずは大阪と忠猫まゆは帆船へ忍び込んだ。
 しかしどうしても先立つものが必要と思い、まゆは小判三両を勝手に持ち出してしまった。
 
 帝王紫の縮緬は、縮緬こそ現存する製糸法である。これは呉服屋にとって無理難題でない。
 けれども帝王紫は無理難題。この帝王紫、古代は西欧においても東洋においても本当に帝王と呼べる位にだけ許されるものだった。名実ともにローマ皇帝が愛用したほどだ。現代から遡って三千年ほど前、港湾都市として栄えたフェニキアがその製法を発見した。
 それは特定の貝の汁を染料として糸に擦り込み、日光に晒すことで綺麗な赤紫になるというものであった。草木染料である江戸紫は青紫、色の差も然ることながら貴重さと色彩美は格別。とりわけ、その希少性はわずか染料1gにつき2000枚の貝を必要とする非効率性に拠った。布地ひとつ仕上げるのには試算するに五万枚が必要になるのだ。
 弐の書「帝王紫殉」はこの帝王紫についての書であった。
 それに拠れば、伊勢国志摩の海女の文化として、手ぬぐいに名を記したり、魔除けに使われているのだという。伊勢国は現代における近畿地方の南にある三重県のこと。お伊勢参りというように、遠くはあるが江戸庶民にとって馴染みはある地方だった。
 呉服屋と質屋は伊勢に所縁の商いを尋ねるなど苦節を重ね、どうにか大枚をはたくことにはなるものの、帝王紫の買いつけに成功する。そしてこれは呉服屋にとっても思わぬ収穫である。これほど珍重される染料、量産などできるべくもないが、道楽に金を惜しまぬ人間はいつの世にも少なからず居る。大きな投資になるが、呉服屋は自腹を切ってもう一着分を買い足した。
 火鼠の衣を待つ傍ら、呉服屋は本業にもせっせと勤しむ。
 その甲斐あって、大奥より注文を賜り、呉服屋はこの帝王紫にて一財と縁故を得るのだった。

 さて、残るは鶴の機織――。
                      弐「小梅乃振袖 中」了 続参
参、小梅乃振袖 下

 参の書「鶴翼覚書」によって、鶴の機織は鶴も《かくも》あっけなく見つかった。
 というのは、呉服屋のお抱え機織職人のひとりとして、その鶴の機織が働いていたのである。その女は名を九恋《くれん》と名乗り、どこの出とも知れず機織の腕を見込まれて重用されていた。九恋の織物は綺麗な仕上がりで、呉服屋の商売繁盛に一役を買っていた。呉服屋もまた、そんな九恋のことは目に掛け、風邪の時は自ら見舞いに参じたりとしていた。
 九恋が鶴だと分かったのは、そんな呉服屋への恩義もあって自ら名乗り出たからである。また九恋曰く、床に伏せてこもりがちな小梅のことを不憫に思っていたそうだ。小梅は遊び友達にも恵まれなかったので、九恋は仕事の無い時はよく話し相手を務めていた。いわゆる姉貴分というわけである。
 鶴は千年、生きるといわれる。九恋は鶴ではない。人と鶴の間に生まれた半妖、五百年は生きると自ら語る。それに比べて、小梅はどう長く生きようと三十を迎えることはない。帯に短し、たすきに長し。九恋は長命すぎ、小梅は短命すぎる。少しでも分けてやりたいと思っても、そんなことができるわけでもなし。
 それならば、と九恋は既知の仲であったやゆよに頼み、色々と取り計らって貰った。呉服屋に書守車の噂を教えたのは九恋であり、じつは一芝居を打っていたのである。呉服屋と質屋が本当に熱心に動いてくれたので、信頼に足ると機を見計らって九恋は名乗り出たのだ。
 鶴《かく》て、九恋の助けによって、鶴の機織も揃うことになった。

 大晦日、呉服屋の飼い猫まゆが旅立って六ヶ月をゆうに過ぎていた。
 呉服屋はまゆの墓を立てることはなく、その帰りを待っていた。除夜の鐘も鳴ろうかという真夜中、まゆは遂に主人の元へ帰ってきた。
 差出たるは火鼠の皮。見事、まゆは役目を果たしたのである。
 猫又に化けたまゆは言葉を話せたので、その苦難の旅の一部始終を呉服屋へ語って聞かせた。
 曰く、長きに渡る船の旅、陸の旅の末に熊猫山の一角にある根子岳に辿り着き、そこで猫の王と対面した。事の経緯を話すと、猫の王は感銘を受け、まゆに正六位の大変誉れな位を授けたという。そして火鼠狩りのために十名の部下までつけてくれた。
 しかしそれだけでは猫又に昇格することはできない。虎のように大きな猫の王は修行として、直々にまゆに稽古をつけた。時には組み手もした。二本足で立てるようになってからは剣術や妖術まで仕込まれて、まゆは正六位に相応しい強く賢き猫又と認められた。ただ、この修行のために二ヶ月を使ってしまい、もう旅立ちより五ヶ月も経っていた。
 まゆは火鼠について研究する学者の教えに従い、遥々山を下って桜島へ遠征する。薩摩半島の内側に浮かぶ桜島は時おり灰を降らす生きた活火山。運悪く小さな噴火を起こして島津城下は灰が降りしきっていた。学者の言葉に従い、桜島が落ち着くのを待つこと長く。船を漕ぎ、まゆは部下と共に桜島に上陸した。桜島には集落があり、人間の住処はあるのだが、こんなところに好んで済む猫は少なく、なんともまゆは心細かった。
 険しすぎる山道ではないが、標高千を越える山だ。十分な備えで夜更けに昇りはじめ、中腹で一睡すると夜明け前に再び出発した。やがて火鼠探索隊は火口まで二里《800m》と迫った。
 幸いにして噴火の予兆はなし。無事に火口へ辿り着き、火口を覗き込んだ。けして燃え尽きぬ不尽木は確かにあり、白い噴煙の立ち昇るそばで雄大に燃え続けていた。
 火鼠《かそ》は不尽木の枝に止まっていた。火鼠は大きく、虎ほど大きな猫の王に匹敵する巨躯である。炎の中では赤く禍々しい色を湛えて、いかにも凶暴この上ない。学者の話しに拠れば、炎の外では白くなる。そこで水を掛ければ死んでしまうのだという。この策のため、十匹係りでまゆは水を一杯に詰め、ずっしりと重たい大瓶五つを運び込んできた。大量の水を、遥々登山で運んでくることができたのは単に部下のおかげである。
 しかし、火鼠を木より追い出さなくては焼け石に水だ。まゆは自ら、火鼠退治の先陣を切り、囮役を務めた。誘い出した火鼠を、頭上よりいっぺんに水攻めにする策であった。
 まゆは慎重に火口の中へ降りてゆく。なぜ自分は毛皮なんて生やしているのか、と疑問に思うほど火口は熱く、まゆを苦しめた。しかしどうしても熱く、灼熱を葉のように広げる不尽木には近づくこともままならない。
 まゆは猫の王に教わった妖術を使い、火車《かしゃ》猫に化けた。自ら燃える火車になってしまえば、桜島火口の灼熱地獄にも適応できた。火車は地獄の使者だからだ。とはいえ、さすがに火口に落ちれば所詮はまがいもの、より熱いものには負けてしまう。
 炎を纏い、まゆは不尽木に近づく。そして火鼠を挑発することにした。
「鼠のクセにでかくて偉そうなやつめ。私は猫の王より正六位を賜った猫又だ。猫の王はお前を天麩羅にしたいとご所望だ」
「なに、それは生意気な。しかし猫の王とは厄介だ。お前如きに負けるつもりは無いが、軍を率いてやってくるならば旗色が悪い。とはいえ、お前たちにも相当な死者が出ようぞ」
「ならば、賭けをしよう。お前は炎に強い。天麩羅でこんがり揚げるほどの熱であっても、耐えてしまうのならば美味しく食べようがない。私は火車に化けた。この炎に触れて無事で居られるならば、無駄ということでおとなしく引き上げよう。そして猫の王に、ここをお前の領地として認めるように進言しよう。猫の王は偉大だ。それに認められたならば、そのちっぽけな木だけではなく、この桜島すべてがお前の領地となる。私の正六位の座を譲り受け、桜島守火鼠を名乗れるわけだ」
 これには火鼠、ぬうと唸った。
 火鼠に触れるものは確かに居ないが、桜島の火口に閉じこもっているばかりでは名も知られぬまま、忘れ去られるのみだ。事実、火鼠のことなど桜島の住人とてみんな忘れていた。火鼠は臆病であまりに外へ出ないものだから、わざわざ尋ねてくる物好きもなく。年中やることといえば不尽木の実や枝を齧るか、煙たい噴煙や灰を疎み、時たま噴石に当たらぬよう気をつけるくらいだった。
 そこへ、正六位の猫又が桜島を領地と認めると言ったのだ。それに、猫の王には位を授け、叙位者の格をあげることができ、妖怪としても強くなれる。猫の王の臣下として、鼠でありながら正六位として桜島守になれば、この島は名実ともに自分のものとなるのだ。
「安心するといい。こうして、刀はここに置く。けっして刃を抜いたりはしないと誓おう」
 まゆは鞘に収まった刀を脇に置き、それを鉄の鎖で抜けないようにぐるぐる巻きにした。
「いいだろう。どんな炎とて、この火鼠の皮を焼けはしまい」
 火鼠は勢いよく不尽木より飛び降りた。そしてゆっくりと大きな体躯でのしのしと迫る。まゆは息を呑んだ。こんなにでかくて強そうな鼠と対峙することは二度と無いだろう。
 火鼠が、今まさにまゆの火輪に触れようという時だ。
 その白い体毛目掛けて、一斉に十の部下たちは五つの水瓶をひっくり返した。
 それは白滝となって瀑布のうちに火鼠を葬らんとした。
「ぬおおお! 計ったな! こうなればお前を道連れにしてやる!」
 火鼠は大きな口を開き、二つの鉄鍬を並べたような前歯でまゆの首をちょん切ろうとした。
 しかし、すかさずまゆは刀を手にして鞘より抜かず≠ノ閉じる口が閉じないよう、つっかえ棒にした。ものの数秒で鞘ごと刀は圧し折れるが、口の中より逃げ出すことはできた。そして何より、その間に火鼠は苦しみ呻いて死んでしまった。
 まゆと一行は勝利を悦び、火鼠の大きな体をみなして担いで桜島火山を降りてゆくのだった。
「猫の王、これが火鼠にございます」
 熊猫山の根子岳に帰ると、まゆは火鼠を猫の王に献上した。
 約束通り、火鼠の皮を必要なだけ貰い受けて、まゆは祝いの席もそこそこに旅立つ準備をはじめた。急ぎ、主人の元へ帰り、この火鼠の皮を渡さねばならないとまゆは勇んだ。
 しかし猫の王は三日だけ、根子岳に留まって酒の席に付き合うように所望した。皮を剥いだ火鼠の天麩羅をつまみに、まゆの冒険譚を聞きたいというのだ。いや、それどころか大層まゆを気に入り、本心としては帰したくないと思っていた。まゆは悩み、そして答えた。
「ならば猫の王、私は江戸の主人の元へ火鼠の衣を届けてきた暁には、この根子岳にて貴方に仕えましょう。そして三日と言わず、三月は酒の席にご一緒しましょう。どうか一刻も早く、私に恩返しを果たさせてください。それとも猫の王、貴方は自らの主人との大切な約束をないがしろにして、酒宴に更けるような不忠者に仕えて欲しいのですか?」
 まゆの言葉に、王は三度、感銘を受けた。
「其方に江戸帰りを許す。そして主人に最期まで仕えてやるといい。根子岳に戻り、吾輩に仕えるのは立派に忠を果たしてからでも遅くはない。次に逢った時は火鼠退治をつまみにして、一緒に杯を交わそうではないか」
 こうしてまゆは帰りの船に飛び乗って、海越え山越えやっとの思いで江戸へ帰りついた。
「そのようなわけで今ここに居るのです、ご主人」
 除夜の鐘が鳴り響く。呉服屋は三日早く帰ってきたまゆに報い、正月初日から仕事をはじめた。小梅のための振袖は、今や自分ひとりの願いではないと呉服屋は精を出すのだった。
                         弐「小梅乃振袖 下」了 続死
死、小梅乃振袖 落

 火鼠の皮衣、帝王紫、鶴の機織。
 三怪書を元に世に二つとない小梅の振袖はいよいよ完成に近づいていた。
 正月も明けぬうちに呉服屋は仕事をはじめ、その指揮を取った。石綿に似た火鼠の皮と毛を紡績に掛け、それを絹糸のように直す。次に鶴の機織、九恋の職人芸の魅せどころとなる。
 九恋は特別に、自らの羽根を抜いて少しずつ織り込んだ。千年と言わずまでも、小梅に長生きして欲しいと想いを込めて。その作業は丹念に、半月掛けて行われた。
 呉服屋は模様や仕掛けを考えた。帝王紫の柄に、火鼠の白毛で桜を描く。小梅はこと春の花見が一番楽しみにしていたし、遥々と桜島へ火鼠狩りへ行った猫又まゆにちなんでだ。
 
 小梅が病床に伏したのは、今か今かと振袖の完成を待つ一月下旬のことだった。
「ああ父上、私の振袖はいつまで待てば」
 小梅は待ち焦がれていた。珠玉の振袖は心の支えになると共に、小梅の気を病ませた。各々が最大限の努力をした結果、最高の物を仕上げるために長い時間を必要としてしまった。
 小梅の姉貴分である九恋は急ぎ、機織に明け暮れた。九恋は寝ず食わず部屋を出ず、機織に没頭した。そうして七日掛けて、見事な火鼠の鶴織反物が出来上がる。
 それからというもの九恋はそばに寄り添い、小梅の看病に徹した。呉服屋も負けてはいられない。その手腕にて、帝王紫の染色をこれまた七日掛けて迅速に、そして丁寧に仕上げた。
 最後は総力を挙げ、刺繍や仕立てを行い、ついに完成したのは承応元年《西暦1655年》の二月十四日。その小梅乃振袖は語るべくもなき絶品となった。

 けれども全てが遅すぎた。
 その頃には小梅の命は風前の灯火、もはや物見遊山などできようはずもなかった。
 打ち掛けられた振袖に、自ら袖を通すこともできない。こうもやつれてしまっては、せっかくの振袖も似合いはしない。みんなの想いが重たくて、とても羽織って歩けやしない。
 小梅はるると泣いた。
「父上、この振袖は美しきが過ぎます。このようなものを着て、小梅は人前に出とうありません。私の亡き後、どうか小梅の振袖は、健やかで似合いの娘に着せてあげてください」
 質屋の旦那は悔し涙を流した。呉服屋は長い付き合いになるが、そんなところは初めてみた。
 
 小梅は床に伏せつつも、飾られた振袖を着て花見に行く自分を夢描いた。
 来る日も来る日も。
 桜咲く道を往き、行く人々の振り返るその幻美を心馳せた。
 九恋は仕事も休み、小梅に付き添って話し相手になっていた。呉服屋に頼まれて、猫又まゆも小梅のそばに居てやって、猫の王や火鼠のこと旅先での見聞を語ってやった。
 振袖はそこに在るけれど、人目を恥じる小梅はけして振袖を着ようとはしない。
 それならば、と九恋とまゆは赤い漆縁の大鏡を部屋に置き、小梅ひとりで鏡を見るように薦めた。誰も覗かなければ、小梅の振袖を知るのは当人と鏡だけである。
 幾日か、そうして九恋とまゆは戸裏で見張り番をしながら、絹擦れのしゅるしゅるという幽かな音に耳を傾けるのだった。幾日か、幾日か。
 
 小梅の病は春を越せぬ。
 やがて決心がつき、二月の終わり、小梅は夜闇にまぎれて外で出歩くことにした。
 両親は心配させまじと、九恋とまゆを頼りにして。夜、こっそりと屋敷を抜けた。
 振袖を覆い隠すように角隠しを被り、なるべくふたりも小梅のことを見ないようにして夜道を歩く。明かりもなく歩けるのは、まゆが猫目で夜でも見通しが利くからだった。九恋におんぶされて、小梅は夜の町を巡るのだった。
「九恋、おねがいです。桜を見に往きましょう。例え、どこにも咲いていなくとも」
 そう願っても、江戸の何処を探しても、桜など咲いているはずもなかった。
「まゆ、桜島はどうして桜島というのですか。桜が咲き誇るわけでもないでしょうに」
「小梅様、それは桜島の神社に奉られる木花佐久夜姫《コノハナノサクヤビメ》様の恩名に由来します。桜や梅が咲くように美しい女という意味です」
「ああ、私も木花佐久夜姫のように、最期まで美しく在りたかったものです」
 まゆは一計を案じて、九恋を先導した。やってきたのは本妙寺の咲き誇る梅木の元だった。
「小梅様、桜ならばここに」
 夜闇に濡れた白き花、小梅の目にはなんと見えたか。
「まゆ、これは桜ではありません。私とて、夜目が利かずも察しがつきます」
「いいえ、桜です。貴方は花見に来ることができたのです」
「そんな……。九恋、貴方はどう?」
「私には――梅花に見えます。だけど小梅、私には桜も見えます。とうの昔に、私たちは一緒に花見をしていたではないですか」
 九恋は振り返る。美しき振袖を眺め、三人語らった一時を。
「小梅乃振袖に春一番の桜は咲いておりましたとも」
 小梅は闇に咲く花を見つめ、映らぬ瞳に白桜の花びら散るさまを知った。
 小梅はるると泣いた。
 
 夜明けの頃、小梅はおだやかに眠りについた。
 短く儚く、靄とも露とも知れぬ一生なれど、美しくも人に愛される桜花梅花の人生だった。
 無念なるは、幻と消ゆる小梅の振袖姿なるか。
 それを知るのは大鏡だけ。その赤縁は振袖だけを映していたせいか、帝王紫に染まっていた。
                       死「小梅乃振袖 落」了 続後
後、興乃振袖

 小梅が亡くなり、花見の季節も過ぎた頃――。
 世に二つとなき小梅乃振袖は亡き小梅の遺言に従い、次の持ち主を探すことになった。
 質屋に飾られた絶佳の大振袖は瞬く間に評判となる。買いたいと想う若い女は後を経たないが、何分と小梅乃振袖に似合いの美しく健やかな娘でなくてはならない。
 やがて紆余曲折があって、紙商いの娘、興乃《おきの》の手に渡ることになった。
 興乃の家は商売も上々、世で物言うは金というもので一番の金子を約束した。それだけでなく、高飛車で物言いはきついが健やかで美しく、振袖に見劣りしない女ぶりであった。
 そしてなにより、本当に小梅乃振袖を愛して止まず、その執念は鬼気迫るものがあった。
 こうして興乃はお気に入りの振袖を我が物にした。
「ああ嬉しきは麗しの小梅乃振袖、初お披露目。興乃の優美は人の海をも割ってみせよう」
 言葉通りに、興乃の歩くさまの美しさは衆人に息呑ませ、道の真ん中を譲らせた。
 興乃はその美しさを誇りに誇るが、堂々と胸を張って歩くさまは紫孔雀と呼ばれるに至る。いっそ清々しくもあり、興乃は人々の羨望を集めて名声を得た。
 次いで必然、縁談にも恵まれる。興乃は其の度、盛大に凡夫を袖して笑い飛ばした。旗本の嫡子に言い寄られても、その気は無いと毅然と断わる。興乃の振舞いは横暴だが、美しさと風通しの良さが追い風となって一挙一動が絵になる華になる。
「この興乃の婿を願う者は心せよ! わたくしの心を射止めるは未だこの小梅乃振袖だけと」
 呉服屋は猫又まゆと共に、何とも言えない面持ちでその様を見守った。
「なぁまゆや、本当に小梅はこれを望んでたのかねぇ」
「さぁて。しかしながらご主人、興乃さん自身も日に日に美しくなってゆきまする。高慢さはともかく、確かに元気は有り余って、見事に着こなしておりますよ」
「しかしねぇ、どうにも気になるんだ」
 呉服屋は少々、気懸かりなことがあった。というのは商い中に尋ねてきた興乃を初めて数年前にみた時は、そばかすの似合う生意気でちんちくりんの小娘だった。しきりにいつか美人になって見返してやる、と行儀も悪く大人用の高級な反物を眺めてはうらやんでいた。興乃の家が紙商いで成功してどんと大きくなった今、小梅乃振袖にようやく手が届いたのだ。財も美貌も手に入れて、少々興乃は運が廻りすぎている。
「ご主人、そうは言えども興乃も立派に育ったということです。私なんぞ、興乃に石ぶつけられるわ、めざしをエサにワナに掛けられるわ、悪行三昧を受けました。が、興乃がああして悪さするのは家が忙しくて構ってもらえないからです。わがままでさびしがり屋なんですよ。いつか非行に走ってお縄につくかと思えば、今では人気者、よいことではないですか」
「ははは。お前さんがそういうんだったら、まぁよしとしよう」
 そんなこんなで興乃の天下はしばらく続くのであった。

 やがて半年が過ぎて秋になり、小梅乃振袖は興乃振袖≠ニ呼ばれるようになっていた。
 すっかり誰もが小梅のことは忘れて、興乃の物と認めるのは無理もない。なにせ、小梅は生涯その振袖姿を誰に見せることもなく亡くなったのだから。
 ただ、興乃振袖と称しはじめたのは興乃自身であった。
「あの巣篭もり小梅になんてもったいない。この振袖は興乃振袖として着こなしましょう」
 まゆはその密談を、たまたま既知の猫と軒下で語らっている時に聞いてしまった。
「小梅はね、わたくしのことを見下すんです。親切に遊びに誘ってあげても無下に断わり、一方では両親に溺愛されて大事にされて。たまに表に出てくれば、美人だ何だとチヤホヤされる。お高く止まって言うに事欠き、興乃は騒々しくて体に障るとわたくしに言うのです」
 興乃には話し相手が居るらしく、腹に積もった想いをぶちまける。
「それだけならば許しましょう。ところが聞けば世に二つと無き振袖を貰えると。それも質屋の両親が必死になって小梅のために奔走する。我が家など、せいぜいくれるのは暇と金子とお叱りだけというのに。はじめは大したものでないと軽く見ていれば、大奥に召し上げられたるは帝王紫の打ち掛け。わたくしは嫉妬しました。左様なものを、あの小梅が着て出歩くことが妬ましい。ゆえに興乃は貴方に願ったのです、かの振袖と小梅の命が欲しいと」
 興乃の語りざまは声色だけでも鬼気迫り、もし見つかったらという不安をまゆは押し殺した。
「当家の興隆も貴方様のおかげ。興乃は感謝しております。この振袖とて、小梅が健在ならば手に入るべくもなし。どうせ長くは無い命、たかだか半年、早死にしただけのこと。存分に小梅は同情と憐れみを買ったのです。恨みも買うのが道理というものですわ」
 かんらかんら、と興乃は壊れたように笑う。まゆは怒りと憐れみと恐れをまぜこぜに抱いた。
 結局、その密談は家人に呼ばれて興乃が早々に立ち去ったため、そこで終わってしまった。
 まゆは呉服屋にこのことを密告するが、興乃を今更怨んでも堂々巡りと制されるのだった。

 興乃は美しくなった。一段と、日を追うごとに色艶を増してゆく。
 あたかも興乃振袖により相応しくあるために、と。反して、興乃は変調をきたしてゆく。
 狂い咲き。
 そう表現すべきか、興乃の心が壊れゆくに比例して美しさは増してゆく。興乃振袖の白桜が、いつしか赤く火鼠の色を湛えてゆくのは嫉妬の炎に宛てられてなのか。
 時折、何もない空に向けて語り掛ける興乃の姿が見られたという。
 明暦二年、一月十八日。梅木の咲き始める頃、興乃はこの世を去った。
 不思議なことに死因は分からず、最期まで美しいまま、興乃振袖を着たまま眠りこけるように死した。その表情はどこか満足げで、誰かに勝ち誇るようでさえあった。
 興乃は末期、この振袖を人手に渡らぬよう千切って焼き捨てるようにと言っていた。
 紙商いの主人はその言葉に従い、丁重に興乃振袖を焼き払おうとするが、しかしこの振袖をただ焼き捨てるには惜しく、高値で売り払ってしまう。興乃の遺言より金を惜しんだのだ。
                          後「興乃振袖」了 続録
録、米花乃振袖

 巷に名高き興乃振袖は、しかし凶つ物《まがつもの》と知られるようになった。
 小梅につづき、興乃も死んだ。
 古着屋はこの天下一品の振袖を買い取ったものの、悪評が立って売るのに難儀した。
 けして安くはない金で買い取ったので、高く売りたいが大枚はたいて不吉な品を買ってくれるような都合のよい者はいない。このままでは当家が不運に見舞われるかと古着屋は嘆いた。
 そこへ渡りに舟。米花《よねか》という麹屋の娘が古着屋をたずねて興乃振袖を買ってゆく。
 しかし言い値で買ったのではなく、言葉巧みに値切り倒していったので古着屋の儲けは雀の涙。米花は小梅や興乃ほど美しくはないものの、口が達者で気立てがよかった。
「感謝しとくよ古着屋さん、興乃振袖はあたしが大事に着たげるよ」
 米花は興乃振袖を過分に見せびらかすこともなく、後生大事に仕舞い込むこともなく、それだけ思い入れがふたりほど無いためか、適材適所で普通の振袖と使い分けて着こなした。
 また曰くつきの振袖であるとして、行きつけの本妙寺にお祓いをしてもらっていた。
 米花の麹屋は呉服屋の町から少々遠く、また世間も飽きてたのか噂は次第に届かなくなった。

 やがて半年が過ぎ、米花はよく気をつけて、大事に興乃振袖を着こなしてやった。
 しかしやがて米花にも悩みができた。振袖が華美すぎて、人が評せば中の上の米花には不釣合いだったのだ。猫に小判、米花に振袖と巷では陰口された。
 はじめのうちは持ち前の気丈さでやりすごしていたものの、米花とて年頃の娘、嫉妬混じりの誹謗中傷に心を痛めた。
 興乃は艶やかな華に長け、小梅は憐れみの情を誘う。米花は羨望されるほど美しく大胆でもなければ、同情されるほど悲惨な目に逢ったこともない。その無難な凡庸さが仇となる。米花には興乃振袖はもったいないと、こと振袖を羨む若い娘らに嫉妬の眼差しを向けられた。
 さらに興乃の呪いと言わんばかりに、見たことあるものは興乃の美貌を目に焼きつけ、見たことない者はなお性質の悪いことに空想に描いた興乃の絶世美人ぶりを知った気でいる。ことあるごとに米花は興乃と比べられて、似合っているとは滅多に言われることがなかった。
 ここに至って、米花は興乃振袖に執着するようになった。値切ったとはいえ金子は高くつき、ことあるごとに冷やかされることが逆に反骨心から米花を奮い立たせた。
「興乃の高慢ちき! くたばってもあたしを笑いやがって!」
 というのは以前、米花はたまたま出歩いていた時のこと。大手を振って天下の往来のド真ん中を闊歩する興乃に出逢った。興乃が歩くと、波が引くように人が遠ざかって道ができる。
 噂には聞いていた。しかし米花は不覚にも、見たこともない紫桜の振袖とそれを着こなす興乃の美しさに言葉も無かった。そうしてぼうっとしてるうちに、興乃とぶつかってしまった。
 興乃は物凄い剣幕で、脇差があれば切りつけていたであろう勢いで啖呵を切った。
「こんの山狸! わたくしに尻餅つかすとは何たる無礼!」
「な、なにおう! あたしにぶつかってきたのはそっちの方さ!」
 と、興乃はじろじろ米花を品定めした。そしてこれでもかというばかりに高笑いする。
「さてはてどこの山から来たものか、わたくし狸の郷に心得がありません。この興乃に見惚れてしまったことは許して差し上げてよ。化けるのが下手でそうなのでしょう? よくよく興乃の美しきことを心に刻み、お手本となさってくださいな」
 その痛快さにどっと聴衆は笑い声をあげた。元より無名の米花と興乃では勝負にならず。
 興乃の饒舌さたるや、舌戦に自信のあった米花も言葉を返せなかった。見惚れてしまったのは事実だ。生粋の町娘に山狸と罵り、自分は高きに置く。興乃はそういう自分の高飛車さをよく理解していて、それを一芸にしていた。
 颯爽と涼しい顔で歩き去ってゆく興乃。相手が悪い、不運だったと聴衆の中には米花を気遣う声もあったが。余計に惨めでしょうがなく、米花は悔しさに身を奮わせて人ごみに消えた。
 興乃はとっくに亡き者というのに、未だに振袖は興乃振袖と呼ばれていた。
 もしも米花乃振袖と呼ぶならば、それは皮肉の意図に他ならなかった。

 大嫌いな興乃を見返すこともできず、興乃振袖は米花の悔し涙を日々拭い去る。
 赤い火鼠の桜は白く染まって、心なしか振袖も米花に合わせて以前ほどの精彩を感じさせなくなった。いつかただの振袖になってしまうのではないか、と米花は恐れを抱いた。
 興乃振袖について調べてゆくうちに米花は火鼠の皮衣で出来た火浣布であるということを知った。火に投じれば、興乃振袖は新しくまっさらに蘇るかもしれない。
 もしも灰に還ったとしても、いっそ清々する。米花は振袖を焼くことを本妙寺に相談した。
 気づけば年末、寺も忙しい。住職と話し合い、暮れ正月を避けてよい日柄ということで、興乃振袖は興乃の命日に供養を兼ねて焼かれることになった。
 年の瀬およそ一ヶ月ほど、米花は名残惜しさにずっと興乃振袖を愛用した。
 呉服屋はたまたま用向きがあって遠出して、米花と振袖を見かけた。米花の美しさは幽霊みたいに優麗で透き通る清流、魚住まぬ美川のようだった。それでもなお興乃には及ばない。
 小梅への興乃の妄念に、未だ興乃への米花の執念は及ばないのか。そも、人の美しきは想いの丈に比例するものなのか。欲しがり、うらやみ、わがままを言うことが美しさを与えるのか。呉服屋は振袖を巡る三人の少女の事の顛末をついぞ知ることはなかった。
 ふと呉服屋は米花とすれ違い、通り過ぎるその時に赤い猫を見た気がした。

 明暦三年《1657年》一月十八日、本妙寺。
 その日、門前には人だかりができていた。一目、世に名高き興乃振袖の最後を見届けようという魂胆だ。噂話が方々に飛び交い、寺からは読経が聞こえてきた。
 鶴の機織職人、九恋。それに仕事で忙しい主人の呉服屋に代わって、猫又まゆは見物に訪れていた。供養焼きは未の刻、午後二時――。人々はその時を待ちかねていた。
                       録、「米花乃振袖」了 続 死致
死致、火乃振袖

 庭火を囲み、僧たちは経を奉げる中、興乃振袖はいよいよ火中へ投じられようとしていた。
 米花をはじめ、見物人は固唾を呑んで見守っている。
 紫の衣は燃え昇る赤い炎にくべられる。
 たちまち、興乃振袖は炎に焦がれていくかに見えた。火鼠の衣は火で洗える布という触れ込み、まがいものでなければ燃え尽きるはずもない。
 ところがどうしたことだろう。米花の意に反して、振袖は炎に包まれたが最期、みるみるうちに焼け焦げてゆく。見るも無残に絶世の衣が灰になろうとする。度重ねたお祓いや読経のせいだろうか。妖しい片鱗など見せもしない。とうとう袖や裾が灰となる。米花の心は焦れた。
 この振袖を失ったら、二度と米花はその美しさを称えられることはない。興乃には一生、勝つこともできず、ただただ負け惜しみ、いたずらに年を重ねて屈辱を晴らせぬままに老いてゆくのだろうか。米花が手を伸ばしたのは、とうとう一片も遺さず消えゆかんとした時のこと。
 米花の執念が、火中へと自らの身を投げさせるなど誰が予想しただろうか。
 赤い炎は嫉妬の紫へと変ずる。米花は笑う。一片の尽きゆく布を抱いて。米花は狂う。炎も狂う。不思議と、米花は炎に呑まれることがなかった。
 紫の振袖は火に織られて蘇る。完全すぎるほどの精彩を以って、それは自ら煉獄に微笑む米花に袖を通させた。見物人の誰もが今、はっきりと感じているだろう。これは米花乃振袖である、と。火中に微笑む米花の美しさは、まさしく絶佳――。否、絶火美人であった。
「興乃っ! 興乃っ! これはあたしの振袖なのさ! もう他の誰のものでもありやしない! 誰もが認める! 一番この振袖が似合うのはあたしだと! 嗚呼、愉快、愉快この上なし!」
 紫の火と踊る米花。嫉妬の果てに咲かせた花は、なんと艶やかなことだったろう。その美しき舞は永遠に続くかに思えた。
 突如、一陣の射抜くような風が吹く。その悪戯なる吐息は興乃のものか、小梅のものか。火の勢いは轟と増して、ついに米花の身を焦がす。にも関わらず、米花は涼しげに勝ち誇って焼失していった。肌が焦げ、肉が焼け、骨までも灰と成り果てて。とうとう米花は跡形もなく燃え尽きて、なのに、見えない何者かが袖を通したかのように米花乃振袖は袖をしゃんと広げていた。はたして袖を通す者は米花か、興乃か、小梅なのか。そしてそれはふわりと飛び立って、高々と空を飛ぶではないか。紫の火の鳥と化した振袖は寺の本堂の屋根に引っかかる。火の粉が雨と降り注ぐ。人々が騒ぎ出した頃にはもう手遅れだった。
 火消しを試みる間もなく、妖炎は燃え広がってゆく。江戸八百八町あまねくを、執念の炎が懐中に抱いた。
 ――後に振袖火事と呼ばれるこの一件、明暦の大火の死者は一説に十万八千人余りとされる。当時の江戸町民の三分の一が死した日本史最大の火事はこうして幕を閉じる。
 振袖は、今なお美しき娘が袖を通すのを心待ちにして何処かに眠っている――。
                      死致「火乃振袖」了 続 忌魔
シロクマ
2011年10月02日(日) 21時19分48秒 公開
■この作品の著作権はシロクマさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
原稿用紙70枚程度の短編になります。今回のジャンルは史実を元にしつつ脚色加えまくり改変しまくりの伝奇もの、でしょうか。
「振袖火事」という大火を題材とさせていただきました。
じつは長編用の過去編として書いたものが独立してこのような形となった作品で、元の作品はポシャッタので単品で完結した品として投稿いたします。

ちなみに作者は振袖三人娘で一番興乃が好きやもしれません

この作品の感想をお寄せください。
No.4  シロクマ  評価:--点  ■2011-10-12 12:48  ID:44gQOvYh1xI
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作者返信レスになります

>貴音さんへ
ご感想ありがとうございました。
と、新作の方にもレスがあるようで、そちらにも追って返信のほどを。
振袖火事は題材としつつもこの作品は大きく変わってるので、例えばまゆの元ネタは振袖火事ではなく、どちらかといえば長靴を履いた猫に近いです。忠義者の猫の話しは江戸時代に他にもあります。
三両借りるのは「日頃世話になっている魚屋が病気の折、主人から三両を盗んで養生するようにと渡した猫」の話しを参考にした名残だったり。
火鼠退治は童話や昔話にありがちな騙し討ちと知恵比べのエッセンスが特徴なのかな? 火鼠はひきこもっていただけで何も悪いことをしていないのにまゆったら・・・。
なるほどフェイバリットは興乃さん。やっぱり作中で語られるように華があるのかも。これまた米花が悔しがりそうな。

赤い猫は「赤猫=放火」という意味が江戸時代にありまして、後の火災に繋がる予兆です。
また興乃の謎の話し相手、これも赤猫ではないか?と疑って頂いてけっこうです。
振袖火事は史実では火元が一箇所でなく複数箇所で、放火説もあるため、それを含ませた形でしょうか。
文倉の猫姫は「猫は経典を守るために船に乗って日本へやってきた」という経緯にちなむ書の神様。といったように、猫研究の結果があれこれ詰め込まれてこのように猫尽くしになっております。
火鼠の怨念というものもしかりとあるため、あながち間違いではないと思います。女の嫉妬だけでは大火事には弱いので、やはり妖力も関わるのでしょうねぇ。
丁重なご感想、改めてありがとうございました。
No.3  貴音  評価:40点  ■2011-10-12 01:46  ID:dJ/dE12Tc8A
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読ませて頂きました。
新しくご投稿されている方にはじめまして、と
書いてしまったので、後からごあいさつしにくい感じです・・・・・・。
私はこのお話を読んで初めて
振袖火事の伝承を知ったのですが、元々のお話から
このように物語が膨らみを持つことに驚きました。
猫のまゆの話も昔話にあるようで、それでいて
火鼠退治の様子がしっかり伝わってくるので、
とてもよく考えられていると思いました。
とても印象に残ります。
キャラクターは興乃さんが一番わかりやすくて好きです。
恋愛が絡まなくても女性の怨念や嫉妬といった業の深さ
が表れていて少し人ごとではなかったです(汗)
米花さんを呉服屋が見かけたときに見えたかもしれない、
赤い猫というのは火鼠の怨念のような意味でしょうか。
読解力が足りなくて読み違いをしているかもしれませんが、
火鼠の怨念が嫉妬や怨みの物語に伝奇的要素を加えているの
かな、と思い面白かったです。
No.2  シロクマ  評価:--点  ■2011-10-08 14:00  ID:44gQOvYh1xI
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作者返信レスになります

>陣家さんへ
今回、おっしゃられるように小姓の件を完全に廃して三人娘の物語に仕立て直したのは小梅を憐憫すべき少女にするためでした。
はじめに良いところ取りをして取捨選択を行ったので、おかげで自分好みのエピソードをふんだんに盛り込むことができました。
「普通の振袖1枚で江戸全焼もなんだかなぁ」と、いうのと本来は火元が複数箇所だったり陰謀論などがあったりするので
火鼠の衣やそれぞれの執念で補強を計った形、ですかね

枚数が短く、そのせいもあって色々惜しいところがあるとのことですが
じつは「1〜7」の1章ごとにワード換算34〜40行で2〜3枚、とかなり詰め込んで書いたのが大きな要因のようです
本来は長編ライトノベルに劇中劇のようにして登場するエピソードの予定で、それゆえに短く切り詰めようとしたのですが
単品に仕立て直す際に、その名残が残ってしまったというわけですね
起こった出来事や人物の数を鑑みると、中編や長編として改めて書き直すこともできるやもしれませんね
火事の最中、呉服屋と猫又まゆがどうしてたのか? なんて部分がまるで削ってありますし・・・

移動図書館、猫の王、九恋はじつはボツになった長編ライトノベル用のキャラクターで
文倉の猫姫は現代編に出す予定、猫王はまゆが現代の猫王になっている、という調子でしたためたのでした
自分もアスベストの衣はやだなぁと思って火鼠を・・・ 火鼠の天ぷらはおいしいのでしょうか

自分も興乃だけは違和感を覚えたのですが「興乃(おきの)」という名前が格好よくてしょうがない! という点と
世間的には「小梅の振袖姿は誰も見たことがない」「米花の振袖姿は似合ってない」「興乃の振袖姿が一番印象に残っている」
という三点を鑑みて、じつは興乃が一番お似合いなのかも、というニュアンスをこっそり込めてそのままにしておきました
本来「キノ」「イク」はあまり描かれることのない被害者A、B的な感じなので、私的にはこのふたりの改変部分が書いてみて楽しかった覚えがありますね

丁寧なご感想、どうもありがとうございました
また機会がありましたら、よろしくおねがいします
No.1  陣家  評価:40点  ■2011-10-08 07:11  ID:1fwNzkM.QkM
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拝読いたしました。

伝承や小泉八雲の記録では軸となっている、ウメノと小姓の色恋部分をばっさり切り捨てて、振袖をめぐる娘三人の女のプライド合戦として物語を再構築しているところは感心しました。
伝承記述的な語り口も格調高く、幻想奇譚の雰囲気を色濃く演出できていると思います。
振袖の成り立ちにファンタジー色の強いエピソードを惜しみなくつぎ込んで話をふくらませている部分も見事だと思いました。
この部分にはかなりのマニアックな設定が与えられていて実に饒舌に世界観を演出してくれています。
ただ前半の小梅編でのファンタジー色の強い軽妙な物語に比べて、後半はひたすら女の執念にお話がシフトしていくので全体としてみると印象にちぐはぐさが感じられました。とはいえ、この分量的に短編としてまとめているがゆえの違和感であると思います。
全体的に展開が速く、息付く暇も無い感じで、やや窮屈感を覚えました。
おそらくこれだけの時間的、登場人物ごとのエピソードを展開するには、章ごとに人称を変えるなどして十分な字数をさけばさらにスケールの大きな物語となり、エンターテイメント性も上がっただろうと思われます。
やはりこの分量に収めてしまうにはもったいない内容だったと思います。
シロクマさんの本領は小梅編までの魑魅魍魎が活躍するエピソードに集約されていると思いましたので、後半もなんとか活躍の場がほしかったところですね。

いつもにも増してキャラクターも実に豪華だったと思います。
猫バスみたいな移動図書館、猫王などが特に印象に残りました。
火鼠の皮がアスベストだとちょっといやですけども、っていうか近寄りたくないかも……

あと、小梅(ウメノ)、興乃(キノ)、米花(イク)、(かっこ内は伝承でのモデルの名前?)と並べてみると興乃だけが名前と乃振袖の部分がクロスしているのがなんとなく一貫性が欠けているように感じられました。まあ、細かい事ですですけども。

原典での悲恋に身を焦がした女の怨念がもたらした大火。
米花の見栄とプライド合戦の末の焼身自殺のとばっちりで十万人が焼死。

どちらにしても女は怖いですなあ。
すばらしい作品、ありがとうございました。
総レス数 4  合計 80

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