行きずりの白

 そんなものを、愛だなんて認めない。


  ■


 目覚めへの渇望はとどまるところを知らない。それが乱暴につくり出したすき間を、白刃のきらめきはまるで義務のように埋める。無慈悲な意志から与えられた、昔気質な愛。生かされ続ける私の、なんと儚いことだろう。
 広がりゆく光の奥に、盲目の神を見た。表情はない。かたちは、そこにありえない。あるはずがない。私は恐怖した。まぼろしと気づいていながら、証せぬ畏怖の念を抱いた。
 母よ。私はひざまずき、こうべをたれて言葉を紡いだ。唇からは、死に朽ちた音だけがこぼれ落ちた。とろりと。尾を引くように。われらがはじまりなる母よ。あなたにつながれた、遠く広く澄みわたる世界。そのどこまでも、後悔はないのである。ああ、だって。私は護りたいと思ってしまったのだから。
 神は私の胎内に閉ざされた薄紅色へ口づけると、静かな一笑にふした。嘲りだった。哀れみだった。それもまた、私の嘆きが築き上げた幻影にすぎなかった。
 そうして偽りのぬくもりに包まれ、私はほう、と息をつく。ひたされた白は、心なしかくすんで見えた。それは子として、ひととして、当然の報いであった。
 許せ。血よ。肉よ。消えていったすべてのいのちたちよ!
 ――仮初の生を、小さな器にはびこらせて。

 光はひどく優しい色をしていた。これほどまでに軟らかなものを、私は信じることができない。世界はまばゆいとげでおおわれている。あてつけに違いない、と迷妄を抱いた。約束された生を置き去りにした私への。
 手を、伸ばす。甘い香りがまぼろしをつくる。眠気はない。ただ浮いているような感覚だけがあった。
 おかえりなさい。
 今はもう遠い故郷から、私を呼ぶ声がする。月の半分を描いて、余計な耳鳴りまでつれて、さも当たり前のような顔をして駆けてくる。
 だって、ほら。あなたの子が泣いている。わたしの子が、きいいいん。きいいいん。ぎ、ぎぎぎぎぎぎぎ。
 おかえりなさい。
 吐息に似た囁きは、耳元の虚しさを摩擦して爆ぜた。
 だって、ねえ。かえらない。変わらない。あの子はかえってこられない。かわいそうに。かわいそうに。かわいそうに、ねえ。
 ――おかえりなさい。
 陰陽の中に、ひとつだけ。透明ななにかが響く。めまいが、私を引き戻す。
 私は揺りかごに揺られて、もう一度母の名を唱える。懇願する。助けてください、かえしてください、と。

 きみは覚えているだろうか。
 近すぎて、遠すぎた、私のことを。


  ■


 突然のできごとだった。それ以前に、理解しがたいことだった。
 衝きつけられたのではなく、回りこまれたような。そいつはするりとあたしの前にやってきて、両手を広げてとおせんぼする。そうして、にんまりといじわるな笑みを浮かべているのだ。そいつに顔があるとすれば。
 あたしは知っているかぎりの汚い言葉でそいつをののしったり、きれいな言葉で祈ったりするけれど、どうせ何にもならないことはわかっていた。だってそいつは、絶対にいのちを逃がしたりしない。これに関しては、押しても引いても動かない不変的な確証があった。
 だけど、それでも。
 あたしはなんて愚かなのだろう。


 あたしが目覚めたとき、かあさんはもう半分くらい冷たくなっていた。
 かあさんの頬は雪みたいにまっしろできらきらしていて、小さいころからだいすきだったけれど、今日はちょっと白すぎるんじゃないかしら。そう思って、触れて、胸がどきんと高鳴った。かあさんに張りつく、苦々しい空気に気がついてしまったから。
 かあさん、と音が洩れる。窓を通り抜けてこぼれ落ちる朝日は、いつもと変わらずまぶしかった。なんにも変わらないから、腹が立った。
「ねえ、かあさん」細い二の腕を持って、軽く揺する。あたしの手つきはガラス細工をあつかうものに似ていた。たぶん、壊してしまうのが恐ろしくて、無意識のうちに心がそうさせているのだろう。「かあさんてば。ねえ」
 ほの暗い小部屋。重い埃にまみれた、すっぱいベッドの上。あたしは秘密の呪文を唱えるように繰り返した。あごがしゃんとしないせいで、どうしたって声まで波打ってしまう。
 いつのまにか、足は独りでに跳ねるくらい震えて、ぴんと張っていたはずの眼窩もぐらぐらしはじめた。目が回る。視点がかあさんの身体のあちこちに飛んでいく。咽喉の道が狭まって、嗚咽がおかしな悲鳴に変わる。気持ち悪くなって眉をひそめたら、ぼろぼろと涙があふれた。
「目を覚まして」
 唇がわななく。かあさんの柔らかな黒髪に指を入れて梳かす。くん、と指がつっかかった。泣き声は耳障りなほど響いてあたしを責める。かえってくる。ゆったりした夜着に顔をうずめて叫んだ。立派な偽善とか、人間らしい憤りとか。そういうものをみんな吐き出して、綺麗ごとに身を包まれたなら――。
 ああ、あたしってわがままなのね。いのちはいつか必ず枯れてしまう。例外なんてどこにもない。諦めなさい、と心臓がなびく。
 それでも、受け入れるだけでは哀しすぎる。
「泣いてどうするの?」暗闇の中で、そいつがあたしに問いかけてくる。「泣けば、いのちは戻ってくるのかい?」
 そんなわけないじゃない、とあたしは吠えた。とうさんの、それからかあさんのいのちまで、あなたはほしいって言うの? そんなの認めない。かえして、かえしてよ。かあさんをかえして。
 そいつはうーんとうなって少し考えたあと、ほんとうに優しい声色で言った。
「きみの言い方は間違っているね。そもそもさ、いのちっていうのは僕から生まれるものなんだよ。きみのおかあさんのいのちは、ひとつのいのちの役目を立派に果たし、やっと僕のところへかえってきた。これはずっとずっと続いてきた正しい循環。なんにも咎められる筋合いはない。きみだってわかっているんだろう?」
 そびえる真理の壁を前にして、あたしはただ、自分に有利な言葉がないことに気づく。だからそいつを睨みつけた。他に手立てはないように思われた。敗北にすぎなかった。
 なら、あたしのいのちをあげる。あたしのいのちをあなたにかえす。そうして神様にお願いするわ。かあさんを助けてください、って。それならいいでしょう。
 つまらなそうなそいつに、あたしは意地を張って微笑みかけてみせた。頬が引きつる。その上を大きなしずくが滑っていく。かあさんが知ったらいったいどんな顔をするだろう、なんて疑問が、一瞬だけ頭の端をちらついた。
 あきれた、とそいつは呟いた。
「人間の欲深さってやつはいやだね。自分だってひとつのいのちのくせに、あきれるほど傲慢だ。そんなにおかあさんを生かしたいなら、やってみるといいよ。きみのおとうさんみたいに」
 笑い声が、ついにあたしの唇を割る。手を伸ばす。
 ふわっと浮くような感覚を引きつれて、視界が弾けた。


 そこにはなにもなかった。透き通るような白があたしを呑みこむ。甘い香りが漂う。ふたつの瞳を閉じて、すべてを身体に染み渡らせた。
 かあさんの子守唄が聴こえる。温もりをてのひらですくい上げて、そっと耳に当てる。涙はもう乾き始めていた。あたしは大きく息を吸う。肺の中にかあさんが満ちた。
 ――ここは行き場のない終わり。それから、はじまり。
 ないはずのかたちを見つめて、あたしはひざまずいた。さようなら? いいえ、ありがとう。あたしは幸せだった。悔いはなにひとつ残っていません。いのちは、あるべきところにかえしました。あたしは無です。からっぽの、小さな器です。ああ、どうか、どうか助けてください。
 神様は憫笑したらしかった。慈悲のない、冷たい笑みだとわかった。違和感が足先から這い登ってくる。
 かあさんまで遠ざかる。
 ひとりに、なる。
 白けた世界のまんなか。ほんとうがうごめく場所。力が抜けて、あたしはぺたんと尻餅をついた。
 なあに? なあに? 聴こえるのはなあに? 甘え声と一緒に耳を澄ます。
 あたしはもう、きっと、おかしくなっていた。だって、聴こえるのは愛じゃない。
 私のいのちが消えたわけを、きみは知らないのか。私はきみを生かしたかったのだ。だから彼にいのちをかえして、神に願った。生まれてくる前に死んでしまったきみの、そのいのちを芽吹かせてほしいと。輪廻を歪ませて、もう一度母の元へ届けてほしいと。私のほんとうのいのちはきみにあった。それなのに、きみはなぜ死の手をとった。きみは私たちの生きた証だったのに。なぜだ。私のいのちをかえせ。私の愛をかえしてくれ。
 どうしていのちを捨てたりしたの。愛しいリリアーナ。許さない。わたしはあなたを愛しているわ。とうさんの願いも。愚かな母でごめんなさい。かあさんの想いもすべて。別れも告げずに、娘を置き去りにしてしまうような母でも。なんて愚かなことを。あなたは愛してくれたかしら。裏切り者。愛してくれるかしら。消えてしまいなさい。凛と、凛と強く生きなさい。死に掻き消されてしまいなさい。あなたを生んだことが、わたしの誇りです。あなたなんて生むんじゃなかった。あなたに出逢えたことが、わたしの幸せです。あなたになんて出逢うんじゃなかった。
 あなたなんて、生まれてこなければよかった。
 あ、あああぁぁあああぁああああああぁあああぁああぁぁぁああぁぁあああああああ。
 耳をぎゅうと握りしめて、そこに爪を立てる。痛みがまぼろしを追い払ってくれると信じて。ああ、だけどだけど。これが真実だってことを、どこかでわかっているから。
 助けてください、許してください。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。そうやって壊れたおもちゃになる。後悔を口ずさむ。呪いの詩をうたう。壊れてしまえ、なにもかも。全部、壊れてしまえ。
 白い世界にズレを刻んで、渦巻く黒の奥底までまっさかさまに落ちる。風じゃなく、無念の糸を孕ませながら。
 みんなみんな、いなくなっちゃえばいい。こんなに哀しいのに。胸が張り裂けて、ばらばらになってしまいそうなのに。だれもあたしを愛してくれない。だれもあたしを愛してくれない。
 死が、あたしを見下ろす。それさえ千切れる。なくなっていく。奪われていく。失われてゆく。
 愛して。かあさん、とうさん。あたしを愛して。昨日までとおんなじに。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。

 あたしを、愛して。
黒井
2011年04月22日(金) 18時52分57秒 公開
■この作品の著作権は黒井さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 はじめまして、黒井です。かなり抽象的な形をとっており、構造も読者に不親切ではありますが、みなさまのご意見を頂戴したく投稿させて頂きました。よろしくお願い致します。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  凶  評価:50点  ■2011-06-03 18:37  ID:H5kn4nBA6qA
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はじめまして。読ませていただきました。不安や神秘や温もりや冷たさなどの全てがそれぞれに正しく、否定できないという悲しくも説得力のある世界の内側に触れたような気がして、ぞっとしました。読んでいてドキドキする緊張感があり、心が壊れてしまいそうで、こういう作品は、好きです。最後の「愛して」が連続する部分ですが「愛して」だけでパソコンの画面が一杯になるくらい連続してもおもしろいだろうなぁと思いました。
No.2  シロクマ  評価:10点  ■2011-04-26 02:21  ID:26VugPo02oQ
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読了しましたので、感想のほどを。

シンプルに感じた感想は、「よくわからない」というものです。
抽象的な表現という試みは理解できるのですが、いかんせん、くどさが際立ちます。
また抽象的に表現するにせよ、どこかしら読者にとっての基礎となる部分がないと、いきなり海に放り込まれた気分です。あるいは出口ではなく、入り口の無い迷路に入るよう命じられたかのような。
とっつきやすい箇所を用意しつつ、見せ場として抽象的表現を使ってみてはどうでそうか?

表現のパーツ単位で見ると、気を引く面白い表現もあるにはあるのですが、ラストの表現はありがちな感じでいかがなものかと思いました
これまでの雰囲気と、叫ぶ、連呼するという表現は噛みあっていないように思えて、個人的には興ざめでした
逆に、会話パートや少しずつ話が明らかになってくるところは興味をそそられるものがありました

では、これからも頑張ってください。
No.1  zooey  評価:10点  ■2011-04-24 19:31  ID:qEFXZgFwvsc
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初めまして、読ませていただきました。

小説ということですが、詩的な表現を目指されたのかなと感じました。

部分的に、本当にその一部分だけを見れば、面白い表現はありました。
でも、あまり、この文章の中で機能していないように思いました。
こう、印象的にしようとして、結果的に完全に孤立してしまっている表現が、詰め込まれているという印象です。
そして、すべてがすべて、良い表現ではありません。
私は詩に関しては本当に分からないんですが、それでも、こういう状況は詩でもよくはないと思います。

あと、冒頭の「そんなものを、愛だなんて認めない。」これはちょっとチープだと思います。
先に出して、興味をそそる意図があるのかなと思いましたが、あまりにも月並みな表現のため、私は逆に興味をそがれてしまいました。
作品の顔にもなる部分なので、もっと黒井さんらしい、独自の表現を探して使うべきだと思います。

抽象的な作品が悪いわけではないし、少しずつ事実を明らかにしていく構成が悪いわけでもありません。
たぶん、表現を魅せるということだけに力を注ぎすぎているのが欠点なのだと思います。

小説は出来事を書くものだと私は思います。
その出来事を通して、いかに、読者に何かを伝えるか、そういう間接的な面が多いと思うのです。
直接語らず、出来事から訴えかける方が難しいし、その方が技量があると思います。
私はそういうのは苦手ですが。

そういった意味で、技量の高い方はこのサイトにはたくさんいらっしゃいます。
たくさんの方の作品を読んで、学んでいくことも、大事なことです。
私はそうやって勉強させていただいています。

また、機会があったら読ませてください。
総レス数 3  合計 70

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