湖の歌 |
太陽に捨てられた世界に、朝は訪れない。 冷たい空に広がる幾多の星々を見上げていた少年は、悴んだ両の手をすり合わせた。すでに痛みさえも無くなり、ただ触れ合う感覚だけが残る。 地面は凍てつき、表面を覆う薄い氷の層が歩くたびに音を立てて割れた。透き通った空気はその微かな音さえもありありと響かせ、遥か遠くにまでそこに人が在ることをを伝えようと走るのだ。 本来ならば昼にも満たない時刻。それでも、人は震えなければならなかった。太陽を失った世界には、温もりのある場所なんてものは無かった。ただ、ある地域を除いては。 「……見つけた」 霜で被覆された石柱を手で撫でると、そこにはトカゲの紋様が刻まれていた。炎を纏った赤いトカゲ。それは、紛れもなく精霊の姿を模したものだった。 少年の呟きに続きもう一つ、安堵の声が上がる。 「これでやっと、休憩できそうね……」 ため息混じりの声が虚空に響く。少年のものとは違うもう一つの声は、ここまで一緒にやって来た少女のものだった。 身の丈ほどの厚いコートに、見るからに大きすぎる手袋。風よけのために付けられた深い外套の下にはマスクまでしている。寒さを耐えぬくためか、少年と比べものにならないほどの防寒具に身を包み隠していた。 声さえ出さなければ誰もが少女であることに気づかない。それほどに、服を着込んだ少女の姿は異様なものがあった。 「本当、やっと一息つけそうだよ」 石柱の間を抜け、音を立てながら歩く。少女ほどには厚着ではないにしろ、やはり防寒のため幾重にも服を重ねた少年は言う。 「――でも、リンナの場合は『寒さからの開放』というより、その『重すぎる防寒具からの開放』だろうけど」 すぐ後ろをついて歩く少女、リンナへ告げる。「服が重い」という理由で荷物を投げ出し、挙句に全ての荷物を押し付けるという横暴な仕打ちに対してのささやかな仕返しだ。 リンナは少年の一切の言葉を無視して口を閉ざしていたが、石柱を超えてしばらく歩いている内に気づいたように問いかけてきた。 「あれ、何か暖かくない……?」 ついさっきまでしていた薄氷の割れる音がしない。それどころか、風もどこか優しい温もりを帯びていた。とっくに気づいているものだと思っていた少年はマスクを外し、フードを持ち上げながらリンナへ向き直る。 「この地域は今、精霊によって守られているんだよ」 霞んだ茶色の髪に付いた雪氷を叩き落としながら、背負わされていた鞄の一つをリンナへ渡す。 「さっきの柱に刻まれていた紋様。あの先には大体、人がいる。それは精霊がそういう環境を整えてくれているからなんだ」 周囲に目を向けると、石柱以前にはなかった草が生い茂っていた。虫や鳥の鳴き声が聞こえ、少し前と打って変わりそこにはたくさんの気配が溢れていた。 突然の温度差のせいか、リンナはコートを脱ぎ捨てる。 「それにしても……暑すぎ。精霊が環境を整えてるっていうのはいいけど、これじゃ……」 「しょうがないよ。あの紋様を見る限り、環境を整えてるのはサラマンダーみたいだから暖かいのは当然。けど、暑いっていうのはそもそも厚着しすぎなのが悪いってことを自覚しなよ?」 少年の言葉に口ごもる。何かを言い返そうと小さくを口を開いたところで、諦めたように眉間にしわを寄せた。 「とりあえず、宿でも見つけて休みたいんだけど……」 ぐったりと腰を曲げ、恨めしそうに少年に視線を突き刺す。それを無視し、着込んでいた防寒具を脱ぐ。鞄の中に仕舞っていた薄い上着を引きずりだし、それとは別に着ていたコートを詰め込む。 鞄の口を閉め、脱ぎ捨てられたリンナのコートを拾った。 「どれだけ着てるの……? 服に手こずってる人とか、初めて見たよ」 手に重ねに重ねた手袋のせいか、コートのボタンを上手く外せないらしい。しばらく見ていようかとも思ったが、らちがあかない様子に少年は手を貸すことにする。手首に巻かれた手袋を固定する紐をほどき、指を自由にしてやる。 「あぁ、もう! もう少しでボタンが外せたのに邪魔をされるとは……」 「分かったから早くしてよ……。そろそろ、先に行くよ?」 それだけを告げてそっぽを向くと、それ以上は何も言うことなく歩き始める。その様子を目にしたリンナに非難の声をぶつけられるが、気にすることなく先を急ぐ。街までは一本道となっている。さすがの彼女でも迷うことはないだろう。 ――そう、少年は思っていた。だが、少年が自らの過ちに気づいたとき、背後にリンナの姿は無かった。 浮き立つ霧の中、白く揺らめく光が湖の上で戯れるように漂っていた。辺り一面に立ち昇る小さな球状の光を前にリンナは自らの目を疑った。先を歩いていたはずの少年を追うつもりだったがこの光に気を取られて歩いていく内、霧に隠れた大きな湖の前に出てしまっていた。 もときた道へ戻ろうかと振り返るが、そこには霧で先の見えない獣道が一本あるだけで、そこを通って引き返すことを考えるとどうも気味が悪く身動きが取れなくなってしまった。 コートを片付けてからすぐ、素直に少年に付いて行けばよかったと後悔する。こんな薄気味悪い場所に人が歩いているはずもなくリンナは一人、途方に暮れていた。ただ、小さな光の群集のおかげで周囲は明るくその点では安心できる。 だが、やはり何もかもが不気味であることに変わりはない。 背筋を駆ける寒気に身を丸めながら、恐る恐る湖のほとりを歩く。振り返ればそこに何かがいる。そんな気さえしてくるそこでリンナは自らの足が震えていることに気が付いた。 「うわぁ。もう、寄り道するんじゃなかったぁ……」 今にも泣き出しそうな声が静まり返った空間に反響する。今頃は街に着いているであろう少年のことを思い出すたび声に出して嘆きたくなるが、小さく漏らしたはずの声が木霊する様子に思わず息を飲んでしまう。 ついには歩く気すら無くなり、その場でしゃがみ込んでしまったリンナは小さく身を丸めてぼんやりと目前に広がる湖のほとりを見渡した。 ――すると、そこに一つの人影が見えた。 突然視界に飛び込んできた影の動きに戸惑うが、自分の助けになるのではないかとリンナはゆっくりと立ち上がってその影の方向へ一歩、足を動かした。すぐそこ、とは言えずとも歩けば知れている距離で影がゆっくりと揺れる。 その姿は霧に隠れていることもありはっきりと把握することは出来ないが、映るシルエットから女性のものであるように思えた。風にたなびいているような部分は恐らく、スカートだろう。身長もそれほど高いものではない上、背中の中央辺りまで伸ばされた髪は女性を連想するのに十分な要素といえた。 影は湖の横に出来た小さな丘の上で立ち尽くしたまま一定の方向を眺めていたが、リンナが近づいていく内にこちらへと顔を向けていた。 「……誰?」 そこには、一人の少女が立っていた。やはり遠くから見たときに揺れていたのはスカートで、髪も背中の真ん中くらいに伸ばされていた。全体的に白を中心とした服を着用している。 「あ、えっと……」 「……あら、可愛い妖精さんね」 リンナが戸惑っている内に少女は両手を合わせて微笑みかけてきた。そっと手を伸ばし、リンナを手招きする。 「こんな所に一人で来るなんて……私に用でもあるのかな?」 同じ丘へリンナを招いた少女は問いかける。当然、ただ迷いこんでしまっただけのリンナが少女に用があるはずは無いが、あまりに友好的な接し方に驚き、返事ができずにいた。そして―― 「んー。私の声が気になるのかな?」 いたずらに笑顔を見せる少女が気になっていたことを口にした。その少女の言葉通り、彼女の声は普通ではなかった。何か変わった声の出し方をしているわけではないが、その声はどこかにぶつかり返ってくることなく耳に届くのだ。 今もリンナが口を開くと、そのたびに声の反響する音がするのに対して、少女にはそれが無かった。 「私にも分からないんだけどね。どうしてかはっきりと人に言葉を伝えられる体質みたいで……」 苦笑を浮かべながらもどこか嬉しそうな少女に今度はリンナが質問をする。 「凄く素敵な声でいいと思います! ――それで、関係ないんですけどここから街にはどうやったら行けますか……?」 いち早く少年と合流しなければ、また怒られてしまう。普段はわがまま放題のリンナだったが、やはり怒られるのは嫌なため、街へ向かう方法を少女に尋ねた。 「街へ? そう。それなら、宿の場所も教えてあげようかな。……ただ、もう少ししたらね?」 再び、いたずらっ子のような笑顔を見せた少女は言う。 「ねぇ、私の歌を聴いてくれない……?」 * * * 「――で。どこで、何をやってたの?」 ベッドに腰を下ろした少年は、すぐ前に正座したリンナへ向かって問う。当の本人は合流するも何やらワケの分からないことを繰り返すしで怒りは臨界点にまで達していた。 「いや、だから……その、凄かったの」 「そんなことはどうだっていい。どうして、街まで一本道なのに迷うのかを聞いてるんだ。そもそも、一本道で『凄かった』ってどんな大冒険してきたの? あーぁ。何も無い道一つで冒険ができるなんて、ある意味リンナが羨ましいよ――で、言うことは?」 「……スミマセンでした」 宿に着いてからしばらく待ってもやってこないリンナを待つため、ずっと外で立ち呆けていたというのにやっとのことで姿を現したリンナはというと少年の心配を他所にとても楽しげな表情を浮かべていた。楽しそうなのは結構だが、人の心配を無視したその行動に少年は怒りを隠せずにいた。 「うぅ……もう、本当にゴメンなさい……」 今までにないほど怒ったせいか、いつもより大人しくなっているリンナを見下ろし、少年は小さくため息を吐いた。 「いいよ、いつまで言っててもしょうがないし。……ただ、次は無いから。それだけは覚えておくといい」 そう残すと少年は立ち上がり、幾分か重たくなってしまった空気を遠ざけるように部屋を後にした。 少し言い過ぎたところがあったと思えないこともないが、リンナにはあれくらいがちょうど良いだろうと自分に言い聞かせて歩く。宿の二階に借りた部屋から一階に設けられた休憩場へ降りるとそこで一人の男に声をかけられた。 「おう、昨日探していた女の子が見つかったんだってな」 それは、リンナを待っている内に話をするようになった人物だった。男性にしては少し露出度の高い衣装に身を包み、煌く装飾品の数々を耳や指、首からぶら下げている。あまり信用が出来るような顔はしていないが、休憩所での噂を聞いていると、面倒見がよくしっかり者だいうことで彼を慕う人は多いらしい。 「はい、お陰さまで。……少し説教をしたらしょぼくれてしまいましたけど、これで一安心です」 休憩所の管理も任されているというこの男は、少年がリンナを待っている間ずっと話し相手になったり、飲み物を入れてくれたりと中々親切で印象はよかった。 「それで、しょぼくれた顔を見て部屋にいづらくなったか。素直じゃないなぁ、小さな旅人さんは!」 下品ともとれる大胆な笑いをまき散らす男に、少年は眉を吊り上げる。 「昨日も言ったでしょう。小さな旅人さんなんて言い方はやめて下さい」 ずっと、話し相手をしてくれていた内にも話してはいたが、どうも名前を覚えるのが苦手らしい男は『小さな旅人さん』と一括りにして呼んでくる。少年は、男が次に出す言葉を予想しつつ口を開いた。 「えっと、なんて言ったか――」 「ノインです」 あぁ、それそれ。と軽く手を降る男に若干の怒りを感じるが、昨晩の会話からもこういう人物であると理解していたノインはこれ以上何も言おうとはしなかった。 「まぁ、いづらくなったっていうのはその通りなので、少し散歩でもして来ようかと思います。それじゃ……」 いつ頃になって帰って来ればいいかと考えながら、ノインは街へ出た。 宿の外へ出ると、石造りの街に並べられたたくさんの街灯が目に入った。緋色の光を放つそれらは街全体を明るく照らし、太陽が無いということを忘れさせるほどにくっきりとモノを映す。ただ、街灯より上に位置する部分は完全な闇に色付く。光によって上下で分けられている街の様子を眺めていると、自分の体が底の見えない池の中に収まっているような、そんな気にさせられる。 不思議な感覚に頭上を見上げたまま立ち尽くしてしまう。街灯の明かりに慣れてしまった目では空に浮かぶ星は見えないが、そこには星よりもずっと大きな月が浮かんでいた。真っ青に空を照らす月は街の中を覗き込む。 石を敷き詰めて整備された道の上にはたくさんの人が溢れていた。談笑しながら歩く親子の姿も見え、道端で声を張り上げる商人の姿も見える。 「はぁ。これからどうしようかな……」 いつも隣で騒ぎ立てている少女の姿を思い出す。どこか引っかかるその気持ちに違和感を覚える。寂しい、というわけではないが――何だか物足りない。閉じていた唇が自然と離れ、無意識の内にため息が漏れる。気付けば、空を見上げていた視線も足元にまで落ちてきている。 一際大きく作られた人道を俯いたまま歩き、横切る。そうやって人混みの中を抜けようとしたとき、野太い男の声が叫ぶ。 「おぉっと、まだ行くか! まだ行けるのかッ!?」 すぐ近くで上がった歓声に思わず吃驚してしまう。何事かと周囲を見渡していると、すぐそこ――横切ろうとしていた人混みの中に見覚えのある頭が見えた。 肩ほどで小さく結ばれた金髪に、いつか立ち寄った街で買わされた洋服。思わぬところで少女の姿を目の当たりにしたノインは、両目を見開き硬直してしまった。 多くの歓声を聞きつけた人々が次から次に集まってくる。盛り上がりを見せるステージの中、野太い声が再び叫びを上げた。 「これで何杯目だ!? この小柄な身体にどれだけ詰め込むつもりなのか――!!」 一見、格闘家のようなその男は、何故かエプロンを腰に巻き付けていた。目にも止まらない速さで包丁を振り下ろし、まな板の上で踊る食材を次から次に鍋の中へ放り込む。先に煮え込まれていた食材をすかさず掬い上げると、皿に盛りつけていく。多少見栄えの悪いスープはすぐさま待ち受けていた店員が参加者の待つテーブルへ運んでいく。 ――いわゆる、そこでは『大食い大会』たるものが開催されているようだった。だが、そこにリンナが参加している意味が分からない。他の参加者と比べても小ぶりなリンナの食いっぷりに調理人、観客ともに驚きを隠せない様子だ。しかし、そこで皿に向けられていた視線をリンナは持ち上げる。目の前には呆けた顔で立ち尽くすノインの姿。リンナは時が止まったように固まると、次の瞬間には―― 「――ぐばぁは!?」 豪快に、口の中に流し込んでいたスープを吹き出していた。その様子を目の当たりにした観客が一斉に距離を開ける。調理人も驚きのためか、手が止まっていた。そのとき会場の間を吹き抜けて行った風がどこか冷たいような気がした。 圧倒的な数を重ねていたリンナが突然咳き込み始めたことに注目する観客たち。手を止めたままの調理人もそれは同じ様子だ。ずっと先頭を走っていた参加者が突然立ち止まったことで、今後の勝負が分からなくなったのだろう。だが、当の本人はそれどころではないようで、泣き伏しそうなほどに赤面していた。 公衆の面前でスープを吹き出したともなればその心境は分からなくもない。 観客たちもざわつき始める。どうやら、ちょっとした賭け事をしていたようで、予想外のアクシデントに状況を楽しむ人まで出てきていた。休憩所を管理している男にしても、ここの調理人にしても祭り好きな人が多いようだ。 やっぱり、変わった街だなぁ……と脳天気な考えに浸っていると、赤面していたリンナがテーブルを叩き立ち上がった。観客はもちろんのこと、調理人、参加者までもがその行動に顔を上げる。 「き……棄権します……」 ノインを睨みながら告げられたその言葉に、会場は騒然とする。幸い、誰一人としてリンナの視線に気付かなかったが、棄権をしたリンナを連れ出すためか、店員が駆け寄り店の中へ連れていった。その中で、リンナはノインを招くような仕草をして屋内へ消えた。一瞬の行動だったこともあり、呼ばれていたのかどうか分からなかったが、とりあえず迎えに行ってやることにする。 店のドアに手を掛けようとしたところで、ガラス張りの向こうにリンナの姿が見える。ノインは迷うことなく、そのまま扉を押した。 「――では、代金はこれになります」 店に入ったところでそんな声が聞こえた。一瞬、見間違えかとも思ったが、リンナに手渡されていたものは請求書だった。困ったようにリンナは笑顔を浮かべる。 「あ、あはは……ゴメンッ! お金、貸してくれない……?」 手を合わせ、頭を下げる。店員までもが困った表情をしたままノインを見つめる。今日はため息の多い日だと思いながらもリンナの手に挟まれた請求書を引っ張る。 「……へ、へぇ。こんなに」 そこに刻まれた数字を前に唖然とする。大食い大会の敗者は高額を飲食費として支払うことになっていたようだ。それでは、棄権してしまった限り支払わなければならない。そもそも棄権の切っ掛けとなったのは自分と目があってしまったのも原因であるように思えたノインは、請求の一部を支払ってやることにした。 「それじゃ、半分だけ出すよ。リンナ、どれだけ持ってきてるの?」 すると、問い掛けられるなり渋い顔をする。嫌な予感がし、もう一言だけ尋ねることにした。 「……全然持ってない?」 「うん、全然……」 まったく、困ったものだとため息を吐くことしかできなかった。どうしたものかと頭に手を当てていると、ステージへ続く扉から人影が飛び出してきた。一瞬、本当の『影』かと思えるほどに黒い。サラマンダーに守られた暖かい街にはそぐわない厚着のコートに手袋、ブーツを着用した青年が服と同色の髪を揺らしながらやって来た。 「俺も棄権したよ。ナンバーワンがいないなんて何も面白くない。それで、店員さん。お代はいくら?」 笑顔で問いかける青年に、リンナと同じ請求金額を記した紙を手渡す。青年は驚いた表情を見せながらも、ポケットに詰め込んでいた金貨を漁るとテーブルの上に並べた。 「これで足りるかな?」 並び立てられた金貨の数を見れば、数えるまでもなく足りている。それを目にしたノインは思わず、青年のポケットと自分の財布を見比べてしまう。それはリンナも同じようで、ただただ金貨を凝視していた。 「えっとー……どうしたんだ?」 その様子に気づいた青年が冷や汗を流しながら苦笑を浮かべる。青年は、ノインの前に置かれた硬貨を確認すると、余った自らの金貨を数枚手に取った。 「何だ、足りないのか。ほら、良いものも見してもらったし、やるよ」 そう言うとリンナの手に金貨を数枚乗せた。何かしたか、と不思議そうな顔をするリンナに青年は続ける。 「あんな吹き方はそうそう出来ないぞ? いま思い出しても最高だ」 ぷぷっと笑いを堪らえ、おどけるような仕草で手を叩く。馬鹿にされたリンナは恥ずかしさに赤面し、それを思い出させた青年に怒りの視線をおくっている。 「じゃぁな。俺は用事があるから〜」 金貨を握り潰しそうな程に拳を作ったリンナがその手を振り上げたところで、青年は疾風がごとく店を後にした。ノインは状況が把握できず、思わず首を傾げてしまう。 「え……。どうしよう」 リンナの握りしめた金貨を眺めながら呟く。すると、ノインを一瞥した彼女は金貨をテーブルに叩き付けた。店員はそれを確認すると、すぐに領収書を手渡す。 「一応この場は助かった……かな?」 ノインの呟きに不機嫌そうに唸っていたリンナは「そうですねぇ」とだけ返事を返した。店を出ると、未だステージの上では熱戦が繰り広げられていた。中には、トップを走っていたリンナとそれを追っていた青年が棄権をしたことで盛り下がってしまっている人もいるようだが、それでも熱い歓声が途切れることはない。 その様子を目にしたリンナのぼやきが観客たちの声に紛れて聞こえてくる。 「あーぁ、あんなとこにノインがいなかったら今頃……」 今頃は優勝していた、のだろうか。彼はリンナの言葉に呆れながら、周囲を見回す。そこには、金貨を置いて行った青年の姿はなかった。本当に急ぎの用事でもあったのかとも思ったが、そうすぐに離れられるはずもない。 「さっきの人を探そう。何のお礼も言えてない」 だが、リンナはその言葉に異論を唱える。 「何がお礼? あんな失礼なやつにお礼なんて……」 礼儀もないのかと思うとため息が出る。だが、これ以上リンナの相手をしていては本当に青年がどこかへ行ってしまう。説教は宿に戻ってからまたしてやろう。そんなことを考えながら、適当な道を選んで進む。すると、しばらく歩いたところで突然、リンナの手が袖を引っ張った。 「……何。また人混み?」 彼女に引っ張られて振り返った先には、人混みが出来ていた。ついさっき開催されていた大食い大会ほど騒がしくは無いにしても、どこかざわついている。再び厄介ごとに巻き込まれるのも勘弁してもらいたいところだったノインは黙って道から離れようとする。だが、下がるノインとは反対に、握っていた袖から手を離したリンナは人混みの中へ飛び込んでいった。 声をかける隙を与えない辺りはさすがだが、これでまた巻き込まれるのはゴメンだ。そのまま青年を探しに行こうかと足を持ち上げる。 「ちょ、ちょっとノイン!」 しかし、遅い。一歩進む前に声をかけられて立ち止まる。またか、と顔をしかめていると人混みの中からリンナが顔を出す。 「もう、何。次はなに? トラブルメーカーも大概にしてよ……」 「それどころじゃないんだってば!」 苛立に目を瞑るノインの手を握ったリンナは彼を引きずるようにして人混みの中へ乱入した。舌打ちを買いながら、人混みの中央にまで連れてこられたノインが顔を上げると、そこには一人の少女が喉に手を当て、立ち尽くしていた。 一体なにごとなのかと少女を見てみるが、確かに様子がおかしい。口を動かしているが、言葉を発しない。声が出ないことに違和感があるのか、妙に気持ち悪そうな顔をしている。 「あの、湖で話した私の連れってこれのことなの。えっと……何があったの? ノインは割と物知りだから何とか……」 連れはお前の方だ、と思いつつそこは黙っておく。他にも引っ掛かりはあるが、それは無視しておくことにする。 湖での話は宿で説教をしたときに聞いているし、きっとこの少女がリンナの言う『凄い人』なのだろうと察した。どうしたのか。何があったのかと問い掛けを繰り返し、聞き出そうとするリンナの肩を掴んで少女から引き剥がす。何をするのかと怒りの視線を向けられるが、それでも彼はリンナの行動を止めた。 「相手は話せないみたいだから。リンナも分かってるんだろう? 大変だーって、僕を引きずってきたんだから」 こちらが口で質問しても無駄だ、と言い聞かせる。そうすると、リンナもすぐに大人しくなった。だが、何も変わっていない。少女は今も声を出そうとしたままだ。 「ねぇ、どうにかならないの?」 「……無理だよ。何が原因かも分からないのに、僕に何をしろって? それに、リンナよりは物知りだけど、僕も一般人だよ。医者に見せた方が早いと思うけど」 声が出ないというのは、声帯が傷ついたりすればそうなると聞いたことがある。そうであるなら医者に見せるのが最も早いとノインは自負した。 「今はいても邪魔になるだけだよ、リンナ。行こう」 これ以上いてもまた何かに巻き込まれるだけだと思うと、一刻も早く離れたかった。リンナが少女を心配する様を見ていると、彼自身も心配にはなる。しかし、今は―― 「行こう」 もう一度、少しだけ強く言い放つとノインは彼女の肩を叩く。リンナもすぐにその背を追って走ってくるが、やはり少女のことが心配なようで何度も振り向いては戻ろうかどうかと悩んでいた。 ざわついていた人々も解散を始めており、その中に紛れて二人は宿へ向かう。人通りが少し減ったように思える人道を歩いていると、リンナが再び袖を引いた。今度はさっきよりも強めに引かれ、思わずバランスを崩して倒れそうになる。 「もう、さっきからなに!?」 リンナに引っ張られ、人混みの中に入っていたせいで時間が経っている。探していた青年はすでに離れた場所へ行っていることだろう。そろそろ出歩くのも終わりにして休みたい。結局、リンナが宿に着くのを待ち、説教をしてから散歩を始めてと、あまり休めてもいない。それはリンナも同じはずだが、そんなことを気にする様子もなくちょうど、街の裂け目に続く獣道を指さして口を開いた。 「向こうに、用事があるんだけど……付き合ってくれない?」 何が、『用事』なのか。疲れた表情を浮かべ、何度目かも知れないため息を吐く。 「もう、今日はダメ。人を振り回すのも大概にしてくれないと……」 ノインがそう言うと、黙り込んだリンナは一人草の茂った獣道へ踏み込んだ。 「なら、一人で行ってくるからノインは先に戻ってて」 それだけを告げると先を歩いていく。人の数も減り始める時間、彼女を一人で行かせるわけにもいかずにノインはその背を追って獣道へと進んだ。きっとすぐには戻れないだろうなぁと内心思いながら、少しだけ付き合ってやることにする。どちらにせよ、止めても聞かないのだろう。結局は割り切るしか無い。ある程度リンナの気が済んだところで引き返し、ゆっくりと休もうと思った。 しばらく行くと、どこか肌寒い風が流れ始める。湿気も多いようで、肌がベタついてくる。よく雨が降るのか、街へ入るのに通った道とは似ても似つかない程に草木が多い。しっかりとした幹の上に生い茂る青い葉が月光を隠す中、つるの巻きついた樹木も多く見て取れた。水の中にいるような感覚から一変して、森の中に迷い込んだような気分になる。 先を歩くリンナは一度通った道だということもあって、軽い足取りで進んでいく。ノインは何も言わず付いていくが、突然なにも無い平らな場所へと出た。 「……リンナが言ってた場所って、ここ?」 森から抜けた場所。高台のようになっているそこで立ち止まっているリンナに尋ねる。目の前に広がる視界いっぱいの湖の前で彼女は、特に言葉を口にすること無い。少し待つと、おもむろに頷きノインのいる方向へと向き直った。 「ちょっと来て」 一歩踏み込んできたリンナに再び腕を掴まれる。高台の下へ引っ張られていった先には地面をそのまま削って作ったような坂道があり、そこを下り降りるとぬかるんだ地面が広がっていた。湖の水がすぐ近くまで迫っており、ときどき、水が地面に触れて特有の音を響かせてる。 「こっち」 リンナはそう言うと、もうしばらくで沈んでしまいそうな地面を歩いていき、ついさっき自分たちがいた高台の下で立ち止まった。厳しい表情を浮かべ、何やら壁を睨み見るリンナへ近づく。近づいたところで、ノインは驚きに声を上げる。 「へぇー……。下にこんなのがあったんだ……」 すぐそこに広がった空洞を前に立ち尽くす。大人が一人入るのに丁度いい大きさの穴が高台の下に掘られていた。穴への入り口がある両脇には木の杭が打ち付けられており、歩いてきたぬかるんだ道と比べると穴の中の地面は少し固い。人の手によって掘られたであろう穴へ一歩踏み込みリンナを振り返る。 「それで、ここがどうかしたの? まさか宝物を探せ――とか言うわけ無いでしょ?」 普通は無いが、彼女ならありうる。冗談半分ではあるが、割と真面目に聞いてみる。リンナは真剣な表情のまま、口を開いた。 「ここにはね、精霊がいるんだって」 その一言で、ノインは連れてこられた意味を理解した。ノインは精霊や妖精について詳しい。そのことを知っているリンナはまずはノインに相談しようという決断に至ったのだろう。 「さっきの子……その精霊と何か関わりでもあるの?」 「分からない」 「わ、分からないって……」 リンナに即答され、口篭ってしまう。彼女はその精霊が彼女の声を奪ったとでも思っているのだろう。精霊が人の声を奪うなんていう話は聞いたことも無いが、それを確信するほどの理由でもあるのだろう。しかしそこにいる精霊とは何なのか――そちらも気になる。洞窟の中を少し進み、詮索してみることにする。 鞄の中に仕舞い込んでいた蝋燭に火を灯す。足元は整備されているものの壁や頭上は普通の洞窟と変わりないようで、外の地面以上にぬかるんでいた。手で触れればそのまま手形が付いてしまいそうだ。だが、それも次第に無くなり奥へ進めば進むほど足元以外の床、天井もしっかりとした作りとなってくる。 レンガを用いて整備された壁には、街へ入る前の石柱で見かけたサラマンダーと似た紋様が刻まれていた。雰囲気は似ているが、描いているものは全くの別であることが分かる。どこか女性的な図に見覚えはあるものの、女性の絵というのは抽象的過ぎた。彼がなんの精霊を示しているのかと首を捻っていると、すぐ後ろにまで迫っていたリンナに肩を叩かれる。 「ねぇ、あれ見て」 指さされた方向へ蝋燭の火を向けると、そこには一体の石像が置かれていた。壁に刻まれた紋様と似た女性の石像の周囲には、水のようなものまでが造られていた。 「きっとこれは……ウンディーネじゃないかな。例外もありえそうだけど、湖にこれは……」 他に検討がつかない。しかし、サラマンダーの守る街の片隅にウンディーネが住んでいるとは思っていなかったノインは驚く。そもそも、サラマンダーとウンディーネはそれほど仲の良い精霊では無いと記憶していた。 「やっぱり、これだよ。このウンディーネがあの子の声を……」 しかし、もっとも疑問に感じるのはこの二つの精霊が近くにいるということではない。何より気になるのは―― 「リンナ。どうしてあの子のことをそこまで気にしてるの?」 そこだ。この街へ辿り着いたのがつい先日の話。そして、彼女が迷子になり、少女と出会ったのもつい最近の出来事だ。それなのに、どうしてそこまで心配し、怒っているのか。道案内をしてくれたということだが、それにしても気にし過ぎな気がする。 ノインの質問に彼女は眉をひそめた。 「だから、言ったでしょ? 凄かったんだってば!」 宿で合流したときにも聞いた言葉を思い出す。とにかく、「凄かった」と繰り返すリンナはどこか楽しそうであったが、それ以上に怒っていたノインは話を聞くこともなく説教した。少し言い過ぎたであろうあのときの様子を思い出し、再び反省する。 「す、凄かった……ね。えっと、何が凄かったの」 初めに聞いてやらなくてゴメン、と内心で思いつつ尋ねる。反省の色を浮かべる彼を見て満足したのか、リンナは無い胸を張った。 「だからね、歌だよ!」 「歌?」 「そう、歌!」と、湖での出来事を思い出してか興奮気味の彼女は鼻息を荒くする。そういえば、少女が何か歌ってくれたのだと言っていたような気がしないこともない。ノインは、少しだけ話を思い出しながら彼女の話に耳を傾けた。 「何かね、変なの。私とかが話してると声が反響するのに、あの人の声はそれが無くて……凄く綺麗で……!」 ここまで聞いてやっと、『凄く透き通った声をしている少女と出会った』と、そんなことを自慢げに話された気がしてきた。 「えっと……。ようは、あの子の歌声を気に入ったってこと……?」 「うん」 そして理解した。少女の声が出なくなっていた場面で、リンナの脳内では「あんなに綺麗な声が急に出なくなるわけがない!」という結論に至っていたということが。これでは、精霊もなにも関係がない。ただ単に人のせいにしたかったリンナが暴走しただけではないのか。 急にどうでもよくなったノインは、入り口側に立っているリンナを押す。 「ほら、もういいよ。そういうこと……そういうことね。あぁもう、帰ろう……」 無理やり入り口にまでリンナを押し、外へ出ると下ってきた坂道を登り高台の上へ戻る。ぬかるんだ地面の上を歩かされたおかげで靴には泥が付いている。まったく、無駄なことで靴を汚してしまうなんて最悪だと頭痛を覚える。 「ちょ、ちょっと待ってよ! 絶対だよ、絶対ウンディーネが――!!」 リンナが彼を引きとめようと必死に言葉を吐いてくるのを無視しつつ、どうにか引き返そうとリンナの腕を握る。 「もう分かったよ。ウンディーネの仕業ね。うん、終わり」 パンッと手を叩くと、そのまま締めくくる。それでも文句を言いたげなリンナを睨みつけて黙らせると、ノインは樹木の並ぶ獣道へ踏み込んでいった。 ――ただ、一瞬だけ聞こえた歌の音のことを黙って。 * * * やっとの思いで宿へ戻ることの出来たノインは迷うこと無く、ベッドへ向かった。布団に身体を埋めたものの、どうにも寝付けず右へ左へ寝返りを繰り返す。足の痛みも去ることながら、リンナに付き合わされて入った洞窟の紋様が気になる。 ――ウンディーネ。彼ら精霊が人のモノを奪う。そんな話はそう聞かない。だが、奪えないという話も聞かない。もしかしたらと考えることの出来る状況であるようにも思えてしまう。半ばリンナを馬鹿にして引き返してきたが、いざ冷静になると彼女の直感は当たることが多い。リンナ自身には黙っているが、帰る間際に聞こえた歌のことも気になった。 「んー……」 天井を仰ぎ見て、眉間にしわを作る。割と当たっているかも知れないなんて、考えたくはないがそれでも疑う余地はあるのかも知れない。だが、あの少女も医者には行っているだろう。そこで何か原因が掴めていれば何の問題もない。 しかし、そうは行かないだろう。 「あぁ、本当……厄介ごとばかり持ち帰って来て……」 ウンディーネは恋愛に対してはかなり情熱的だ。強いて言えば、恋愛するようなことがあれば何をしてもおかしくはない。情熱的、というのも過ぎればただ狂っているようなものだが――それをウンディーネは簡単にやってしまう。リンナの単純過ぎる思考には呆れるが、目を付けた場所は間違えていないのかも知れない。 だが、そこで声を奪うのは――。 考えが続けば続くほど、眠れない。横になったまま思考を巡らせていたノインは気分が悪くなってきたこともあり、一旦外へ出ることにする。隣のベッドで寝ているリンナが起きないように気を配りながらそっと部屋から出て行く。消灯時間を遠に過ぎている宿の廊下は薄暗い。街灯にも似た小さなランプがうっすらと壁や足元を照らす。休憩所は通常通り開放されているようで、一階へ続く階段の下からは普段どおりの明かりが漏れていた。 階段を慎重に降りていった先。休憩所で再びあの男が出迎える。 「よぉ。何だ、眠れないのか?」 一体、この男はいつ睡眠をとっているのだろうと思いながらも、軽く会釈をする。ノインは近場にあった席を引き出し、腰をおろした。 「えぇ、ちょっと気になることがあって……。それにしても、やっぱりこの時間は静かですね」 いつ誰が来ても大丈夫なように、休憩所の扉は常に開け放たれている。外はベッドへ潜り込む以前と全く代わり映えしないが、時計の針は深夜を示しており、それに合わせて人通りも少ない。何かしらの事故が起きることでもなければこの時間帯にはまず、人は訪れないのだろう。男も暇そうに大あくびをしている。 そういえば、この男も街の人間だ。湖の精霊のことを知っているかも知れない。 「今日、すぐ近くにある湖に行ってきました」 それを告げただけで、男の様子が変わった。あくびを途中で止め、興味を持ったのかノインへ向き直る。 「……湖? そこの獣道を抜けたところのか」 「はい」 考えるような仕草をしながらも、「何か聞きたいことでもあるのか?」と尋ねてくる。まさにその通りなのだが、豪快な笑いを見せたり、人前で大あくびをするような男が急に真面目な顔をすると気後れしてしまいそうだ。 男は何かを言おうと一瞬口を開いたが、すぐにその口を閉じた。どうしてか目線はノインを通り過ぎ、その後ろ――二階へ続く階段の方へ向けられていた。誰かいるのか、と察した彼は振り向く。そこには、やけに白の割合が多い服を着た少女が立っていた。背中にまで伸ばされた黒髪には艶があり、寝目覚めなのか、少女はぼんやりと目を泳がせる。 「シェノちゃん? どうしたんだ、こんな時間に」 男が驚きの色を浮かべる中、少女は無言のままに歩み寄ってきた。ノインと男の側まで寄ってきた彼女は、小さくお辞儀をして挨拶の言葉を述べようとした。しかし、声は出ないままだ。そのことに気づいたシェノは自らの口を手で塞ぐ。残念そうな表情のまま、ノインの隣に置かれていた椅子を引き出して座る。 「どうしてここに……?」 街の人間であるなら、宿ではなく自宅にいるはずだ。そんな彼女がどうしてここにいるのか――初めに、それが気になった。だが、その質問にシェノが答えられるはずもなく、それを察した男が代わりに答えようと割って入った。 「シェノちゃんは宿主の娘でな。俺はずっとここの管理をしているから、小さい頃からよく知ってるんだ」 なるほど、とノインは頷く。宿主の娘であるならこの場にいても不思議ではない。シェノを横目で覗き見る。口が聞けないこともあり、俯いたままじっとしている。何かを話すつもりもないのか、ただノインの隣に座っていた。ただ、そこにいるだけ。隅によっているのならまだしも、一人をそのままにして男と会話をするのも気持ち悪い。 「あの、何か紙とかありませんか? 声が出なくても書くことは出来るのではないかと」 ただ俯いたまま、そこから動かないということはきっと何か言いたいことでもあるのだと思ったノインは、男に紙の有無を尋ねた。男は考える素振りをした後、思い出したようにして席を立つ。 「ああ。声が出なくなったと聞いて慌てて用意したのがあるな……。ちょっと、待っててくれ」 そう言い残し、休憩所の端にある倉庫への扉を開いた。倉庫の中に明かりは無いのか、扉の先は真っ暗だ。入口に近い場所の棚だけが休憩所の明かりに照らされて見ることが出来る。ただ、その中におかしなものが見えた。すぐそこで男は屈み込み、用意していたという紙を見ているようだが、あまりに多い。壁を一面を埋めるように設置された棚の上にところ狭しと置かれた紙の山が見えた。 「よし、ちょっと手伝ってくれないか?」 紙の山を一つ持った男は振り返るなりそう言った。すでに持った量だけでも何に使うのかと疑問に思えてしまうレベルだが、男はというと全く気にした様子を見せない。 「……ホント、もう。これだけでいいです」 ノインは、男の持っていた紙束の内数枚を手に取り、そのままテーブルへ引き返した。それだけでいいのか、と男がぼやいていたがそれは無視しておく。シェノの前に紙束を置くと、伏せていた顔を持ち上げた彼女は申し訳なさそうに眉をひそめた。ノインは、彼女へ持っていたペンを手渡して尋ねる。 「話せないけど、これで会話は出来る……かな?」 その問い掛けに、彼女の手が素早く動く。すぐに『はい』とだけ紙に書かれる。倉庫から出てきた男も再び席に着き、シェノの手元に注目する。 「それで、小さな……じゃないな。ノインさん、だったか? ……俺に何か聞こうとしていたんじゃないのか」 まだ一言しか書かれていない紙から目を話すと、ノインに顔を向ける。 「湖には、街とは別の精霊がいるんですか?」 男の眉間に皺が寄る。深く考えるようにして息を吐いた後、首を傾げた。 「あぁ、あそこには別の精霊がいる。だけどなぁ――それを聞いてどうするんだ?」 「特にどうしようというわけではないんです。少し気になっただけなので。でも――」 ノインが言葉を濁すと、男は「はっきり言え」と迫った。言われずとも話すつもりだったノインはためらわず、率直に言った。 「シェノさんの声が出なくなった理由。それを僕の連れ、リンナは精霊の仕業だと譲らなくて。何かの病気だと言っても納得してくれなくて……」 すでに、ノイン自身も精霊がやったことではないのかと疑っていた。男の様子とシェノの様子を交互に確認していると、先に男の方が口を開いた。 「ま、まぁ……。医者には明日行く予定だったから病気かどうかも分からないからな……」 ノインは、男の反応に違和感を覚える。ずっとだが、湖のことはあまり口にしたくないようにも感じる。あっさりと人の出入りを許していたが、街の人間だけが知る話でもあるのだろうか。彼がまた、自らの考えに浸っていると、すぐ隣でペンの動く音がした。 『すみません。今日は夜遅いのでそろそろ私もベッドへ戻ろうかと思います』 湖の話はしたくない――それは彼女も同じようだった。あまり口出しできる立場でもなかったノインはそのまま言葉を失ってしまう。 『紙とペンを用意してくれてありがとうございました。あと、湖の精霊は声に関係ありません』 最後にそれだけを書くと、貸していたペンをノインに押し付けて階段へ向かった。ノインもベッドへ戻ろうかと立ち上がる。 「……何だか怒ってた、かな?」 そう呟いたノインの後ろ、座ったままの男は煙草に火をつける。ずっと大きな声をで話をしていた男は急に静かな、落ち着いた声で言った。 「いや、あれはそんなんじゃない」 シェノの背中を追うように階段を見つめ、心配をするように言った。 「……ほら、あんたもそろそろ寝たらどうだ! また人が騒ぎ出して眠れなくなるぞ?」 ノインの肩を叩きながら男は豪快に笑う。そのまま背中を押し、煙を吹かした男は手を振った。 * * * 「それで、何でまた湖……?」 目頭を擦りながら、リンナは不満げに口を曲げた。少し小ぶりなその姿を見下ろしながら、ノインはその頭に手を置いた。 「いいから。少し気になることがあるんだ」 それもこれも散々、引っ張り回してくれたリンナへのお返しだった。当然、気になることがあるのも事実だが―― 「着いたよ」 前日、リンナに連れてこられた高台に着いたところでノインは止まった。樹木の並ぶ獣道を抜けてすぐの場所。目の前に湖が広がるその場所で彼はリンナに帰りの話をした。それは、岐路に立つ瞬間に聞こえた歌のことだ。遠い、湖の向こうからやってきた透き通った声を思い出しながら、彼女に伝えた。 「な……。何で、今まで黙ってたの?」 そこで当然の反応をされたノインは「話してたらまた帰れなくなってたでしょ?」と切り返す。彼女はその言葉に何かを返すこともできず、黙り込んだ。 この日、ノインはウンディーネを探そうと考えて湖にやってきていた。リンナを引っ張ってきたのもそのためだ。拗ねた様子で下から睨みつけてくる彼女に苦笑しつつ、もう一度洞窟の中を確認しようと坂を下った。 昨日と同じぬかるんだ地面に足を付け、高台の下へ向かおうとしたところでノインは動きを止めた。 「うわ、急に止まらないでよ……」 迷惑そうに愚痴をこぼすリンナの口をノインは塞ぐ。 「黙って。誰か、いる」 彼の注意にリンナは黙り込む。ぬかるんだ地面の上には、先に誰かが歩いていった跡があった。向かおうとしていた洞窟からは少女の声がする。それを聞いたリンナが「あっ」と声を上げた。 「この声、あの子のだ……。え、でも何で……」 リンナが疑問を浮かべたところで、洞窟の中からシェノの声が響いてきた。リンナに言葉を返すのを止め、少女の声に集中する。 「また来たの……? 来ても無駄だって言ったのに」 随分と落ち着いた、まるで少女というよりも女性に近い。それは、リンナから聞いていた話のそれとはまるで違った。ノインが会ったときのような丁寧さも無く、どこか刺のある口調で誰かに向かって少女は続けた。まるで怒っているような――そんな、感情を込めた低い声が再び、洞窟の奥から歩き出た。 「だから、帰って? あの人が来る前に。私とあの人の邪魔をしないで」 シェノの声は拒絶する。洞窟の外から声だけを聞いている二人には分からない誰かは、それでも引かずその場に留まっていた。いがみ合いでもするように少女の声が沈黙する。 リンナが一歩踏み出し、限界まで近寄ったそこで中の様子を覗うと、そこには二つの影が見えた。一つは白い外套を羽織っており、ランプを片手に屈み込んでいた。もう一方は影だけが壁に写り込んでいる状態で、その姿は確認できない。 「何か、独り言みたいに言ってるだけでよく分からないなぁ……。もう一人も影しか見えないし……」 そう言われてノインも洞窟の中を覗き見る。緊迫した空気の中に立つ二つの影が見えたが、そのどちらが話しているのかは分からない。一人は背を向けたまま立っている、外套を纏った人物。もう一人は洞窟の奥で、影だけが揺れていた。 しばらく沈黙は続き、何の変化も無いままに時は流れて行く。リンナが観察を続ける中でノインは昨日、リンナが言っていた言葉を思い出していた。 ――――精霊、ウンディーネが彼女の声を奪った。 そう、リンナは言っていた。どう考えたらそうなるのかと言われたときには首を傾げていたが、あながち間違いでも無いようだ。少なくとも、関係はしているだろう。彼がすっかり考えに浸っている間にも観察を続けていたリンナが、突然振り返るなり耳打ちをしてくる。 「……ねぇ、奥の影って変じゃない?」 あぁ、とノインは声を上げる。 「あれがウンディーネだよ」 始めはランプの火が揺れているのかと思った。だが、見ている内にそうでないことがはっきりとしてくる。揺れているのは彼女が纏っている湖の水だ。ランプの明かりは水を通して、壁に映り込む。そこではただ火が揺れているのとは明らかに違う不規則で、不安定な動きがあった。 「やっぱり、精霊が……」 隠れて様子を見ていたリンナは立ち上がる。シェノが声を失った原因が精霊にあると確信している彼女のことだ。考え無しに怒鳴りこみをしても不思議ではない。ノインは咄嗟に彼女の腕を掴むと、その動きを止めた。 「行ってどうするつもり? いいから今は動かないで……」 とにかく落ち着かせようと彼女の肩を抱く。身動きを取れなくなったリンナは小さな呻き声を上げるが、それでも彼は力を抜くことはしなかった。仮にも、ここで彼女が話に割って入るようなことをすれば余計に場が混乱してしまう。 「いいから、もう少し話を聞いてから動いたらいいから今は動かないで」 彼女を落ち着かせようとノインは必死に話しかける。納得のいかない様子で頬を膨らますリンナは、気恥しそうに視線を逸らした後に頷いた。それを確認したノインは、肩に回していた腕をどける。 「もう、様子見してたらいいんでしょ……」 そう言って再び洞窟に寄ったリンナは中の様子を覗う。ノインも、騒ぎを起こさないのならいいと彼女の背中を見ていた。が、自分の後ろには一切気を使っていなかった。 「――盗み聞きは良い趣味とは言えないな」 知らない内に歩み寄っていた声が頭上より落ちてくる。ノインの振り返ったそこ、一人の青年が立っていた。コートに手袋、靴まで全てが黒で統一されている。細身の身体を揺らし、青年はその顔に笑みを刻んだ。 「初めまして……でもないな、少年。ちょっとこの先に用があるんだ。どいてくれないか?」 「えっと、あなたは……」 「また会ったな、少年。そういや、自己紹介を忘れてた。おれはミティス」 大食い大会で、リンナの次によく食べていた人だ。支払いに困っていた二人に金貨を手渡し、助けてくれた。――だが、どうして彼がここにいるのか。 「僕はノインと言います。一応、あの後にはお礼を言おうと思って探していたんですけど……」 様子がおかしい。そう思いながら、それでもノインは彼に言葉を放った。「そうかぁ」と申し訳なさそうに口を曲げるミティスに尋ねる。 「それで、どうしてこんなところへ?」 街の人間でさえも離したがらない場所へどうしてやってくるのか。少女にしても、この青年にしてもそれは同じだった。しかし、そんな疑問もすぐに吹き飛ぶ。 「そりゃ、ここにウンディーネがいるからだよ」 ミンティスの素直な答えに思わず、言葉が出なくなる。ただ、そこにいることが当然だという風に青年は口を開いた。 「あいつは、俺に惚れてる」 そう、彼が囁いたときだった。洞窟の中から、外套を纏った人物が飛び出してくる。何かから逃げようと駆けようとしたところで、追い打ちをかけるようにして、大量の水が穴の向こうから流れ出てきた。間欠泉のように勢いを持った水は鋭く、逃げようとしていた影を飲み込むとそのまま湖の中へと叩き込んだ。 「――ッ! リンナ、大丈夫!?」 水しぶきに目を細めながら、洞窟の中を窺っていた少女の姿を探す。だが、振り返ったそこに少女の姿は無い。 「あぁ、一緒に飛んでいったぞ?」 おどける。どこか楽しそうに手首を振ると、青年は呼んだ。 「おい、ウンディーネ。そんな派手な登場はしなくていい。早く、出てきたらどうだ」 やりすぎ、と笑う。彼が湖を一瞥して手招きをすると、ぬかるんだ足元に迫る水が歪んだ。立ち上がるようにゆっくりと形を成していくそれは、徐々に女性の姿に変わっていく。白の薄い布を身につけ、周囲には水を従える。透明な透き通った肌を撫でる美しい女性が何も無い、湖の中から姿を現した。 「……ウンディーネ?」 「えぇ」 美しい女性の姿をした精霊、――ウンディーネは少女の声で返事をする。ミンティスの傍に近づくと、うっとりとした視線を彼に絡ませながら、頬を朱色に染める。 「今日も、あなたのために歌うわ」 ノインの初めの問い掛けに答えたのは偶然だったのか。ウンディーネはミンティスだけを視界に収め、細い唇を震わせて小さな歌を口ずさむ。小鳥のように繊細で、水のように透き通ったその姿に思わず見とれてしまう。だが、魅入られたようにミンティスだけを目詰めるその瞳の色はどこか異常なものがあった。 会話の途中に現れたウンディーネによって、ノインは蚊帳の外へ追いやられていた。だが、そこでリンナの声が響く。 「ノイン、この人! ――この子、シェノだ!」 一緒に湖へ投げ込まれた人物を抱き抱えたリンナが叫ぶ。彼女は必死に、その身体を抱えようとするが、意識を失っている人間を水中で支えるのは容易なことではない。ウンディーネに寄り添われながらもノインを見据えていたミンティスが、言葉は仕舞い込んだまま、唇だけを動かした。 『――行ってもいいよ?』 舌打ちが自然と出る。馬鹿にした態度に怒りを感じながら、ノインは湖の中へ飛び込んだ。飛び込んだ先、湖の底へはすぐに足がつかなくなる。冷たい水の中、刺すような痛みに歯を食いしばる。それほど離れていない場所で浮いていた二人の場所へ着くと、ノインはシェルの身体を支えた。 疲れが出ている様子のリンナも気にかけるが、何とか泳いているのを見て安心する。ずっと湖の中にいるわけにもいかず、ノインは浅瀬を目指して泳いだ。 「んー。行動力あるなぁ」 やはり、遊んでいる。湖のほとりへ辿りつくと、先回りしていたミンティスはノインを見下ろし、呟いた。楽しげに、関心するような声を上げる。不快に思えてならない。ノインは無意識の内にミンティスを睨んでいた。 その様子を見たウンディーネ不快そうに目を細める。 「そんな目で彼を見ないで」 呟かれたその言葉にははっきりとした怒りが込められていた。ぎゅっと力を込めてミンティスに寄り添ったウンディーネは彼の顔を覗き込むと細い唇を震わせた。 「もう、こんな子たちのことはいいから――行きましょう?」 しかし、彼女の言葉にミンティスは首を振った。寄り添い、腕を絡めるウンディーネを引き剥がし、一歩進む。 「おれは、この少年に用があるんだ」 見下ろした先、ミンティスはノインだけを見て告げる。背後へ追いやられたウンディーネが唇を噛む。仇でも見るようにノインを注視するウンディーネが声を荒らげた。 「どうして、私に会いに来てくれたんじゃないの……?」 「そう。だが、目的が変わった」 彼女の言葉に間を作ることなく、返答する。 「――なぁ、少年。おれと少し話をしようか」 ウンディーネをのけ者とした青年が声を落とす。その声は、どこか真剣でこれまでとは違う。後ろへ下がろうにも、すぐそばでは気を失ったままのシェノが横たわっている。下がるに下がれない。一向に湖から上がってくる気配を見せないリンナのことも心配なこともあり、ノインはその場で静止したまま青年を直視する。 「……何を」 どういうつもりなのか。どう返すべきかと困惑するノインは呟く。だが、そう呟いたところでウンディーネがミンティスの肩を掴んだ。 「どうして? あなたは私を見てくていればいいのに……。何なの? この子……。どうだっていい、私を見て!」 噂には聞いていたが、想像以上だった。恋愛にはかなり情熱的――まさにその通りではあるが、嫉妬までも強いとは驚きだった。もはや彼女に興味が無い様子のミンティスが嫌気のさした表情で呟いた。 「黙れ」 ぴたり、とウンディーネの動きが止まる。 「……何を勘違いしている。お前はおれの何でもない。お前は水で、おれは人だ。たかが水が『私を見て』? ふざけたことを言うな」 その言葉を聞いたウンディーネが震える。 「そ、そんな……嘘……」 「邪魔だ、消えろ」 彼は、知っていたのか。湖の中から現れたように、ウンディーネの手足が、身体が透けて無色透明になっていく。どろどろと形を成していたものが崩れ始め、それは湖へ流れていく。 ――――ウンディーネは『恋』に落ちると魂を得る。だが、その相手に水辺で罵倒されればその魂は消え、それと同時に水へと帰らなければならない。 「どうして? だって、そのための声も私は――」 最後に、水へ帰る瞬間に彼女はそう言った。そのための声――それがシェノの声であることは確認せずともすぐに理解できた。 「……どうして、ウンディーネに声を……いや、それ以上になぜ分かっていて罵倒した?」 ノインの声に、背を向けていたミンティスが振り返る。 「誤解を招く言い方は止してくれ。彼女の声が奪われたのは偶然だ。まぁ、もとはと言えば原因はおれかも知れないけどな」 頭を掻きながら、ミンティスは「やれやれ」とため息を吐いた。話をしよう、と言っていたときの真面目さは消え、面倒くさそうに口を開く。 「おれが彼女の歌を聴いてな。『あぁ、いい声だ』って言ったんだ。それだけ。たまたまそれを聞いていたウンディーネが声を奪っておれの前に現れたんだよ」 呆れた様子で苦笑を浮かべる。ウンディーネが水へ帰るときに飛んだ水滴を落としながら言う。 「だから、少年。お前も水には気をつけろよ?」 それだけを残し、ミンティスは背を向け歩いていく。追おうかどうかと迷うが、意識を失った少女をそのままにも出来ない。ノインがシェノを背負い上げ、再び青年の影を確認しようとしたとき、すでに彼の姿は消えていた。 * * * 宿へ少女を運びこむと、一番に休憩所で煙草を吹かしていた男が声を上げた。どうしたのか、大丈夫なのか、何があったと同じような質問を羅列する。とにかく身体が冷えているということで、眠ったままのシェノは暖房をきかせた部屋で寝かせられることとなった。同じく冷え切った状態で戻ったノインは毛布を幾つか貰い、借りていた部屋で大人しく過ごすことにする。 しばらく、震える身体を丸めて横になっていると、扉が勢いよく開け放たれた。 「ノイン!!」 ドタドタと地響きを立てて寄ってきたのはリンナだった。 「あれ、リンナ?」 思わず不抜けた声が出る。そういえば、湖を泳いでいた辺りからリンナの姿が消えていたな、と思い出す。顔を真赤にした彼女は、いつもに増してキツイ口調で怒鳴り声を上げる。 「何でッ! ねぇ、何で私放置されてるのッ? え、そんな嫌われてた!?」 うるさいなぁとも言えず、黙るノインの襟元を掴み、リンナは大きく揺さぶる。脳が揺れて気持ち悪くなる。リンナは怒りに任せ、息が切れるまでノインを振り回した。 「次は無いからね!」 「……ど、どこかで聞いた台詞だなぁ」 ぐったりとうなだれたノインはそれだけを呟き、力尽きる。気は済まないが、疲れ切った様子のリンナもベッドの上に座り、突然二人の間に沈黙が満ちていた。 ぼーっと何も考えない時間が続くのかとも思えたそのとき、開きっぱなしだった扉がノックされた。 「……あの、少しいいですか?」 そこには一人の少女が立っていた。ノインはダメージのせいで身動きがとれなかったが、リンナは彼女の顔を見るなり立ち上がり、満面の笑みで出迎えた。 「その、湖でのことを聞いて……。助けてくれて、有難う御座います」 腰を曲げ、頭を大きく下げる。宿へ戻ってからしばらく過ぎているが、まだ目が覚めてすぐだろう。決して、体調がいいようには見えず、ふらふらとした様子からしても出歩いていい状態だとは思えない。ノインが心配し、声をかけようとしたところで少女の後ろから野太い男が現れた。 「いないと思ったらこんなところに……。親父さんに怒られるぞ?」 冗談めかした口調でそう告げると、シェノの肩を軽く叩く。部屋へ戻るように促すと、そのまま二人の部屋を後にしようとする。何か話したかった様子のリンナが不満げに口を曲げるが、リンナと同様に話をしたい様子だったシェノも残念そうに顔をしかめていた。 シェノと男が廊下の角を曲がったところで、ノインは立ち上がる。 「それじゃ、準備でもしようか」 鞄を手に部屋に散らかしていた私物をかき集める。リンナも立ち上がると荷物の整理を始める。 「もう行くの?」 この街に来て数日。それほど滞在しているわけでもないのに街を出て行く準備をするノインへ彼女は問う。何だかんだと普段は長居することが多い二人にとって、今回のようにすぐ出ていくことは珍しかった。 リンナの問い掛けに頷くと、あらかた片付いた荷物を確認してノインは立ち上がった。 「今回は来るタイミングが悪かったんだ、諦めてよリンナ」 どういうことか、とリンナは首を傾げる。それにノインは苦笑を浮かべるが、すぐに答える。 「この街はもうじき湖に沈むんだよ。また湖で泳ぐのは嫌だろう?」 「……な、それって私たちだけ逃げるってこと?」 信じられないような顔でノインへ迫る。だが、そうではないと首を振る。 「定期的に沈むんだよ。だから街の人達も、もうすぐ引越して行く。でも街の人と重なったら出て行きにくいから、それより先に出ようってね?」 街が湖に沈む。そのことを知ったのは宿に戻ってから噂を聞いたからだ。シェノを運び込んでから、休憩所にいた他の旅人が話していた。だが―― 青年が姿を消す寸前、最後に言われた言葉を思い出す。 『だから、少年。お前も水には気をつけろよ?』 このことを言っていたのかどうかは分からないが、結局どういうことなのか。彼の考えには理解が及ばない。 「とりあえず、行こう。旅立ちは早いに越したことが無いしね」 すでに宿から出る準備は出来ている。彼は、リンナの荷物と自分の荷物を背負い上げた。 【了】 |
アマツリ
2010年12月20日(月) 20時10分52秒 公開 ■この作品の著作権はアマツリさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.3 アマツリ 評価:0点 ■2011-01-07 17:42 ID:R1NnYSAp.o. | |||||
お二人とも、感想を有難う御座います。返事が遅れましたが、ご容赦下さい。 >>お様 この作品は期限中にどうしても書く必要があったので、文量を稼ごうと必死になった結果内容が破綻してしまいました(汗)。 いつになるか分かりませんが、改稿しようと思っています。また、長い物語の一部のようでとのことですが、ここまでで1/4くらいになります。次回の投稿時にはちゃんとした読めるものを公開します。お目汚ししてすみませんでした。 >>HONET様 出だし以降モチベが下がる一方で、文章のバランスがおかしなことに……。展開についてですが、僕自身読み返して同じことを思いました。やっぱり、こういうのは書き過ぎくらいで丁度いいんでしょうね。 次回は改稿し、全編書き上がったものを投稿しようと思います。 |
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No.2 HONET 評価:30点 ■2010-12-25 09:08 ID:uKs3unqvpTg | |||||
はじめまして。読みましたので感想を。 出だしは非常にうまいと感じました。異世界モノでかなりすんなりと読み始められたのは久々だった気がしたからです。が、すぐにリンナがいなくなり、話が急転。このタイミングが、個人的に少し早かったように感じました。太陽がない世界や精霊による環境制御等、この世界自体が面白さを帯びていると感じさせるだけに、導入部はもう少し長く二人の関係等にも少し触れてもいいのかもしれないなと考えたりもします。 思うに、シリーズものの一部、という位置づけなのでしょうか。他のシリーズも読んでいてこれを読む人と、これから読み始める方では印象が変わるのかなといった感想。ちょっと単体では説明不足のところがあるように感じました。それも狙いなのかも知れませんが。 物語的には、比較的静かに進行する物語が個人的好みには合っておりましたが、前述の通り、どこか理解しきれないまま終わった感もあり、ちょっと残念だったなという気持ちも若干ありました。 |
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No.1 お 評価:30点 ■2010-12-21 03:38 ID:jwjzJHGAhYg | |||||
こんちわ。 読ませていただいたので、思ったことを少し。 もしその気がおありで、これから二稿三稿と改稿を重ねられるなら、きっと、面白い作品になるだろう予感がしました。 ただ、現時点では予感に留まるというのが、正直な感想。 おおまかな筋立ては、僕は結構好きでした。語弊があるかも知れないけど、良くあるよね、というくらいのレベルには充分達している。悪い意味じゃなく、スゴいオリジナリティ溢れるってわけじゃないけど、物語として充分楽しめるといういみで。 ただ、筋立てのパーツの組み立てが、少し粗かったかなぁという気もします。もう少し要素要素を丁寧に組み上げる周到さというのか、全体を見ながら物語を構築する客観性のようなものがあっても良かったかも知れないと、思ってしまいます。僕の読み込みが甘いせいか、事情がよく飲み込めなかったり、おや? と思うところがちょいちょいありました。 本作は、長い物語りのなかの、一区切りという感じでとらえて良いのでしょうね。いちおう、それを踏まえて。 オリジナリティというのとも重なるかも知れませんが、少なくとも、本作一作を読む限り、ファンタジーとして世界観の掘り下げ、作り込みがやや不十分かなぁと思いました。個人的な好みかも知れませんが、僕はもっと思い入れ全開な世界観を構築してある方が良いように思います。 あとは、ミティスくんのキャラが今ひとつ薄いかなぁ。薄いというのか、なんというのか。なんだろう、うーん、脈絡のなさに魂がない。と言われても、伝わりませんよね。おそらくこの人は、此の後も物語に絡んで来る人なんじゃないかと思うんですが、その出会いの話しとしたら、もう少し、この人とかちっと描いてあっても良かったかなぁと思いました。主人公二人との絡みで。 ぜひ、精査し精錬させて、予感を確信に変えて下さい。 |
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総レス数 3 合計 60点 |
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