その星の最期
 月面都市に建てられたカプセル型居住物の一つ。その居間にある小さな窓から、一人の女が椅子に座って外をながめている。
「地球に縛られてる人たちって、かわいそうね」
「君はそう思うのかい?」
 ふとつぶやいた女の声に、一人の男が反応する。彼は脱脂綿でとんとんと触れるようにして、女のひび割れた爪に消毒液を塗っている最中だった。女が顔をしかめたのを見て、脱脂綿をつかんだピンセットを引っこめる。
「ええ、思いますとも。こんなにきれいな星を自分の目で外から見られないなんて、とってもかわいそう」
 女の目には涙が浮かんでいる。軽くまばたきをすると、水滴となって顔から流れ落ちた。その軌跡を手でなぞり、女は小さくため息をつく。
「どうやら、痛くしちゃったみたいだね。あとは君がやるかい」
「その必要はないわ。お願いだから、最後まで見させて」
 女は男に顔を向けることなく、じっと窓の外に浮かびあがる地球を見つめている。月で生まれ育った男と違い、女は二十歳を前にして地球から送られてきたのだ。この期に及んで、ことさらに故郷の惑星に思いをつのらせるのも無理はなかった。
「ニュース、止めようか。そろそろうるさいだろう」
「止めないで。静かなのは嫌いだから」
 そう言いながら、女は短い言葉を発するばかりで黙りこんでいる。いつものように、時間の経つのも忘れて語り合うことなどとてもできない心境に違いない。
「地球では、世界各地の潮汐現象に異常が発生しています。これも隕石の影響と思われます。海岸にお住みの方は、満潮時の海面の高さにくれぐれもご注意ください」
 地球発のニュースは、いたって淡々とした調子で事態の進行を語っている。下手に大げさに騒ぎ立てるより、かえって男には好感がもてた。
 女のひび割れた爪に絆創膏を巻きつけながら、男はつけっぱなしのパソコンにちらりと目を向ける。匿名掲示板で無責任にわき立つ数多くの書きこみに混ざって、「チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください」などという、のんびりとしたタイトルのスレッドが上がっているのが目にとまった。
 どうせただの悪ふざけだろうが、答えてみるのも悪くない。
「これでいいかい? 僕にできるのはここまでだけど」
「ええ、いいわ。ありがとう。あなたは自分のやりたいことをすればいい」
 相変わらず外に目を向けたままの女に小さくうなずくと、男は立ち上がってパソコンの前に向かった。救急箱をひざの上に置き、すでにだいぶ下のほうに沈んでしまったチキンラーメンのスレッドを探し当てる。
『冷蔵庫から出してすぐの卵を使っているのではありませんか? 室温状態に長く置いてから割り落とすと、きれいに固まると思いますよ』
 短い文言で、過不足なく答える。大騒ぎしているスレッドに書きこむより、こうした余裕を見せるほうが後世の印象に残るだろう。IPアドレスが月からのものだとわかれば、地球に住む人々は大いに驚くに違いない。
 月には自家発電のできるコロニーがいくつもある。地球との電波を送受信する人工衛星はまだ機能を止めていないし、いくらでも情報を伝達する手段はあるのだ。
 しかしまさか、こんなくだらない書きこみが地球に向けた最後の情報発信になろうとは、男も予想だにしていなかった。
「チキンラーメンでも食うか」
「あ、あたしの分も用意しといてくれるとうれしい」
 地球を見つめ続ける女の発した声に男は短く応じると、棚からカップ入りのチキンラーメンを二つ取り出そうとした。
 その途端、細かな地震が起きて、カップはひとりでに床へと落ちた。
「いよいよ、なのかしらね」
「だろうね。地球に住む連中は何を考えているのやら」
 カップを拾い上げ、居間と一体になったキッチンで湯をわかしながら、男はパソコンのディスプレイに目を向ける。延々と書きこみが積もっていく中で、チキンラーメンのスレッドへの書きこみはきちんと生き残ってくれるのだろうか。
 やはり、もっと直接的に彼らを糾弾する書きこみがいいのかもしれない。男は日頃から自分が知的な人間であることを自負していたが、たまにはバカになってみるのも悪くないと思った。いや、まさしく今がそのタイミングなのではないだろうか。
 湯がわき立つまでもう少し時間がかかると見ると、男は再びパソコンの前に向かった。
 それからおよそ三十分後、月面都市は隕石の衝突により壊滅した。
 地球政府は「月の人民はすべて脱出艇により救出した」と発表したが、信じる地球人は皆無だった。みな、政府の統制から逃れて、生き残った者たちからひそかに真実を聞く機会を得ようとしていた。しかし、生存者は固く口を閉ざすばかりだった。
 そういった動きとは別に、匿名掲示板に通う者たちの間ではある書きこみが話題になっていた。情報統制の網をかいくぐった者たちの間で、それは大いに語り草となった。
 月からのIPアドレスで書きこまれたそれは、チキンラーメンの卵をきちんと固まらせる方法に始まり、最終的には地球政府への激しい非難と、ただ一方的な死を待つばかりの恐怖、そして達観したメッセージで締めくくられていたという。
ラトリー
2010年02月10日(水) 23時44分12秒 公開
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■作者からのメッセージ
旧・即興三語小説――第12回より

▲必須
「絆創膏」「爪」「満潮」 

▲縛り
舞台:月面都市

▲任意
「チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください」「救急箱」


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