裁判長シド
 科学技術の進歩は、人類の創造力の賜物であった。いや、そのはずだった。その人がその人らしく生きていくための権利である基本的人権など、この世には存在しない。過去の遺物に成り果ててしまった。
「我々では前足を伸ばしたところで決して届かない、月に瞬く間に行ける技術を作り上げながら、あなたたちヒトは、未だに進化することを知らない。このようなケースが和解に至らないことを、我々は今後の課題として認めざるをえない。我々の目の前に、なんと嘆かわしい現実が横たわっているのだろうか」
 裁判長は白いふわふわの体毛を震わせながら、残念そうに言った。
 ここは地球の衛星軌道上を回り続けるコロニーに設置された裁判所。人権保護団体がおいそれと妨害できないよう、こんなところに設置されたのだ。その第三五一法廷――。左には検察であるスズメ、メジロ、ライオンが、右の弁護側には弁護士のヒトが、傍聴席には、サル、犬、馬、牛、カエル、水槽の魚と多様な生き物が集まって、判決が言い渡されるのを待っていた。ヒトを除くすべての動物は、一様に黒光りする首輪を付けている。
 被告であるヒトの坂本は、法廷の中央で今にも崩れそうな震える足で立っていた。その表情は、心をブラックホールに飲まれてしまったかのように、絶望に満ちている。二十代であるはずの彼は、四十代を思わせるほど老け込み、落ち込んでしまって、もうこれ以上訴える気力など残っていない。坂本がぼんやりと見上げた先には、白いネコを中央に、陪審員であるネズミ、ゾウ、サイ、イグアナ、そしてヒトが横一列に並んでいた。裁判長であるペルシャ猫シドは、被告坂本を一瞥して言った。
「それでは判決を言い渡す」
 一段と法廷が静まり返る。被告の坂本が深く溜め息を吐いた。まさか黒い帽子のマント姿のペルシャ猫に、他の動物が集まった前で裁かれることになろうとは、坂本は夢にも思っていなかったに違いない。
 純白のふわふわした毛を震わせながらシドは、威厳たっぷりに判決を読み上げる。
「主文、被告坂本陽平は原告シロに、『うご野いちごちゃん』を二パック買ってやり、ともに食べること。毎日の散歩に連れて行くことを命じる」
 シドの言葉に坂本の両肩はさらに落ちた。もう煮るなり焼くなり好きしてくれといった感さえある。傍聴席からブーイングとも取れるどよめきが沸き起こる。
「静粛に。これより、判決理由を述べる。被告、坂本陽平は同居犬である原告シロを保護する立場でありながら、原告シロの『うご野いちごちゃん』を黙って食べた。これは同居犬であるシロに対する、被告坂本の傲慢かつ身勝手な振る舞いである」
 シドの後ろの巨大スクリーンに、証拠写真が映し出されると、傍聴席からは、悲痛な声が漏れた。坂本が美味そうに苺をほお張る画像である。画像の奥には、物欲しげにお座りをして、苺を見上げるシロがいる。
「検察側から提出された本証拠が決め手である」
 提出された証拠は数十枚にも上るこれらの写真である。シロが坂本家の屋根を間借りしていた燕の正之助に頼んで撮ってもらって、動物専用通信を使って、検察に提出されたものである。
「被告坂本は、原告シロとのコミュニケーション、じゃれ合いを主張したが、原告シロは幾度となく友に相談し、被告坂本の行動を改める再三の願いをしていることを鑑みると、被告の主張は到底受け入れがたい。また、被告は原告の前で、美味しい食物をこれでもかといわんばかりにほお張っている。この行為は我々、弱肉強食の世界のなかで太古より生き抜いてきた動物たちにとっては、心理的虐待としか言いようがない」
 傍聴席から拍手喝采が巻き起こる。坂本は、屈辱のあまりいっそのこと死刑にしてくれてかまわないと叫びたくなったが、苺二パックに犬の散歩、これと自分の命を天秤にかけると何も言えなかった。
「動物社会の権利拡大は重要な社会的課題であり、これらを考慮すれば、動物専用コロニーでの対ヒト・動物社会適応プログラムによる一年の農作業奉仕が適当を思われる。しかしながら、原告シロや陪審員であるヒトからの情状酌量の願いがあることや、人間社会の過激な人権保護の訴え、そしてなによりも我々動物を、己が科学技術により更なる進化に導いてくれたヒトへの感謝、動物とヒトがより良い社会を作り上げるためにも、ある程度の減刑が考慮できる。これは決して、被告が主張した基本的人権を考慮したものでない。尚、本判決は、動物社会、ヒト社会双方に適応できる法整備を早急に望むものとする」
 シドの単にヒトを裁くだけでなく、社会事情、忘れえぬヒトへ感謝、さらには双方の国会への要請にまで言及する判決に傍聴席からは拍手が巻き起こる。
「我々、ヒトを除く動物が、ヒトの発明したコミュニケーションツールにより、言葉を覚え、論理的思考ができるまで進化をしてきた」
 シドがあごを上げて首輪を坂本に見せつける。この首輪があらゆる動物とのコミュニケーションを可能にし、動物に大いなる進化をもたらした世紀の発明であった。しかしその発明が、いまや人間社会を、ヒトの人権を根本的に侵害してしまったのだ。裁判で、人権を動物に主張したところで、同じことを動物が主張してくるのである。野生動物はすでに社会動物に保護され、『野良』なんて言葉は差別用語となって久しい。その辺の野鳥さえ人語を解するのだから、ヒトとしてはどこに目が、耳があるかわからない。こうなってしまっては、もはや動物保護ではなく、人権保護を訴えていかなければならない。
「この事実を、我々動物は忘れてはならないし、ヒトには受け入れていただきたいものである。当法廷が、早く地上で行われることが望まれる。最後に被告へ。本件は原告シロの気持ちを最大限考慮したものである。今後はシロの気持ちに報いるように、頑張って欲しい。被告坂本はこの原告シロの悲しげな表情と物欲しげな眼差しを見て、さらなる反省を期待したい」
 そうシドがスクリーンのシロを指し示して言い終わった途端、坂本はその場に崩れ落ちる。それを見て、シドは満足そうにニャーと大きな声で鳴いてみせた。

 裁判所のあるコロニーから、月までの直通シャトルに乗って、シドは月へ帰還する。月のシャトルポートから自宅までタクシーに乗って帰宅する。これがわずか一時間なのだから、ヒトの科学技術の進歩とは頭が下がる。ヒトは月に巨大なドームを作り上げ、そこの地球から様々な資源を持ち込み、居住してきた。
「たっだいまー!」
 シドはウィーンと開いた白い分厚い自動ドアからシェルター、つまり我が家へ入った。
「シドちゃん! お勤めご苦労様。今日は何をしてきたのかしら?」
 このシェルターの家主、松永香である。シドはニャーと鳴くだけで、答えない。裁判長たるプライドから、何をしてきただの、例え同居人といえど言える訳がない。ツーンとそっぽを向ける。
「答えてくれないの? それなら好物の『うご野いちごちゃん』あげないわよ。最後の一個なんだから」
「にゃ!」
 シドは慌てて振り向く。
「欲しいの?」
 ぶんぶんとシドは頭を振ってみせる。『うご野いちごちゃん』――ヒトも含め、ありとあらゆる動物が愛してやまない苺。六百年ほど昔、とある苺農家がその品種改良に成功したのが、その起源と言われている。今日までさらなる改良が加えられ、今でこそ安価に購入できるが、大量生産できるまで、この苺のために殺人まで起きていたのだから、食い意地というのは恐ろしい。
 香がしゃがみこんで、シドの前で『うごのいちごちゃん』を見せつける。
「せっかく、こうやってシドちゃんとお話できる世の中なんだし、話してくれないかしら?」
 シドの体が前後に小刻みに動く。葛藤しているのだ。食い意地と裁判長というプライドが。
「いらないのね。じゃ、私が食べちゃおっと」
「や、やめ! にゃー!」
 シドが止め入る間もなく、『うご野いちごちゃん』は香の口の中に入っていった。
「あー甘くて美味しいわ」
「し、信じられん……もうこんなところにいれるか!」
 シドは暗い外へと飛び出して行く。
「あれ? 悪いことをしちゃったかしら?」
 そんな言葉も後ろから聞こえたが、シドは無視した。
 まったくなんて同居人だ。裁判長たるこの私に対して。やはり今日の判決は、あまあまだったな。もっと重いものにしておけばよかった。
 シドが見上げたドームの巨大な窓から、地球が見えた。その脇にきらりと光って落ちていくのは、
「にゃ! 流れ星!」
 両前足を伸ばして、流星を掴もうと「たー」と叫んでジャンプする。
「はっ!」
 何をしているのだと、恥かしさを覚えて振り返ると、香が笑って立っていた。シドを追いかけてきたのだ。
「やっぱり、シドちゃんも、ネコちゃんなのね」
「う、うるさい。裁判長たる私が、ネコの本能ごときに――」
「はいはい。それより、『うご野いちごちゃん』はまだ買ってあるから、帰りますよ」
 それを聞いたシドは一直線に走り出す。
「うにゃー! 何をしている、早く帰るぞ! いちごちゃん、いちごちゃん」
 ペットと言う立場も悪くはない。裁判長とはいえ、ネコはネコなのだ。
 そう自己肯定しながら、シドは我が家へ駆け込んでいった。
 ヒトが地球の重力を離れて早五百年。動物たちとのコミュニケーションを始めて三百年。動物がヒトからの自立を謳ってまだわずか五十年。動物とヒトとの基本的権利の争いは、始まって間もない。
RYO
2010年02月10日(水) 22時51分15秒 公開
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■作者からのメッセージ
即興三語小説――第4回より

▲必須
「ブラックホール」「通信」「流星」 

▲縛り「ペットを登場させる」*ペットについては、誰もがペットと思えれば(思わせることができるなら)何でもありとします。

▲任意
「ダークエンジェル」「うご野いちごちゃん」「ふたなり」

***追記***
縛りについて、「ペットを登場させる」以外に、「SFにする」という縛りを忘れていました。すでに投稿もなされており、作品を考えている方もいるかと思いますので、「SF」という縛りについては、今回はなしとします。


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