ラストの故郷
 電車を下りる際、浮かない顔をした青年とすれ違った。私が気になって彼のことを少し振り返ると、彼は、すでに電車を下りた私の向こう側、駅のホームの入口、改札口を睨みつけているのだった。改札口には誰も立っていない。私がもう一度、彼のほうを見ると、しかし、乗降口のドアは閉まり、電車は行ってしまった。ひどい雨が降っていて、かすみで隔てられたかのように、もう線路の先には何も見えない。夕暮れ時。
 改札で自動機械から厚いレインコートと厚いゴム長靴を受け取った。故郷へ帰ってきた私に一体、何のサービスのつもりなのか、しかし、傘はというと、駅の売店で売られていない。構内に留まっているのは私だけであり、子供の頃の記憶などあやふやで、見覚えのあるものもなく……、時計を見ながらなんとはなしに時間を潰していると、待ち合わせの古い友人が姿を見せたのだった。その友人は電話機の向こうで私に対してしゃがれた声で言ったように、機械ボディを身につけており、生物ボディを身につけたままの私とは、伸長差が一メートルくらいあるように見えた。友人は私の手に持ったレインコートとゴム長靴を指して、「着ておいたほうがいいわ」と言った。
「ひどい雨でしょう。最近……、ここ何年かは、もうずっとこうで」
 友人は駅を出て、私を案内しながらそう言って歩く。雨はひどい。地面の水たまりは赤黒く変色していて、なるほど、ゴム長靴は必要だし、レインコートもそうだ。
「何年かは、ずっと?」
 私は尋ねる。駅前の商店街は、子供の頃の私の記憶にある町並みとは、随分変わってしまっている。人通りはまばらで、軒を連ねる建物からは人の生活の気配が感じられず、どうやら、まったくの廃墟。私が駅の電車に乗り、町を出て、……それから百年経って、私はその間に四回、ボディの交換手術を受けたし、友人は機械ボディへの交換手術を受けた。私は気づいて、通りを歩く町の人々を観察する。レインコートを厚く着込んだ彼らは皆、機械ボディだ。例外なく機械ボディ。生物ボディは一人も見つけられない。
「そう、きっと、天井フロアの降雨設備が故障してるのね。でも、そんなの、誰が修理できるっていうの……、よし子?」
 ぼんやりと人通りを見ていた私を、友人が怪訝に思ったのか呼び止める。私は首を左右に振る。
「なんでもない。……機械ボディの人が、大勢になったのね」
「え?」
 友人は驚いた目で私を見て、少し考えると、納得したらしく頷いた。
「そうね。田舎だから。あなたの住んでた街は、生物ボディの人が大勢いたの?」
「半々くらい……かな」
 本当は、九割くらいの人間が生物ボディだったが、私はそう言った。
「でも、それで大丈夫なの、ここ? 降雨設備の故障って……大変じゃない?」
「そ。大変。機械ボディになったら、少しはほら、大丈夫にもなったんだけど、でもそれって身の回りのことについてだけで、山の手の田んぼのほうは、ひどいって」
「ああ」
 私は頷く。友人はレインコートをめくって、金属の肌を見せてくれたが、そこに触れた雨粒は弾かれてすぐに地面へ落ちてしまう。濡れても大丈夫なのだ。私はどんよりと黒ずんだ空を見上げる。ずっとこの雨は降り続くのだろうか。
「それで……よし子、あなたの今度の帰郷って……」
 友人は私に理由を聞いているのだ。私はしかし、上手く答える自信がなかった。朝起きた時に、ふと、子供の頃に飲んだ缶コーヒーの味を思い出しただけだ。甘く、ドロドロに煮詰まったような味だったが、あれを飲んだのは町外れのマンションの最上階の展望室でのことだ。自動販売機に百円を入れた記憶がある。いつだったか……、親戚の家へ遊びに行った折のことだ。
「……なんとなく」
 私は答えたが、それは雨の音にかき消されるような、小さな声でだった。友人は首を傾げる。内心で、私はほっとしていた。缶コーヒーをもう一度飲みたいという衝動は日増しに強くなったが、私は帰郷を恐れていた。故郷に対する憧憬が、私の心の奥で育てられていることを私は自覚していたし――もっとはっきりとしたもの、例えば回帰願望のようなものかもしれないとも思う ――、つまり缶コーヒーという借り物の姿を取って、それは私の目の前に現れたと考えられるのであるし、それに……故郷の優しい風景が、ついにはその憧憬に強力なインパクトを与えてしまえば、私は現在のホームシティである都会の都市へ戻ることができなくなるかもしれない。……しかしもちろん今や、それらのことは杞憂だった。振り続ける雨。錆の浮いた水たまりの地面、寒々とした気温、湿気。機械ボディの住人達。廃墟。
「町外れの、○○マンションって、知ってる? 私、そこに行きたくて……」
 私は友人に言った。自動販売機の缶コーヒーのことは伏せた。友人は頷くと、「それだったらバスに乗るのが早い」と言って、近くのバス停を指差す。
 バスの中に、私達以外の乗客は三人いて、その三人共が機械ボディだった。バスに専属の運転手がついていたというのは過去の時代のことだが、今そういう役割の人間がバスの中にいたなら、彼らだって、機械ボディだったに違いない。雨の打ちつける窓ガラスを通してみる景色の中で、機械ボディの人々が、夜の訪れつつある通りを陰鬱に行き交っている。時折、街灯がバスを照らすと、窓にこびりついた赤茶の錆が私の顔に影を落とした。友人は私の隣の椅子に座って、じっと目を閉じている。メンタリティが変わって、機械ボディを身につけた人は、次第に、退屈や、時間の無駄というものを意識しなくなっていく。彫刻のようになって、ふとした瞬間に立ち止まったまま、動かなくなる。
 三十分くらい、バスのエンジンの振動を感じていた。友人が不意に「次のバス停で下りるわよ」というので、私は慌てた。レインコートのフードをかぶって乗降テロップをおりると、少し風が強く、横殴りの雨が私の頬を濡らした。ハンカチを出してぬぐうと、灰色の布地がうすく赤に染まる。
「そこの路地を……、って、そうか、あなたの目的地なんだから、道は覚えてる?」
 友人は尋ねるが、私は首を振った。
「ううん、実はあんまり。……一緒に来てくれて、助かったわ」
「そ? じゃあ行きましょう。こっちよ」
 日が落ちてしまってはっきりとは見えないが、周囲に建っているのは廃墟だけだ。鉄筋がむき出しになったり、窓ガラスが割れたりといったような。
「寂しいところね。私の記憶とはだいぶ違う……」
「もうほとんど、人が住んでないわ、この辺は。……あなたがそのマンションへ、誰かに会いにきたのでなかったなら良いんだけど……」
「大丈夫、人に会いにきたのではないわ」
 私は頷いたが、しかし、心の中では「駄目かもしれないな」と考えた。人が住んでいない場所に、缶コーヒーの自動販売機が設置され続けていることはないだろう。私の目当てのマンションだと友人の説明する建物は見つかったが、私は、そこに、見覚えがなかった。記憶の中にあるマンションは、白い壁だった。友人が懐中電灯で照らす廃墟の壁は、黒く、配線やチューブが縦横に走り、やはり錆が浮いて、雨がその複雑な表面をとび足に流れ落ちている。
「……入ってみる?」
 友人が尋ねるので、私は頷く。内装にまで見覚えがなかったなら、諦めるしかない。正面の空き地を横切って、玄関口に立つと、友人は私の為に目の前をどいてくれた。電灯のついていない、暗いホール。表札の外された郵便受けと、管理人室の窓口。入口のガラス扉は中途半端に閉じられていて、鍵がかかっているような様子ではなかった。それを押し開けようと、取っ手に手を伸ばした私の動きがとまる。金属の取っ手にも錆は浮いて、ささくれ立っていた。友人が気づいて、横から腕を伸ばす。
「あなたは手が柔らかいのだったわね」
 エレベーターは動いていなかったので、階段を使った。私にとって、最上階まで歩くのは重労働だったが、友人は私のペースに合わせてくれているようだった。階段のつきあたりに非常口のドアがあり、開けると展望室フロアだ。記憶を探ってみると、展望室の窓ガラス、朽ちた合成樹脂張りの椅子、連絡掲示板など、……私は直感する。見覚えは確かにある。自動販売機が置かれていたのはフロアの隅の一角だ。私は展望室の四隅を見回し、何度も壁伝いに歩いた。友人はじっと待ってくれていたが、私はとうとう諦めた。見つからないとなると、缶コーヒーはますます飲みたくなる。
 帰る道すがら、私は帰郷の理由と、缶コーヒーがおいしかったということを、改めて友人に説明した。友人はクスクス笑っていた。
「今日、これから深夜特急に乗って帰るの? ウチに泊まっていけばいいのにって思ってるんだけど」
 私は首を振る。
「帰るわ。それで、やりたいことがあるのよ。缶コーヒーの味そのものは無理でも、とにかく今は、少しでも早く砂糖をザブザブいれた何かを飲みたい」
 平屋建ての駅に到着したのは深夜を回った頃になった。雨は降り続いていて、友人が言うには、やまないだろうという。駅の構内でレインコートを脱ぐと、私の立っている床の周囲に赤茶色の水たまりができた。ゴム長靴も脱いで、駅の預かり所に預けておいた私の履いてきた靴を返してもらって、それに履きかえる。都会の都市に帰る準備は整って、売店を覗いてみると、故郷の特産品のスイカを使った果汁ジュースが売られていたので、それを買う。ストローをつきさして、紙パックのスイカジュースを飲んでいると、やがて電車がやってきてホームの中に滑り込んだ。
「それじゃ、……」
 私は友人にそれだけ言い、改札を抜けた。ホームを歩いて、乗降口のドアが開き、故郷のコンクリートの床を靴が離れた瞬間、私はもう一度だけ振り返った。友人は改札の向こうで私を見ていた。私はその時、無自覚ながら、険しい表情をしていた。私の記憶の中にだけある故郷は、今では、もう現実には存在しないのだろうか? それとも、変わってしまった、目の前にあるこここそが、その故郷だったのだろうか。私に与えられつつあるのが、その二択だけであることに気づいて、私は憤りを感じる。私のすぐ脇を、電車を下りようという乗客が通り過ぎ、ホームの上で、私を振り返った。その時にはもう、乗降口のドアは閉まっていたし、私はその、正体不明の錆びついた町を離れ始めていた。
雪国の人
2010年02月10日(水) 22時57分10秒 公開
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■作者からのメッセージ
即興三語小説――第34回より

▲必須お題
「回帰」「手が柔らかい」「コーヒー」

▲縛り 
「人物縛り:長靴を履いた人を登場させる」
「冒頭に張った伏線をラストで回収する」

▲任意お題 
「寝るのはもったいない」「裸足で何が悪い」「美脚」


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