雪のあわい |
三〇〇〇キロを超える道程の途中で引き返すことなど、小夏には考えられなかった。仰向けに見つめた空の雲に祥太郎の顔を描き始めてから、そろそろ二時間になる。 食糧や雑貨、シングルパドルや釣り竿、シュラフや小型のテントなどを積んだカヤックの上で、小夏はライフル銃を空に突きつけて「ばあん」と呟いた。一月ほど前、立ち寄ったアメリカインディアンの集落で譲り受けたものだった。免許を所持していないからと断る小夏に、 「自らを守る術を持たずにいることも、ここではまた罪だからな」 そう嘯いて、後は無言のまま、使い込んだライフル銃を半ば無理やりに押しつけて来た男に根負けして、小夏はそれを受け取った。不都合ならば捨ててしまえば良い。もうこの辺りには、人などはほとんどいないのだから。 カナダのユーコン準州からアメリカのアラスカ州までを流れるユーコン川の流域は、北上すればするほど人寂しい土地になる。次の集落までは二〇〇キロほどあることからも、それは窺えた。流れは速いが日本の河川程には急峻ではなく、せせらぎと呼ぶ程には穏やかではない子守唄に身を委ね、小夏はひんやりとした水の香りを味わっていた。 「んっ」 引き結んだ口の中で呟いて、小夏は半身を起した。初秋の晴れた空から注ぐ日射しは緯度の割に暖かく、照らされて青にも紫にも映える瑞々しさを主張する野生種のブルーベリーが、岸辺に群生している。小夏はパドルを操り接岸すると、カヤックをしっかりと近くの木に係留してから、馬手にライフル銃、弓手にコッフェルを握り締めて、 「うん、美味しそう」 摘み取った一粒を口に放り込んで大味な甘酸っぱさに笑顔を浮かべ、ブルーベリーでコッフェルを満たし始めた。正直なところ、豆やソーセージの缶詰には飽き飽きしていたし、小骨の多いパイクにも同じような感想を抱いていた。巡り合わせが悪いのか、グレイリングもサーモンも釣れずにパイクばかりがヒットするのだ。 目的を果たして満足する小夏の耳に、がさがさという音が聞こえた。身を固くしてそちらを見ると、ブルーベリーのさらに奥、生い茂るブッシュを揺らす何かがいた。 コッフェルを静かに地面に置くと、両手でライフル銃を構え、音の主へと向ける。そのままの体勢でしばらく待ったが、音はそれきり止んでいる。 小夏は銃口をゆっくりと空に向け、引き鉄を引いた。乾いた、だが大きな音が川面と言わず木々と言わず響き渡った。 威嚇の意だったのだが、逆効果になってしまったのか、それを契機にしてブッシュから灰色の巨体がのそりと姿を現した。 グリズリーだ。単にブルーベリーを狙っていたのか、はたまたそれを狙う小夏を狙っていたのかはわからないが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。 小夏は銃口をグリズリーに向け直し、立て続けに弾を発射した。暴力的な音と、短い悲鳴とが同じ数だけ上がり、重い音を立ててグリズリーが砂に塗れた。 しばらくそのままの体勢を維持し、念の為に頭部にもう一発撃ち込むと、小夏はライフル銃を小脇に抱えて歩み寄った。どう贔屓目に見ても死んでいる。 「良かった、貰っておいて」 長い溜息を交えてライフル銃に視線をやり、カヤックに戻った小夏はアーミーナイフを片手にグリズリーの元に再びやってきた。ライフル銃はまだ小脇に抱えたままだ。 足元にライフル銃を置くと、小夏はアーミーナイフをグリズリーの腹に突き立てた。赤黒い血が流れ出し、生臭い湯気が上がる。 グリズリーの解体などやったこともないが、魚を捌く要領で対応する。ライフル銃と一緒にその撃ち方や、奪った命を無駄にしないアメリカインディアンの思想も受け取っていた。この時期のグリズリーはブルーベリーばかりを食べているため、熊肉に特有の臭みがそれほどない。それを消す為に手間のかかる調理をする必要はないのが有り難かった。 ある程度肉を切り出してはカヤックへと往復し、 「もう、積めないかな」 過積載で転覆する可能性を考え、小夏は肉を詰め込んだ大きめのコッフェルを手に、グリズリーの傍らを離れた。この時期、この辺りならば、そうなったとしても即、命に関わるようなことには滅多にならないが、もっと北上する頃には川の水は身を切るように冷たくなり、二分と経たない内に心臓がその鼓動を止めることになる。 もっとも、小夏はそうなること自体を恐れているわけではない。死んでしまうのならば、それでも構わなかった。 「祥太郎」 胸に下がった、白く艶めく石英のペンダントを優しく握り締め、小夏は恋人の名を小さく紡いだ。写真家の彼は二年程前に日本からユーコンへと渡り、それ以来、消息が途絶えている。小夏の胸にいくつかの思い出と、ペンダントとを残して。 小夏と祥太郎が出会ったのは、大学のアウトドアサークルだった。メンバーのほとんどがキャンプに毛が生えた程度のもので宜しくやっている中、祥太郎を中心とした数人はカヌーやカヤックといった、それよりも本格的なものに熱を上げていた。 前者の中でそれなりに楽しんでいた小夏が、気まぐれに祥太郎たちのグループに参加して、すっかり魅力に取りつかれて以後は、国内のさまざまな河川を下ることに大学生活の大半を費やすことになった。 魅力的だったのは、川下りだったのか、あるいは祥太郎だったのか。おそらくはそのどちらともであったのだろう。 グループで紅一点だった小夏に、祥太郎の方も好意と呼べるものを抱いてはいた。そうでなければ、川原で見つけた大きな石英を時間をかけて丁寧に磨き上げ、それをペンダントにして小夏にプレゼントするなどということはしなかったはずなのだから。 在学中から写真家として活動し始め、日本各地の自然を切り取ることに情熱を傾けた祥太郎が、単位が足りずに大学を除籍になるのは必然で、一足先に学業の呪縛から解き放たれた祥太郎は、特に北の大地の写真を好んで撮った。 街に帰って来て、現像した写真を広げては楽しそうに小夏に見た物を語り、出版社にそれを預けて再び別の地へ行く、そんな祥太郎に遅れること一年半、小夏が大学を卒業して一般企業に就職した頃には、祥太郎の写真集は三冊目が出版され、その分野ではひとかどの写真家としての名声を得るようになった祥太郎の為に、小夏はささやかなパーティを開いた。 それほど広くない一人住まいの小夏の部屋のテーブルに、所狭しと並んだ手料理を見て、 「祝ってやる、なんて言うから楽しみにしてたんだけど、いやあ、想像以上でびっくりしたよ」 祥太郎が見せた笑顔が、小夏は嬉しくて堪らなかった。 「ねえ、こういう生活を送るならば、祥太郎が借りてる部屋ってもったいないよ。ほとんど出かけてるから、実質は荷物置き場じゃないの」 小夏の言葉に、祥太郎は何も言い返せずに苦笑いをした。小夏は続ける。 「だからさ、もう部屋は引き払っちゃいなよ。そして、旅が終わる度にここに帰ってくればいいじゃない」 なるべく表情を見せないように、冷蔵庫に飲み物を取りに行きながらそう言った小夏が祥太郎の方に視線を戻せずに、扉を開け放したまま意味もなく練りわさびと柚子胡椒のチューブの位置を並べ替えていると、後ろから祥太郎がそっと小夏の肩を抱きしめた。 それが二人が睦み合うきっかけであり、そして最後だった。小夏は二年待ち続け、ついに会社を辞めて日本を飛び出した。 がさり、という音がまた聞こえ、小夏は唐突に思い出から引き戻された。視線がブッシュへと吸い寄せられる。 慌ててライフル銃を拾い上げ、そちらへ狙いをつけようとした時には、もうブッシュからは巨体が躍り出て来ていた。間に合わない、と小夏が思った瞬間、その巨体は言葉を発した。 「これは、君がやったのか」 グリズリーなどではない、だがそれを連想させる体格の男は、血に沈む毛皮と肉塊を指さして、粗雑な英語でそう言った。 驚きと安堵とが等分に混じった顔でたっぷり沈黙した後、小夏はようやく口を開いた。 「そ、そう」 薪ストーブの心地良い暖かさが溢れる丸太小屋に、小夏はいた。防寒の為の着衣はあらかた脱いでいて、今の格好はその下に着ていたライダースーツだけだった。本来はバイクに乗る時のものだが、丈夫であることから小夏は川下りにこれを愛用していた。転覆して流されて川の中の鋭い岩にぶつかっても、これならばダメージが軽減できるからだ。 身体の線が出ることが気になったが、男は頓着せずにコーヒーを淹れて、椅子に腰かけている小夏に差し出した。 「インスタントで済まない。半年に一回、街に出るんだがこれしか手に入らないのでな」 カップを受け取って、口をつける。久方振りの味と香りが、小夏の口中に広がった。 あの遭遇の後、男は小夏に、いらないのか、と尋ねた。もう積めないから、と小夏が答えると、男は手際良くグリズリーの解体の続きを引き取り、あっと言う間に毛皮と肉とを分けた。毛皮はなめして売り、肉は自らで消費すると言い、お礼に泊ってゆけと小夏に言った。 躊躇ったが、その肉を燻製にしてやると言われて、小夏は首を縦に振った。保存の観点から、それは願ってもない提案だったからだ。 小屋には男一人だけが住んでいるらしく、先ほどのブルーベリーの群生から、ブッシュの中を歩くこと一時間程のところに、ひっそりと建っていた。 「堕落が嫌いなんだ」 道中、小夏の荷物の大半を担いでいた大きな背中を、椅子の背もたれにどっしりと預け、言葉少なにそう語る男は、アメリカインディアンらしい寡黙さを持っていた。意味を問い質して、散発的に返ってくる言葉を繋いでみて、小夏は男がここにいる理由をおおよそつかんだ。 人権保護の名目で、アメリカインディアンには多額の補助金が支給されている。とは言え、集落の中に居てはそれを使う機会はあまり無く、街に出て酒を飲み歩く者が多い。 元来、飲酒の習慣がないアメリカインディアンたちは、アルコールに対する耐性がまるで無く、簡単に酔い潰れ、依存症に陥り、時には野外で酔い潰れて凍死したりする。働きたくないものは働かずに済む、そんな歪んだユートピアを、男は唾棄すべきものだと考え、集落を出て独りで生活をしているらしい。 グリズリーやムース、カリブーやヘラジカなどの毛皮を売りに、半年に一度街に出て、そして銃弾や生活に必要なものを買ってまた小屋に戻る、そんな生活は、寡黙な男にとって悪いものではないようだった。言葉尻を拾われて自滅することを恐れているのかと思ったが、そもそもアメリカインディアンは一般的に寡黙であることを、小夏はこの旅で感じていた。 小夏が小屋の中を見回すと、天井から下がった毛皮や燻製肉、銃器類などが散見出来た。生きる為の最低限だけが、ここにはある。 「ハチドリ以外は、獣も魚も鳥も何でも獲るが、必要な分を超えてはいけない」 ゆっくりとコーヒーを味わいながら、小夏の視線を追って男が呟いた。 「ハチドリだけ獲らないのはどうしてなの」 「俺の守護だからだ」 小夏の疑問に、男は低い声で即答した。小夏は、祥太郎がこの地を訪れる前の下調べに付き合った時のことを思い出した。アメリカインディアンの中には、成人した男が最低限の食料を手にブッシュへと入り、数日彷徨って極限状態の中で見た、夢の中に出てきた動物を自らの守護動物として崇める部族がいるという文献を読んだことがある。 難しい顔をしている小夏の目の前に、焼いたサーモンの燻製が差し出された。じゅわじゅわと脂の音を立てるそれに齧り付くと、 「すごく美味しい」 小夏は心から感嘆したが、男の表情はほとんど動かない。 「ならば、ここを出る時にそれも持っていくといい。米と一緒に煮ると美味いはずだ。君は見たところ日本人だと思うが、それならば米は持っているだろう。前に会った日本人はそうやって食べることにすると喜んでいた」 言われた通り、米は確かに持っていた。その味を想像して、だらけた笑みを浮かべかけた小夏だったが、その言葉の最後に気づくと目を見開いて立ち上がった。舌の上で言葉が縺れて、意味のない音が断続的に漏れる。 僅かに眉根を寄せた男に、小夏はどうにか一単語だけを絞り出した。 「に、日本人」 「君は日本人ではないのか。それは済まない」 「違う、日本人だけど、そうじゃなくて、前に会った日本人って」 呼吸を乱す小夏を手で制して、男は燻煙室の扉へと歩いてゆくと、小窓を開けて中を覗き込み、小さく頷いて戻ってきた。中ではグリズリーの肉が燻されている。 「確か二年前だったと思うが、日本人の男と出会った。君がグリズリーを解体していた場所で、テントを張っていた」 「そ、その人の名前を」 「忘れたよ。日本人の名前は発音しにくいし、覚えにくい」 祥太郎かも知れない、と小夏は思った。だが、そうだとしても彼が今、生きている証拠には塵ほどの貢献もない。何しろ、二年前のことだ。 「生きているんですか、その人は」 「さあな。こんな生活をしていると、モカシンテレグラフからも切り離されてしまうからな。なにしろ、ほとんど人と会わない」 ユーコン川やマッケンジー川流域に住むアメリカインディアンたちの間に広がる通信網。上流の情報が、電話などの現代的通信設備よりも早く下流に伝わる、不思議な噂の伝播。それはモカシンテレグラフと呼ばれている。 「大事な人間なのか。その男は」 「そうかも知れないし、違うかも知れない。でも、私がここに来た意味があるとすれば、それなの」 頬を上気させる小夏を眼の端で眺めながら、男は静かにコーヒーを啜った。 ハチドリの守護を持つ男と別れてから、さらに一月が経った。 小夏はベーリング海へと注ぐユーコン川の河口へと辿り着いた。緯度と時間とが、彼女を極寒の地へと誘っていた。とうに樹木限界線を越え、シダや地衣類がぽつぽつと散見出来る他に、辺りに植物らしいものはもうない。 途中で立ち寄った集落でも、祥太郎の情報は得られなかった。単に立ち寄らなかったのかも知れないが、人知れずグリズリーにでも食べられてしまったのだとすれば、さしものモカシンテレグラフも白旗を上げる以外にない。 河口に浮かぶ流木を拾い、小夏はそれを空気の通り道が出来るように組み上げ始めた。天候は穏やかだが、気温は氷点の遥か下だ。このままでは凍えてしまう。 ライターで着火しようとして、小夏はしばし逡巡した。これも祥太郎との下調べの中にあったのだが、この辺りの流木は、放射性炭素年代測定によれば、およそ数百から数千年の昔から浮かんでいるものが多いらしい。樹齢を考えれば、それよりもさらに昔を知る先達だ。そんな太古の痕跡を燃やすことは仕方ないとしても、文明の利器で着火することには何か躊躇いがあった。 小夏は胸に下がった石英のペンダントを手に取ると、コッフェルの底に何度も打ちつけた。火打石と火打金。これも文明の利器には違いないが、そのレベルは幾分か太古に近づいた気がした。それは小夏のせめてもの敬意だった。 長い時間をかけ、手の感覚がなくなってきて、もう諦めようかと思った頃、火花が流木の比較的乾燥した部分に落ち、微かに燻り始めた。小さく揺らめく炎が、小夏をぼんやりと照らしている。 小夏は慎重に空気を送り込み、一安心出来る状態にまで持ってゆくと、今度は流氷の中から手頃な大きさのものを拾ってコッフェルに入れ、火にかけた。冷えた体を白湯で暖める腹積もりのようだった。塩辛いのは表面に凍った海水だけで、流氷自体は真水だ。 じんわりと氷が溶け始め、中に閉じ込められていた空気が久方振りの自由を喜ぶかのように、小さく弾ける音を奏でた。これも流木と同じく、太古の空気がそのまま封じられている。 小夏はコッフェルを傾けてゆっくりとそれを味わった。体中に太古のかけらが行き渡ってゆくような感覚が生まれる。人心地つくと、小夏はテントを張ってシュラフに潜り込んだ。 流氷に閉ざされてこれ以上先に進むことは出来ない。ここまで祥太郎が辿り着いたとしても、この先まで行っていることはあるまい。あとは自らの足で一番近くの集落まで歩き、帰る以外にないはずだった。 「寂しいよ、祥太郎」 雪に閉ざされた白銀の世界は言葉を飲み込み、穏やかな死を唄っていた。溶けた雪が時折軋むように呟き、生命の存在を拒んでいた。 「冷たいよ、祥太郎」 身体も、そして心も凍てつくような、冴え冴えとした静寂が辺りを支配している。 涙で濡れた小夏の頬は、そばから凍り始めた。小夏は涙を拭い、祥太郎、祥太郎、と呟き続けた。いつまでも、いつまでも。 どれほどの間、そうしていたのか小夏にはわからない。ふいに小夏の耳に祥太郎の声が聞こえた気がした。 飛び起きてシュラフから抜け出し、テントから這い出た小夏を、いつの間にか吹雪いていた空が出迎えた。 白く煙る視界の遠くに、何かがいた。カリブーの群れか、あるいはムースの群れか。 そして、それをファインダーに収めようとする、人の影。 祥太郎、と力いっぱい叫ぼうとして、小夏は大きく息を吸った。そしてそのまま、意識が遠のくのを感じた。懸命に伸ばした手は、何もつかむことなく中空を彷徨った。 目が覚めた時、小夏はテントの中でシュラフに包み込まれていた。どうやら、泣き疲れて眠りこんでいたらしい。 テントから這い出ると、吹雪は止んでいた。あれは現実だったのかどうか、確かめる術もなかった。 祥太郎を大切に思うあまりの、アメリカインディアンの見るような守護の夢なのか。あるいは、太古の力が見せた、ささやかなタイムスリップの幻だったのか。 あるいはそのどちらでもないのかも知れないが、眼に焼きついた瞬間は、胸に残る思い出と比べて遜色のないもののように小夏には感じられた。 |
脳舞
2011年08月21日(日) 22時09分37秒 公開 ■この作品の著作権は脳舞さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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