君が動かなくなっても |
――寝台なんていらないのに。私には、ベッドも床も変わらないんだ。 歩くことのできなくなった彼女が目を覚まして言ったのは、そんなことだった。そのまま起き上がろうとして、しかしそれができない。上体を起こそうとした反動が、永遠に伸びることのない彼女のショートカットを揺らした。 ――寝てろよ。 ――ありがとう。 雅臣がそっと頭をなでると、彼女は幸福そうに笑った。くすぐったそうに微笑み、両手で布団を顔の半ばまで持ちあげて笑う。 ――雅臣の匂いがするな。 嗅覚もないくせに何を言っているんだろう。それでも雅臣は布団をかぶって悪戯っぽく微笑む彼女の何も言い返すことができず、彼女はそんな雅臣にいっそう笑みを深めてくすくすと笑った。 彼女が布団を掴む両手の甲にはタトゥーのような文様が描かれている。 それは、彼と彼女を分ける文様だった。 町の中古屋で買った彼女は、致命的にまで何もできなかった。 何で家事もできないんだよ! と彼が怒鳴ると、彼女は商品コードが刻印されている手を持ち上げぴっと人差し指を立てた。 ――説明しよう! それは私がぽんこつだからだ。 雅臣がびっくりするぐらい堂々と彼女は言いきった。 ――なにせ、買い手がなくてそのまま中古屋に払い下げられたんだ。家事なんて、無茶を言わないでくれ。防水機能が貧弱なんだ。ショートするぞ。そうだな。喋る、動くくらいはできる。あ、でも買い物に付き合わせるとかはやめてくれよ。重いものを持っていると、バッテリーの消費が激しくなるんだ。途中で歩けなくなって、私を担ぐはめになったらはずかしいだろ。 頼もしい笑顔でそんなことをいう彼女にしばしあっけにとられていたが、雅臣は口をへの字に曲げた。 ――重いしな、お前。 この金属製品の重量たるや、およそ百キロ。不良品を掴まされた思いで恨み事を言うと、にっこりと凄まれた。 ――レディの体重を軽々しくからかうと、地獄に突き落とすぞ。 口先だけはりっぱなアンドロイドだった。 彼女に胸がない。 彼女の首筋から目線を下げ、白く滑らかな曲線を描く鎖骨を越え、そしてその先には平原が広がるばかりである。服の下、ということを考えてもあまりに残念な隆起のなさだ。悲しいほどのぺったんこである。 とある日に、からかい半分でそれを指摘すると、彼女はむ、とむくれて膨らんだ。 ――しようがないだろう。途中で材料が切れたんだから。 雅臣の口から、えっ、と声が漏れた。 ――材料……? ――うん。製作途中に胸を作るパーツが足りなくてな。まあ貧乳というキャラでいいかとそのまま出荷されたんだ。あれだ。実は言うと私の胸の部位には男性用アンドロイドのの部品が無理やりあてはめられているんだ。 それは、ただの不良品だろう。 ――……お前、よく商品になれたな。 ――その分、格安だったろう! リーズナブルなお値段だったはずだ! むきになった彼女に、雅臣はとことんまで呆れたものだった。 彼女は、動物が苦手だった。 たまに野良猫が部屋にやってくることがあるが、そういう時、彼女は決まって顔をしかめた。 ――やめてくれ。私は精密機械なんだ。動物の毛は天敵だぞ。 ――どんだけ弱いんだよ。 防水機能は貧弱。重いものは持てずに耐衝撃性もない。ほんとうにポンコツだ。ガラスの人形だってまだましかと思ってしまうほどにもろい作りである。 ――ほれ。 彼が猫を持ち上げると、彼女はうわっ、と声を上げて壁にへばりついた。 ――やめろやめろ。故障の原因になるだろう! 珍しく泣きそうな表情に、雅臣は思わず笑ってしまった。 雅臣は、その時は笑っていた。 痒みがする、というのが異常の始まりだった。 ――何か最近体の調子が悪くてな……。 腕をさすりむず痒そうにしていた。元が繊細な造りだ。雅臣も心配になり、メンテに連れて行こうかと、そう思っていた矢先だった。 ゆったりと日課になっていた散歩をしていた時だった。 話の途中だった。いつも通りに雅臣の冗談に笑い、からかいにむくれ、言い過ぎにはぽかりと拳をぶつけていた。 なのに ――あ。 彼女はそれだけを呟き、次の瞬間、ぶちん、という音を立てて崩れ落ちた。何度呼び掛けてもゆすっても起き上がらず、雅臣は無我夢中で彼女を背寄って駆けだした。 近くの病院に駆け込み、そのまま受付に飛びこみそうになってから自分の阿呆さに気が付きすぐさま電気屋に駆け込んだ。途中、情けなさで涙が滲み視界が歪んだ。 彼女の診断には、一週間ほどかかった。 平衡感覚の機能がやられ、その負荷で強制終了したというのが診断だった。 ――原因は何ですか! 雅臣が聞くと、技師はあっさり答えた。 ――動物の毛だね。 子供の頃は、夕日を見ると駆けだしたくなる衝動に駆られた。あの、あかくておおきい球体に、無性に何かが落ちつかなくなってよく夕日に向かって駆け出していた。 きゅるきゅるというタイヤの音が響いていた。雅臣が、彼女を乗せた車いすを押しているのだ。砂が舞う外は彼女によくないということは承知だが、こればかりは彼女はがんとして譲らなかった。雅臣との散歩は欠かせない。と。雨の日以外はな、と付け加えるのを忘れなかったのは彼女らしいくて、思わず笑ってしまった。 そうして彼女とすごすようになるのも、随分となれた。 「君は」 彼女が、ふと口を開いた。 「君は、いつまで私の世話をするつもりなんだい。歩けなくなった私を車いすに何か乗せて外に連れ出して。なあ、しゃべるだけのアンドロイドなんてさっさと破棄してしまえばいいんだよ。私はただの重しだ」 「いままでと、たいして変わらないだろう? しゃべって、動くだけのが、しゃべるだけになっただけだ」 おだやかにそう返すと、彼女の表情に影が落ちた。 「雅臣。私は、緩慢に壊れていっている。直しようは、ない。平衡感覚がなくなったのは手始めで、いまは徐々に末端の部位から動かなくなっている。そのうち、こうして君と話すことすらできなくなるぞ」 知っている。彼女が最初に機能停止した時に、全てを聞いた。もう手の取り返しがないことも、全部。 神様お願い! などといまさらすがろうとは思わなかった。泣くのも、絶望するのももうすませた。 覚悟はもう決まっていた。 「そうして話すこともできなくなり笑うこともできなくなり、視覚機能を失った私は君を見ることもできず宵闇のうちに機能停止する。残るは百キロにも及ぶ人型の金属だ」 「いいんだ」 彼女が、雅臣を見上げた。首より上は、まだ動くのだ。少なくとも、まだ一年は、確実に。 最近の彼女は、笑うことが少なくなった。表情に影が多くなり、時々見せる笑顔は彼女らしくもない儚げなものばかりだった。 夕日が、落ちていた。 雅臣はそれに追いつこうとは思わなかった。そこに向かって駆け出したいう衝動は湧いてこなかった。雅臣は、落ちついて落日を眺めることができた。 ただ、彼女がそこにいれば幸せだった。そこからどこかへ駆け出そうとは思わなかった。 例え彼女の手がもげ、足が砕け、体がばらばらになったとしても、雅臣は彼女を捨てることなんてできないだろう。彼女が話すことができなくなったとしても、笑うことができなくなったとしてもそれでも彼女の部品をかき集め、腕に抱くだろう。 雅臣の決心お見通しなのだろう。泣くという機能がついてない彼女は、顔を歪めてやめろと訴えていた。 雅臣は優しく微笑み、ゆっくりと彼女の頭を腕に抱いた。 「バカ雅臣……」 「うるさいな、ぽんこつ」 諦めたように彼女は呟く。雅臣は、ぎゅっと腕に力を入れて彼女をかき抱く。 この感触を思えている限り、耳をくすぐるこの声を覚えている限り。 雅臣は彼女がただの金属になろうとも、彼女を愛することができる。 |
とりさと
2011年08月21日(日) 22時07分52秒 公開 ■この作品の著作権はとりさとさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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