こわれもの |
尖らせた妻の唇に、桜がそっと触れた。青ざめた唇に、風が刷いた口紅のような、花びらの淡い桃色。 「ず、ずいき」 言葉と一緒に、花びらは唇から零れ落ちた。残るのは乾いて色あせた妻の唇。 この寒さのせいだろう。満開の桜にもかかわらず、公園にはそれほどの人入りはない。子供の姿も、ずいぶん少ない。少なすぎるぐらいだ。 「きいろ」 「ろ、ろば」 「ばくだん」 「だ、だ、だ」 考えこむように、妻は薄い眉を寄せた。ん、がついてもその直前の文字から始めるという、やさしいルールを採用している。永遠に続けることができる、しりとり。 「だんす」 「座ろうか」 空いているベンチを見つけたので、そういうと、妻は小さくうなずいて、座った。僕も少しの隙間を開けて、座る。娘が生きていたら、ちょうどそこに収まるぐらいの、隙間。そんなことをつい思い浮かべてしまっても、僕の胸にはどんな種類の悲しみも沸いてはこなかった。あるのはただ、意図せず虫を潰した後のような不快感だけだ。 「かなりや」 妻が言う。 「やまんば」 間髪いれず、僕は答える。 「ば、ばんど」 「どうろ」 「ろ、ろ、ろ」 妻は虚空を見据え、言葉を捜す。僕はぼんやりと桜に見入る。青く澄んだ空。みずみずしく光る、淡い花びら。向かいのベンチに置かれた、新品のようなペットボトル。服を着た小さな犬を連れている中年男性。平和な公園だ。平和で、静かな。 きゃあ、ともひゃあ、ともいうつかない甲高い声。僕は思わず横を見た。妻は不自然なほど痩せた体を強張らせ、色の褪めた目を見開いていた。弱い風が、ゆるくまとめた細い髪を乱している。 「かあーわいー」 屈託なく笑う、小さな少女。高い位置で結んだ髪が揺れる。中年男性の連れた犬の前にしゃがみ、顔を覗き込んでいる。年齢は五歳ぐらいだろう。娘が死んだのときと、同じぐらいの年。スカートから覗く、みっちりとした白い太もも。 妻の顔の筋肉がゆっくりと動き、一つの感情を、描き出す。憎悪。 妻の顔にあるのは、あの日差しを浴びてきらきらと輝くペットボトルの中の水よりもずっと純度の高い、憎悪だ。僕は目を逸らす。そして、堪らない罪悪感を覚える。それは僕が妻と同じほど純粋に「彼ら」を憎めないからでも、そんな感情から彼女を遠ざけていられない無力さから来るものでも、なかった。僕が妻から目を逸らしたのは、単純に、その顔が醜かったからだ。見ているのが、不愉快だった、からだ。 少女が何事か、中年男性に話しかける。少し太り気味の中年男性は、曖昧な笑みを浮かべ、少女に答える。少女は犬に触る。犬はされるがままになっている。 「ありがとございますー」 気が済んだのか、少女は立ち上がり、ぴょこんと音がつきそうなお辞儀を一つして、そのまま来たときのような唐突さで、走り去っていった。太った男は、のんびりと少女とは違う方向へと、歩き出した。 妻を見る。するすると、彼女の顔から憎悪が解けていく。呆けたように緩んだ唇から、小さな音が漏れた。 「……ロリコンは死ねばいい」 力ない、掠れた声。体の中に蟠っていたものが、僅かに欠けて毀れてしまったような。 僕は立ち上がる。 「いこう」 妻も、立ち上がる。う、う、とつぶやきながら。 娘が死んで、僕がまず考えたことは、ハードディスクの破壊方法、だった。小さな娘に似合いの小さな棺を見ながら、考えたのはたったそれだけだ。 娘が何故死んだのか、妻にはなかなか理解できなかったようだ。一方の僕はというと、幼稚園のバス停から娘の足取りがつかめないと告げられたときにはすでに、その可能性を考えていた。そして、もしその想像が当っていたとするなら、生きた娘が帰ってくるよりもむしろ、あの残酷なほど可愛くもろい心音が、止まってくれていたほうがいいとさえ考えた。 しかしそれでも、娘があんな形で還ってくるとは、思っていなかった。届いたクール便の、発泡スチロールの箱。血が滲んだ、包装用の新聞紙。嘔吐を強要するあの匂い。 刑事が淡々と説明してくれた娘の解剖結果は、妻の中の柔らかい部分を破壊しつくし、僕をもう一度嘔吐させた。僕は、吐き続けた。吐くべきものがすっかりなくなっても、胃液を吐いた。自分の内臓が生み出した加工物は、僕の舌と喉をひたすらに苛んだ。 嘘、嘘、と妻が空ろに繰り返すのを聞きながら、僕は「嘘じゃない」と声の代わりに汚物を吐いた。嘘などではなかった。娘の身に起こったむごたらしくきたならしく理不尽で、とにかく絶対に起こるべきではなかった一連の出来事は、どこかの闇から出て来た怪物が、引き起こしたことではなかった。僕には、わかっていた。それはある種の人間に現実に存在する欲望の形、だった。 僕は、そのことを知っていた。とてもよく、知っていた。 娘の葬儀は、とてもささやかに行われた。棺を開けることも出来ない葬式など、派手にやらないほうがいい。妻も僕も、言葉少なく、その葬式は僕が知る限りではもっとも静かなものになった。 葬儀が終わって暫らくすると、妻は警察のすすめで病院へと通うようになった。僕は、ついて行かなかった。妻もそれを望んではいないようだった。その初めての通院の間に、僕は自分の部屋のパソコンを分解し、ハードディスクを取り出して、マイナスドライバーで破壊した。とても簡単なことだった。二十分と経たずに終わった。どうしてこんなことをするのに、三十二年もかかったのか、わからなかった。 ごみを処理し、コーヒーを淹れて飲んだ。コーヒーがあまりに熱くてあまりに旨くて、僕は自分が心底ほっとしていることに気付いた。そして、泣いた。娘のためでもなく、妻のためでもなく、自分自身のために、泣いた。それがあまりに情けなくて、ますます泣けた。これはあまりにひどい、と娘の顔を思い出して、それを肴に泣こうとしたが、思い出せなかった。思い出せたのは、ハードディスクの中にいた、ちいさなかわいいおんなのこたちだった。おんなのこたちの、みっちりした太もも。清潔なスリット。かわいらしい乳首。虚ろな、目。 「うろこ」 と妻が答える。 不意に、ごう、と、強い空気の塊が、僕と妻に、正面からぶつかってくる。歩みを止め、顔に降り注ぐ強烈な冷気と、花びらに、耐える。 緩んだ、と思い妻を見ると、妻も、こちらを見ていた。 あ。 と思った刹那にはもう、花びらを吹き散らしながら、風と呼ぶにはあまりにも強い力が、再び僕と妻を押し流そうとしていた。 春の嵐。白い嵐。枝を撓らせ花びらを捥ぎ取り、髪と服をはためかせ、剥き出しの皮膚を叩く、美しい嵐。 冷たさに涙が滲みそうになりながら、妻を見る。細い体を自分で抱いて、妻は嵐の中、立っている。細い髪は乱れ、眉は不安げに下り、目はきつく閉じられている。青ざめた乾いた肌。そこに貼りつく白い花びら。彼女を飾る、白い、花びら。何かに、似ているような気がした。 そうだ、これは。思い出す。ライスシャワーだ。僕たちの結婚式で、痛いほどに降り注いだ、白い祝福。あの日も、ひどく風が強かった。僕は妻になったばかりの女を見て、女も、夫になったばかりの僕を見ていた。その一致が何か神秘的な符号のように思えて、僕たちは微笑みあった。僕は、彼女を愛していた。彼女も、僕を愛していた。お互いにそれをわかっていた。僕はこの女を守り、二人で子供を作り、育て、永遠に幸福なままだと、信じていた。僕も彼女も、疑わなかった。そうじゃない可能性があるだなんて、考えもしなかった。あのときだって、僕のハードディスクには、おんなのこたちが、いたのに。 嵐は、やまない。妻は、その中に立っている。化粧気のない、青ざめた顔の、小さな、僕の妻が。ぐらぐらと風に揺られながら、自分を抱いて、立っている。 どうにかしなければ、と思うのに、僕の手は、嵐にとらわれて、動かない。動かし方も、わからない。 |
ねじ
2011年08月21日(日) 22時04分27秒 公開 ■この作品の著作権はねじさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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