星明りの下 |
今年もまた、厄介な時季がやってきた。 崩れかかった廃ビル群を容赦なく打ち据える、放射能を含んだ雨は、ビルへ、地面へ、地下水へと浸み続け、少しずつ少しずつ、廃墟を朽ちさせ、土地を汚染していく。 茅島は傘の下から梅雨空の分厚い雲を見上げ、足を速めた。この天候の中で、高層建築の密集する場所を歩くなんて、ぞっとしない話だったが、まともな道を通ろうと思えば、どうしてもどこかで、旧都市部を抜けるしかなかった。手持ちの飲み水も食料も、残りは限られている。 あたりに人影はない。少しでも知恵があるなら、もっと早く、梅雨前線に追いつかれる前に移動しておくべきだった。不作をもう少し早いうちに予想できていれば、茅島もそうしていただろう。彼が住んでいた地では、この初夏、急な日照り続きで、苦労して開墾した畑が軒並みやられた。そのときに一滴も降らなかった雨が、皮肉にもいまになって、茅島に追いついたわけだ。 この辺りではたいした雪も降らず、台風も滅多にやってこないから、地震をのぞけば、梅雨時から真夏にかけての豪雨が、なにより恐ろしい。 八年前の秋口に、茅島が住んでいた集落のあたりへ、一度だけ大きな台風がやってきたが、そのときにはまだ、ほとんどの廃ビルが崩れ落ちずに持ちこたえた。それがこの頃では、老朽化の進んだ建物から順に、たいした風がなくとも音を立てて崩れ落ち、瓦礫を撒き散らす。汚染より、目先の崩落のほうが切迫した脅威だった。 びゅうと、突風が吹き付けて、頬を生ぬるい雨に殴られる。それを手で拭って、その水が無色であることを確かめると、茅島は背中の荷を担ぎなおした。本当に目に見えるほど黒い雨が降ったのは、終戦後のいっときだけだったが、雨に濡れるたびに色を確かめる癖は、あれからもう三十年近くがたつのに、いまだに抜けきらない。 歩き通しの足が、棒のようだった。これが二十年前だったらまだ、その辺りから放置車両を探して、騙し騙し荒れた道路を走ることもできていた。いまは、もう油の残っているガソリンスタンドを探すことよりも、動かせる状態で残っている車を探すことのほうが難しい。 それでも、もう少し歩けば、人里に出ていいころだ。人はもう、都市そのものには住まない。けれどそこに眠る資源を掘り起こすために、その近くには暮らす。 ぎゃあ、ぎゃあと、鴉だろう、騒々しい声が耳に飛び込んできた。見上げた空に、黒い濡れたような羽根がよぎっていく。頭の形がおかしかったような気がしたが、一瞬だったので、確かめることはできなかった。 鳥の姿を見かけるのは、どれくらいぶりだろうか。茅島は歩きながら、記憶を掘り起こす。ここひと月やふた月の話でないことは確かだった。 放射能にかろうじて耐性を得た、一部の動植物以外は、ほとんどが死に絶えてしまった。虫はよく見かけるが、鳥や獣の数は少ない。 彼らの姿を目で追っているうちに、茅島は地上に動く影を見つけて、眉をひそめた。鴉がビル影に見え隠れしながら旋回している、ちょうどその真下に、傘を手にした人がいる。 こんな雨の中、いつ崩落するともしれない廃ビルの足元にいるなんて、無謀にもほどがあった。もしかするとなにか、後ろ暗いところのある人間かもしれない。 警告の声を投げかけるか、知らぬふりを決め込むか、逡巡した茅島だったが、結局はその人影のほうに足を向けた。 危ないぞ、と声を上げると、頭上のカラスに気を取られていたその人物は、はっと茅島を振り返って目を見開いた。まだ若い。せいぜいが二十歳かそこらに見える。 「あんた……誰だ」 青年は警戒するように茅島を見ながら、背中の荷物を隠すような動作をした。 茅島は、青年から少し距離を置いたところで立ち止まって名乗った。少し前に、住んでいた集落で、日照りに畑が軒並みやられた。食料が底を着く前に、住民はみな、散り散りになって近くの集落に身を寄せようということになった。そこまで話すと、青年はいくらか同情的な表情になり、頬を掻いた。 「そりゃ、災難だったな」 「君の集落には、俺ひとり、よぶんに置いてもらえるだけの余裕があるだろうか。畑の世話か、大工仕事ならできると思う」 青年は一瞬、迷ったようだった。その理由は、茅島にもよくわかった。茅島は前にも一度、同じようにねぐらを変えたことがある。そこではいまよりもっと警戒された。 こんな時勢だから、困ったときにはお互い様だと、互いに助け合う風潮はある。それでも、騙して食料を盗もうという輩も、たしかにいるのだ。 ろくな足もなく、長距離の移動は困難で、転々とするにも限度があるし、警察組織もないいまの時代、そんなことをして捕まりでもすれば、手ひどい私刑にあうことは想像に難くないのに、それでも不思議なほど、そういう連中が消えてなくなることはない。 「訊いてみる」 少し迷ったあとで、青年は顎をしゃくり、茅島に方角を示した。ついてこいということだろう。 「俺、ユキハル」 青年は下の名前だけを名乗ったが、茅島はそれ以上を訊かず、ただ小さく頷いた。戦後生まれなら、もしかしたら自身の姓も、へたをすると名前の字面も知らないかもしれない。学校教育も戸籍制度も、もう遠い昔の話になった。 歩きながら、茅島は青年にきいた。 「このあたりは、地震はあるのか?」 「俺が生まれてからは、大きいのは一度も。一回だけ、小さく揺れたな。……なあ、あんた、ずっと遠くから来たの」 「いや、歩いて四日くらいだ。このあたりも駄目かと思ったが、こちらでは、雨は降っていたようだな」 茅島は答えながら、周囲を見渡した。三方にはそれほど高くないが山が連なり、一方だけが開けている。海岸は見えないが、茅島の方向感覚に間違いがなければ、海はそれほど遠くない。梅雨のためだけでもなく、もともと雨の降りやすい土地柄なのだろう。 「ところで、雨のときは、ああいうところは危ないぞ」 茅島が忠告すると、青年は気まずそうに頬を掻いた。 「わかってる。でも、これをさ」 ユキハルは背負っていた頑丈そうなバックパックを視線で示した。ぱんぱんに膨れたそれは、年代ものではあったが、あきらかに戦前の品であるわりには、状態がいいように見えた。 「ちょっと前に、缶詰の倉庫をみつけたんだ。あの辺が崩れたら、もう掘り出せなくなりそうだし、いまのうちにちょっとでもと思って」 ああ、と茅島は頷いて、ユキハルの、どこか照れくさそうな目元を見た。幼い無謀さを自覚して恥じたのかとも思ったが、もともとそれ以上責める気は、茅島にはなかった。 「うちの集落の爺さんは、戦前のもんにはなるべく頼るなっていうんだけど。でも、ある間くらいって、おれは思うんだけど。さ」 青年はいいわけするように、そう言いながら、背中の荷物を揺すった。三十年前の缶詰がまだ食べられるかどうかは、微妙なところだが、保存状態しだいだろう。 ふたり並んで、十分ほども歩いただろうか、高層建築が見当たらなくなったあたりで、ユキハルは歩く速度を緩めた。集落が近いのだろう。 雨が弱まってきた。夕暮れが近いので、空が明るくなった感じはしないが、少なくとも雲は薄くなっている。 この雨と一緒に降ってきた放射能の量は、どんなものだっただろうか。茅島は白く煙る空を見上げ、はるか上空の気流のことを思った。 世界各地で使われた核兵器が、盛大に撒き散らした放射能の、一部はその地にとどまり、一部は大気圏まで舞い上がり、一部は風雨に乗っていまも、世界中を循環している。 地上のどこかにはもしかしたら、気流や海流の運に恵まれて、汚染の少ない地域が残っているのかもしれないが、それを確かめる手段は、日本中のどこにもない。移動手段もなければ、通信網どころか、電気の供給さえほぼ絶えた今の状況では。 もとは公園か広場だったと思われる、むき出しの土ののぞく場所に、明らかに戦後になって建てられたと思われる、簡素な木造の平屋がいくつか並んでいた。その周りには、手の行き届いた畑が広がっている。 茅島は驚きに目を見開いて、作物を注意深く観察した。訊いてみないと詳しくは分からないが、芋と大豆と、葉物が少し、それからあとは、何か根菜のようにみえる。彼の戦前の記憶にある農場からすると、ごく質素なものだが、放射能に耐性のできた一部の作物しか作れない、この戦後の畑の中では、驚くべき成果だ。 平屋の中の一つの、木製の引き戸が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。雨が小降りになったので、家人が畑の様子をたしかめに出てきたのだろう。 茅島は目を瞠って立ち尽くした。姿を現したのは、ひどく背の曲がった、小柄な老人だった。 「爺さん」 ユキハルは声を上げて、家から出てきた老人に駆け寄っていった。 茅島はあっけにとられたまま、立ち尽くしていた。さきほどの道中でもユキハルが「爺さん」と口にするのを聞いてはいたが、二十歳かそこらの若者がいう爺さんというのは、せいぜいが戦前生まれというくらいの意味だと、かってに思い込んでいたのだ。 年寄りの齢を推測するのは難しいが、目の前の老人は、茅島の感覚では七十かそこらにみえる。戦後の苦労で老け込んだにしても、六十より下ということはないだろう。その年齢の人間が、どうやってこの汚染された土地で、生き延びてきたというのか。 茅島やユキハルのような年代の者が、この土地で生きていられるのには、理由がある。 核兵器が乱発されるわずか三年前のことだった。これから生まれてくる子どもに、放射能への耐性を持たせるための、遺伝子操作技術が実用化された。その一年後には、すでに育った人間にも、抵抗力をつけるための技術も、追いかけるようにして発表された。 どちらも、多額の費用を要する施術に違いなかったから、それを受けられたのは、ある程度豊かな家庭に育った子どもに限られた。しかも後者には、低くない確率での危険が伴い、失敗すれば重い障害を持つか、命を落とす可能性さえあった。 そしてその可能性は、施術を受けるものの年齢が高ければ高いほど、大きかったのだ。 比較的安全に、その手術を受けることが出来たのは、ぎりぎり茅島の世代、当時で二十歳未満だった者たちまでだった。それより高齢の者はおおむね、失敗する可能性のあまりの高さに気を挫かれて、戦争が起きないというわずかな可能性に賭け、あるいは、そのときまでの短い命をせいぜい楽しむことを選んだ。そのはずだった。 茅島が愕然としている間に、老人はひととおりユキハルの話を聴き終えて、白く濁った目を上げた。 「人手はいくらあっても困らない。雨が上がったら、少し畑を広げよう。あんた、茅島さん? 今年を乗り切ったら、すぐに自分の里に帰るつもりかね」 茅島は我に返って、首を振った。 「火山が近くて、ときどき微震があっていたので、皆で話し合って、ひとりかふたりずつ、散り散りにどこかに身を寄せることにしたんです。事情が許すなら、こちらに長く居させていただけると助かります」 老人はかすかに頷いて、茅島を家の中に招いた。 家には小さな窓がいくつもあり、雨が弱まってきたからか、いまは戸を立てていなかった。木枠の中に、暮れ方の空がのぞいている。 茅島は家の中をさりげなく見渡した。内装は簡素だが、頑丈に作ってある。この集落には、誰か腕のいい大工がいるのだろう。 「梅雨が明けて、畑のほうが落ち着いたら、近くに家を建てさせよう。それまでは、私の家に泊まるといい」 「助かります」 老人は、米倉と名乗った。いちおう見えているらしい白く濁った目を、ときおり瞬かせながら、米倉翁はゆっくりした動作で、湯ざましを湯呑みに注いだ。 礼をいって受け取った湯のみを、茅島はまじまじと見た。素朴な陶器で、しっかりとしたつくりだが、まだ新しいものに見える。戦後に、どうにかして近くに窯を拵えたのだろう。この広場には、何軒かの家しか見当たらなかったが、そういう余力があるのだったら、近隣にはけっこう人材が集まっているのかもしれない。 「このあたりは、水は、井戸ですか」 「ああ。かなり深いから、汲むのに少し、骨が折れる。まだ戦後まもなくに、若いのが掘削の機械を見つけてきてな」 ああ、と相槌を打って、茅島は白湯を口に運んだ。口の中を滑るのは、当然ながら、ただの水の味だ。 何か飲み食いをするたびに、その汚染の程度を意識する。これも長年の習いになってしまっている。気にしたところで、汚染されていない食料など、そう手に入るはずもないのに。 茅島自身には、戦前に受けた手術のおかげで、放射能への耐性がある。そういうことになっている。けれど、その当時にまだ新しくできたばかりの、長年の検証のされてきていない技術だ。耐性といっても、無限に耐え続けられるわけではないだろう。体内に少しずつ累積していく汚染が、一定量を超えたときにどうなるのか、確実なところを保障できる人間なんて、どこにもいない。 といって、気にしたところで、何ができるわけでもない。わかってはいるが、気にならないでもいられない。一生何も起きないかもしれないし、すぐそこに致命的な線が引かれているのかもしれない、地面の下に埋まり続ける、掘り出すすべのない不発弾のようなものだ。 老人は立ち上がり、壁際にあった古風なランプを取り上げて、火を入れた。何か打ち付けるような音がして、ぼうっと柔らかな火影が揺れる。もしかすると、油も自分たちで採っているのだろうか。 ランプは古くはあったが、よく磨かれていた。小まめに手入れをしているのだろうが、それにしても三十年近くものあいだ、よくもたせている。 「年寄りが生きのびているのが、不思議かね」 さっきの動揺は、顔に出ていたらしい。茅島は気まずい思いをしながらも、正直に頷いた。 「戦後になって、初めて、自分の世代より上の方にお会いします」 「そうかね。探せば、ほかにもいるはずなんだよ。ああ、でもどうだろうかね、もう歳だし、皆、さきに死んでしまったかもしれんなあ」 老人は目を細めてそういうと、自分の湯のみを傾けた。 「国からねえ、補助が出たんだよ」と、老人はあっさりと種明かしをした。 「私はむかしから、農家をやっていたんだがね。ほかにも土木や建築畑の人間とか、水産のほうとか、そういう仕事で、あるていど経験のある人たちがね、少しは生き延びんと、まずかろうというんでね。危険は高いが、費用は持つから、手術を受けてみんかと」 茅島は驚きながらも、ようやくいくらか納得がいったような気がして、小さく頷いた。 「まあね、そのときまで家族と過ごすといって、断った人たちも多かったようだよ。私はまあ、連れ合いには先立たれていたし」 そこまで老人が話したところで、がしゃんと何かが割れるような音がして、ふたりは顔を上げた。物音は、隣の家から聞こえたようだ。 「ユキハルか。仕方のないやつだ」 老人は苦笑しながらいって、濁った目を窓の外に向けた。 「悪いがあんた、様子を見てきてくれんかね。ただの痴話喧嘩だと思うが、割れるようなものを投げるのは、やりすぎだ」 茅島は頷いて、腰を上げた。戸を開けると、いつの間にか日はすっかりと暮れている。雨は完全に止んで、空の端に雲がのぞいているものの、頭上はきれいに晴れ渡っていた。星明りで、足元は淡く影ができるほど明るい。 隣戸からは、罵り声が聞こえている。ユキハルと、それから若い女の声。雨に湿った土を踏んで、隣戸の戸を叩くと、一瞬、怒鳴り声がやんだ。 「失礼します。米倉さんに頼まれて……」 声をかけると、中にいたユキハルと女は、気まずげな顔を茅島に向けていた。 ユキハルの頬には、先ほどまでなかった引っ掻き傷ができて、床では陶器の皿が割れている。とりあえず、大きな怪我はどちらにもなさそうだ。 女のほうが、先に気をとりなおしたようだった。伸ばした髪を紐でひとつに括って、質素ながらも、身奇麗にしている。その下腹部がはっきりと膨らんでいることに、茅島は気づいた。なるほど、ユキハルは、彼女に食べさせてやりたくて、危険を承知で缶詰を拾いにいったのだろう。 「あなたが、カヤ……ええと、ユキハルの言ってた」 「茅島といいます。怪我をするといけないから」 少し冷静になるまで、一時休戦にしませんかと、茅島が静かにいうと、女は毒気を抜かれたように頷いて、その場に座り込んだ。ユキハルが頬の傷をこすりながら、床の破片を拾う。投げつけられたらしい缶詰が、足元に散らばっていた。 「ちょっと頭、冷やしてくる」 ユキハルは破片を拾い終えると、むくれたようにいって、戸をくぐった。初対面で、何か後ろめたいことがあるわけでもないが、ひとの恋人と二人で室内にいるのもためらわれて、茅島もそのあとに続いた。 雨に洗われた空気はすがすがしかった。それが汚染された雨でも。 ユキハルはしばらく、無言で立ち尽くし、畑の畝の間から、空を見上げていた。つられて茅島も、顔を上げた。 空には天の川が、堂々と横たわっている。英語でミルキーウェイというのだと、戦前の学校で習ったときには、なかなか腑に落ちなかったが、戦後になって、ようやく茅島はその語源に納得した。街の灯の邪魔しない暗闇の中で見上げれば、なるほどそれは、まさに乳の流れのようだ。 「不安なんだ」 ぼそりと、ユキハルがいった。中の彼女に聞こえないようにだろう、小さなささやきだった。 「俺も、アイツもさ。……おれらのガキ、無事に産まれてくんのかな。ちゃんと育つのかな」 茅島は答えなかった。 まだいまの時代は、誰にとっても過渡期だ。いまは適応して生き延びているように見える動植物も、これから先の数十年をいまのかたちで耐え抜くのか、さらなる変異を続けていくのか、いまは誰にも分からない。生き延びた人々はいるが、人口はこれから、さらに減っていくだろう。医療設備も、充分な栄養も、安全に子どもを産める環境もなく、出産までこぎつけても、死産だったり、奇形で生まれてくる子も多い。 かつて茅島自身の子は、無事に生まれてくることができなかった。五体はそろっていたが、出てきたときには息をしていなかった。 死産だったのが、汚染のためなのか、単純に栄養失調のためなのか、誰にもはっきりしたことはわからない。 それまで連れ添ってきた女からは、あんたと顔を合わせていると、死んだ子を思い出して辛いといわれ、茅島はそのすぐあとで、集落をうつった。それきり彼女とは、一度も会っていない。いまも無事でいるのかどうかもしらない。もう確かめる機会もないだろう。 「茅島さん、アンタの前にいたところでは、ガキっていっぱいいた?」 答えを聞くのが不安なのだろう、ユキハルの声は細かった。 「三……四人かな。俺の知ってるかぎり、元気に育ってるのは」 「そっか」 ユキハルは複雑な表情でうなずいた。そうでない子どもの数については、茅島はあえて触れなかった。 ユキハルは畑を避けて、地面に座り込んだ。尻が濡れるだろうにと思ったが、茅島は何もいわず、空に視線を戻した。 「この辺りにはさ、ここ十年くらい、赤ん坊ができたやつら、いなかったんだよね。そんで、よけいに色々、考えちまってさ」 そうかと、相槌だけを打って、茅島は目を閉じた。 「無事に、生まれてくるといいな」 どういうつもりで、自分がその言葉を口にしたのか、茅島には正直なところ、自分でよくわかっていなかった。 ユキハルはしばらく答えず、遠くの山々のあたりに視線を向けていたが、やがて立ち上がり、気合を入れるように、自分の両頬をひっぱたいた。 「あんがと。……ま、俺がしっかりしなきゃ、な」 そういって笑顔になると、ユキハルは立ち上がって尻を払い、女の待つ家へと帰っていった。 その姿が戸の向こうに隠れて見えなくなるまで、茅島はじっと、父親になろうとしている青年の背中を見つめていた。 |
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2011年08月21日(日) 22時02分58秒 公開 ■この作品の著作権はHALさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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