この曲が終わったら |
焼けたアスファルトの匂いに、修也は鼻を摘んだ。強い日差しに照り付けられることの比喩ではない。ほんの幾つか先の通りで、路面が文字通り、焼けて煮え立っている。 歩きながら空を仰ぐ。頭上には青空が広がっているが、少し視線をずらすと西の方に高く雲がそびえている。目の痛くなるような真っ白の、手で触れそうな濃密な入道雲。 先ほどからなぜかずっと、音楽が鳴り響いている。聞き覚えのある、少し悲しげなメロディ。こんなときに誰が弾いているのだろう、バイオリンの音のようだ。 修也には音楽のことは分からないが、有名な曲なのだろうか、確かにいつかどこかで聞いたはずだが、思い出せない……。 空襲が収まったばかりの人気の少ない町中で、いったいどんな人間が、バイオリンなど弾くのだろう。 報道が開戦の可能性を囁きはじめても、法律が変わって自衛隊が自衛軍に改名されても、本当に戦争が始まるなんて、去年までは誰も思っていなかった。それもこんなに早く、本土の空を戦闘機が飛び交うようになるなんて。 通りかかった公立高校の建物から、チャイムの音が響いた。校舎の時計を見る。もう誰も授業に出ていないのに、毎日律儀に鐘の音だけが聞こえる。校舎は半壊して、体育館の屋根は焼け焦げている。グラウンドの真ん中に、吹き飛ばされたサッカーゴールが突き刺さっていた。 修也はリュックの中からカメラを取り出し、その光景をひとつずつフレームに収めた。 疎開なんて、現代用語とも思えなかったが、いざとなったら皆、面白いくらいにさっさと逃げた。開戦直後、高速道路にはUターンラッシュの三倍くらいの長蛇の列ができた。 見る間に物資が足りなくなった。強盗も後を絶たなかった。店先には商品が満足に補充されない。天気予報がでたらめになった。空襲を少しでも減らすためだという話が聞こえてきたが、どうせ敵側も気象衛星を持っている。どれだけ効果があるか、分かったものではなかった。 現に今日の予報は曇りだったが、先ほどまではきれいに晴れていたし、今、空の端には徐々に先ほど見た入道雲が迫ってきている。じき、夕立が来るだろう。 歩くうちにバイオリンの音が近づいてくる。本当に、誰が弾いているのだろう。 いま、基地のあるこの市に残っている民間人は、ごく僅かだ。地方に逃げる手段のなかった者か、自殺願望のある者か、そうでなければ関係者か。あるいは修也のような物好きかもしれない。 昔ながらの煙草屋の横に差し掛かったが、自動販売機は誰かに叩き壊され、店頭はシャッターを降ろしている。都合により、当分の間臨時休業します。いかにも年寄りのものらしい筆文字で、貼り紙がされていた。 煙草屋の角を曲がると、その先の路面がもう焼け焦げていた。基地があるのはもう少し先だが、民家と小さな商店ばかりが燃えている。やつらの照準はいつも適当だ。あるいは士気を落とすために、狙ってやっているのかもしれなかった。国際社会の非難の声なんていうことが取りざたされたのは、戦争の初期だけだった。 幸い人の呻き声は聞こえてこない。このあたりの住民は軒並み疎開している。残っている者も、警報を受けて避難所に逃げ込んでいるのだろう。 再びカメラを取り出し、シャッターを切る。続けて何枚か。抜けるような青空と、入道雲と、焼け溶けるアスファルトと、燃える民家から燻る煙。 トレーラーが重い音を立てて走ってくる。今日はもう空襲はないと踏んだのか、戦車ではなく、ただの輸送用車両に見えた。修也はさっとカメラをリュックにしまいこみ、歩道に大きく避けた。誰もが殺気立っている今、ただ映像記録を残すものを手に歩いているというだけで、民間人を装った敵方の諜報員だと言いがかりをつけられることさえあった。本物の諜報員ならもっと用心深いだろうし、やろうと思えば携帯のカメラでも盗み撮れるのだから、そんなことを取り締まったって同じだろうに、誰もが混乱しているのだろう。 何のために写真を撮るのか。 修也は職業カメラマンでさえなかった。就職したばかりだった会社は真っ先に焼けてしまったけれど、愛社精神というほどのものも湧いてこなかった。平時なら路頭に迷うところだが、どうせもうこの辺りでは貨幣経済は麻痺している。 写真に命を懸けるほどの理由など、何もない。家族がみんな空襲で焼け死んだから、といえばもっともらしいだろうか。けれど実際のところは、正義感に駆られているわけでもなければ、悲しみを癒すためでもない。他に行く宛てがないわけでもなかった。九州に親戚がいる。放置された車でもなんでも盗んで、頼っていけばよかった。 自分でもよく分からない理由で、育った町に残って、毎日カメラを持ってうろうろしている。 家が焼けたとき、母親は何を思って逃げたのか、財布をしっかり握り締めて死んでいた。キャッシュカードもそこに入っていた。暗証番号は無用心なことにずっと家族共通だった。 家族全員の遺体が発見され、いきなり天涯孤独の身になって、途方に暮れるより先にATMに駆け込み、何度かに分けて預金を全額下ろした。そのときの空襲が一番被害が大きく、誰もが混乱していた。まともな葬儀もできないのがあたりまえだった。 修也はパニックに陥る町中で、とにかく買えるだけの保存食を買いだめ、焼け跡の地下室に隠した。地下室といってもたいしたものではなくて、父親が趣味で作らせた、半分物置みたいな二畳ほどのスペースだ。けれど趣味だけあって、知らない人間は気付かないように、入口の蓋が隠されている。 修也の弟の死体は、そこで見つかった。とっさに隠れようとしたんだろう。でなければ、両親が押し込んだのか。けれど、爆風を逃れても中で蒸し焼きになったのだから、結果的には賢い選択ではなかった。 その場所に平気で食糧を隠せる自分の神経はどうなっているのかと、修也は半ば他人事のように呆れている。 いっそ面白いくらい、感情が麻痺していた。家族と不仲ではなかった。嘆き悲しんでいいはずだった。けれど空襲のあの日から、ずっと修也の感情は凍結している。 トレーラーが通り過ぎると、入れ替わりに消防車両が近づいてきた。空襲警報と紛らわしくないように、最近は消防車もサイレンを鳴らさずに走ってくる。どうせ道路はがら空きだ。 修也は彼らに見つかる前に、身体を細い通りに滑り込ませた。彼らの姿も撮っておきたいような気がしたが、もし軍関係者だと、面倒なことになるかもしれない。消火活動をはじめる人々の格好は、普通の消防団員に見えたが、そんな違いも、素人目には分からない。 バイオリンの音はまだ聞こえている。先ほどからずっと同じ曲だ。悲しげな調子だが、どこか勇ましく、テンポが速い。どうもこの細い裏路地の向こうから響いているように聞こえた。 修也は消火活動に背を向けた。ふらふらと吸い寄せられるように、路地の奥へ向かう。 周囲の家々はガラス戸も破られ、庭木は折れて、疎開してからそれほど長い月日は経っていないはずなのに、早々に廃墟のようになってしまっている。 路地を抜けると、ちょっと広い家の焼け跡が見えた。ここも先ごろの空襲で燃えたのだろう。 真ん中に、一部だけが焼け残った部屋があった。壁はほとんど崩れてしまっているが、焦げ目のついた床に、バイオリンの弾き手が立っていた。 十五、六歳くらいだろうか。白い服の裾からすらりと伸びた手足はまだ華奢で、その細さが、力強い弾き方と対照的に見えた。 風に流れる髪が、背中の辺りまで伸びていた。 女の子だった。 目を閉じてバイオリンを肩にあて、高く掲げて、一心に弓を動かしている。 崩れかけた建物の壁の割れた隙間から、斜めに日が差して、スポットライトのように少女を照らしていた。 修也はほとんど無意識に、リュックからカメラを取り出した。シャッターを切る。二枚、三枚。 はっきりと響いたシャッター音にも、少女は気付かない。 曲が終わる気配はない。どこが切れ目なのか分からないが、弾き終えるとまた最初に戻っているらしかった。 ふっと、辺りが暗くなった。修也は顔を上げた。分厚い雲が迫ってきていた。 少女も気付いたらしく、手を止めて顔を上げた。そこでようやく修也の姿に気付いたらしく、少女は驚いたように目を丸くした。 けれど、少女はすぐに我に返ってバイオリンを大事そうにケースにしまうと、踵を返した。それから振り向いて、「すぐ降り出すよ」と言い添えた。 修也はその言葉にはっとして、少女のあとを追いかけた。 少女は隣の家に駆け込んだ。修也も急いで続く。ほとんど入れ違いのように、土砂降りになった。途端、むっと、空気が噎せるように湿気を孕む。 入り込んだ家も窓や戸が破られ、そこらを漁られたような跡があったが、とりあえず雨漏りはしなかった。 「なんで、こんなところで弾いてたの」 間が持たなくなって聞くと、少女は首をかしげた。「さあ」 「――上手いね。ずっとやってるの」 「五歳のときから」少女はぶっきらぼうに答えた。 「へえ。……さっきの、なんて曲? 聞いたことがある気はするんだけど」 少女はぼそぼそと、小声で何事か言った。 「え?」 雨の音に紛れてよく聞き取れず、聞き返すと、少女は頬を赤くした。 「昔やってた仮面ライダー、観てなかった?」早口に、少女は言った。子どもっぽくて恥ずかしいとでも思ったのだろうか。耳まで赤くなっている。 ああ、テレビでやってたのかと、修也はようやく合点した。自分が観ないような歳になっても、弟がよくテレビをつけていたので、耳に残っているのだろう。 「どのライダー?」 「キバ」 「へえ。俺が観てたころは、クウガだったなあ」 「なにそれ。知らない」 「だよなあ」修也は頷いて、何気なく雨に煙る路地を見つめた。この雨が焼け焦げたアスファルトを、少しくらいは冷やしているだろうか。 少女も黙り込んで、じっと外を見つめた。バイオリンケースを大事そうに抱きかかえている。 どうしてこの子は逃げないのかなと、修也はぼんやり考えた。 「なんで逃げないの?」 ぴったりのタイミングだったので、自分の考えが口から出たのかと思った。顔を横に向けると、少女が不思議そうに修也を見上げている。 「なんでかなあ」 修也は言いながら、リュックからカメラを取り出した。 「おじさん、報道の人?」 「違う。っていうか、オジサンはあんまりじゃない? 俺、まだ二十二だよ」 なんだ、もっと上かと思ったと、少女はフォローにならないことを言った。 「これはね」修也は説明しようとして、何も思いつかない自分に気付いた。別に学生時代に写真をやっていたとか、そういうわけですらなかった。ただ、強いて言うなら…… 「親父が写真好きだったんだ。そういえば、これ、形見になるのかな」 「ふうん」 地下室の弟の身体の下で、三台ほどが焼け残っていた。ケースの表面は焼け焦げていたのに、よく無事だったものだ。その中で一番素人にも使えそうなカメラと、フィルムを何本か持ち出した。 「さっき、君の写真、つい撮っちゃった。断りもしないで、ごめん」 「別にいいよ。いつか機会があったら、見せてね」 「現像することがあったらね」 修也は答えて、カメラを構えた。体操座りの少女の横顔を、もう一枚。暗くてだめかもしれないが、素人に光源のことなど分からない。今までに撮ったものも、どうせ適当だった。 「きみは、なんで逃げないの」 少女はちょっと黙り込んだ。言いたくないのかな、と修也が思うころ、ぽつりと「あたし、妊娠しててさ」と言った。 ぎょっとして、修也は思わず少女の腹のあたりに視線を向けた。見てしまってから何となく恥ずかしくなり、目を逸らす。まだ目立ってはいないようだが……。 「それなら、安全なところに逃げないと」 とりあえずもっともらしいことを言ってみたが、少女は答えなかった。 それにしても、若すぎるんじゃないかなと、修也は横目に少女を見ながら思った。俯く少女の横顔には、まだあどけなさが残っている。 「高校生なのに、どうしようかと思ってさ。怖くて、親にも相談できなくて。相手も同い年だし」 そうだろうなあと、修也は口に出さずに思ったが、同情も呆れも、どちらも胸の中には湧いてこなかった。常識を盾にそんな若者を咎めるような心は、もうどこにも残っていない。 「そしたら先月の空襲で、みんな死んじゃった」 修也は、先ほど見かけた高校の焼け跡を思い出した。 「これから、どうしようかなあ」 少女はそう呟いたが、修也と同じくらい、ぼんやりした調子だった。言葉の中身とは裏腹に、何も考えたくないのだと、空を見上げる瞳が言っていた。 やがて雨も小降りになり、止んだかと思えば、さっと空が晴れ上がった。 修也は立ち上がって、背筋を伸ばすような真似事をした。 悲壮感も怒りも、少しも湧き上がってこなかった。一度に色々なことがありすぎて、感覚が麻痺しているのだと、自分では思っているけれど、どちらかというと現実感がどこかに行ったままになっているのかもしれなかった。 「なあ。何かもう一曲、弾いてよ」 「いいよ。何がいい?」 少女は立ち上がりながら聞いてきた。その手はさっそくケースを開けて、バイオリンを取り出している。 今の状況にふさわしい曲どころか、クラシック音楽の名前なんて、まるで分からなかった。「何でもいいけど、明るい曲がいいなあ」 少女は少し考え込むと、やがてひとつ頷いて、修也にも耳に馴染みのある曲を弾き出した。滑らかな手つきで、穏やかな曲を奏でていく。弾きなれているようすだった。目を閉じて、修也は音を追いかけた。 優しい曲調は、進むほどに徐々に楽しげに弾むような調子になっていって、 急につっかえた。 見上げると、少女自身、何で自分の手が止まったのか、わけが分からないような顔をしていた。少女は気を取り直すように、弓を弦に当てたが、その手が震えていた。 ひゅっ、と音がして、何かと思ったら、少女が息を飲み込む音だった。ぼろぼろと、涙が零れて頬を伝う。弓を持つ手に、顎から伝った滴が落ちた。 「無理に、」 弾かなくてもいいよと言い掛けた言葉を、修也は飲み込んだ。少女はぼろぼろ泣きながら、涙を拭いもせず、背筋を伸ばして続きを弾き出した。 この曲が終わったら、と、修也は考えた。その辺に放置された車を調べてみよう。キーが刺さったままのものも、探せば一台くらい見つかるだろう。 見つかったら、地下室の食糧をトランクに積み込む。それからこの子を連れて、もう少しましなところに移ろう。せめてちゃんと病院が機能していて、ここよりも空襲の少なそうな町に。 この曲が終わったら。修也は顔を上げて、空を見た。 雨上がりの空に、虹が出ている。 |
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2010年02月10日(水) 23時50分54秒 公開 ■この作品の著作権はHALさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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