夏休み |
遠くに子どもたちの声を聞きながら、クロは目を閉じた。空はよく晴れている。今の時間、この家の周りに日射しは届かないが、それでもアスファルトから熱がじりじりと這い登ってくる。クロはなるべく涼しい所をもとめて腹ばいになり、石の塀に体温を逃がそうとしている。 近くの家の中からも、子ども達のはしゃぐ声が聞こえる。夏も半ばに入った最近、昼間に人間の子ども達がよくうろうろしているような、とクロは思った。彼女に『夏休み』という概念はない。 クロは子どもは特別に嫌いではないが、子どもというものは、とにかくうるさい。通りすがりに声を上げたり、彼女を撫で回そうとしたりする。それがうっとうしいので、昼間は塀の上に避難することにしている。ここなら、背の低い人間の子どもには、手が届かない。 急な坂の途中に建つ家である。周りは山や建物に遮られているので、陽の当たる時間は短い。もしもクロが猫ではなく高い空を飛ぶ渡りの鳥だったなら、この長崎の町を上空から見下ろして、よくもまあこれほど山に這い登るように家が群がっていることだと、呆れたかもしれない。実際には空を飛ぶ術を知らず、このあたりで生まれ育ったクロにとっては、人間の家と言うのは、建物と地面が水平でないのが当たり前の状態であり、そうでない土地があることなど想像の埒外のことなのだった。 ちりんちりんと、風鈴に似た音がして、クロは目を開けた。家の前の急な坂を、見慣れない乗り物に乗った少女が、よろよろと蛇行しながら上ってきていた。 このときクロは自転車というものを、生まれて初めて見た。好奇心と警戒心を刺激されて、一発で目が覚める。クロは金色の目をまん丸にして、じっと少女を見つめた。 「こっのっ坂、道、がああ」 潔いくらい短く髪を切った、中学生くらいの少女だった。怨念の籠もった声であった。日焼けした頬を、汗がだらだらと伝っている。私服のショートパンツから伸びる細い足が、ペダルを力の限り踏みしめている。 クロは少女ののろのろとした道行きを、思わず目で追いかけた。よくスクーターがこの坂をちんたら上っていくが、形はあれに似ているようだと、クロは考えた。しかし、スクーターに比べると、ずいぶん動きが遅く、左右にふらふらしている。 「降りて、自転車押せばいいじゃん……」 少女には連れがいた。やはり汗をかいて暑そうにしてはいるが、こちらはTシャツの襟元をぱたぱたさせながら、ごく普通に歩いている。お下げ髪が汗に濡れて、いくらか首筋に張り付いている。 「いいや、ここまで、来たらっ、絶対、自転車で、上りきるっ」 「変なところで意地っ張りだなあ……だいたい、あんたが自転車持ってこなかったら、階段の方の道、通れたのに。その方が近いじゃん」 お下げの少女は溜め息をついて、肩を竦めた。階段の方の道とは、この家の裏手の方にある近道のことだろうと、クロは思った。その道も、彼女のナワバリのうちだ。家と家の隙間を縫うような長い階段が続いて、車が通れないので、猫にとっては歩きやすい道である。 「あんたのお祖母ちゃんも、何考えて、入学祝いに自転車なんかくれたんだろうね」 「しょうがっ、ないの、っよ、めったに、長崎まで、遊びに、来ないっ、んだから」 顔を真っ赤にしてペダルを漕ぎ漕ぎ、少女は声を絞り出す。 「知らないわけね、市内の地理を。でもさ、有名じゃん、坂の町・長崎ってさ。私だって聞いたことあったよ、転校してくる前に」 お下げの少女は呆れたように、連れを眺めている。どうやら連れの荷物を持ってやっているらしいのは、情けというものだろうか。 「バーチャンはっ、福岡の、人だからっ、子どもがっ、自転車、持ってないの、って、可哀相だと、思った、らしいのっ、よっ」 「いやー、私も熊本から来たから、最初はびっくりしたけどさ。この辺、自転車乗ってる子なんてほとんどいないじゃん。うちらの学校だって、自転車通学禁止だしさ」 「だからっ、夏休み、くらい、自転車っ、使わないとっ……このおおっ」 力いっぱいペダルを漕いだ少女の、ショートパンツのポケットから、勢い余って何かが飛び出した。 「あっ」 少女たちの声が揃った。クロも思わず、それの軌跡を目で追いかけた。銀色に光る小さなものは、ちゃりん、と涼やかな音を立ててアスファルトの上に落ちると、坂があまりに急だったのが禍いして、何度か跳ね、ずいぶん下の方まで落ちていってしまった。 「……、今の、何?」 「多分、自転車の鍵……」 二人は顔を見合わせて、沈黙した。やがてショートカットの少女は自転車の上で、足だけを地面についたまま、ぐったりと俯いた。 クロは大きく口を開けて、あくびを一つ。動くものがないと、興味が逸れる。それが猫というものだ。 「……ふ、ふふふふ」 ショートカットの少女は低く籠もる笑い声を上げて、きっと顔を上げた。それがあまりに不気味な笑い方だったので、昼寝に戻ろうとしていたクロも、びくっと目を開けてしまった。 「取りに行ってやるう!」 そう言い放つと、少女は勢いよく自転車を漕いで坂を下りていってしまった。坂を上ってくるときのよたよたとはずいぶん違うスピードに、クロは目を丸くした。 「あ、ちょっと」お下げの少女が、制止するように手を伸ばすが、もう連れはとっくに鍵の近くまで下りていった後だった。 「馬鹿、自転車置いて歩いていったほうが楽なのに」 お下げの少女は首を振り振り、てくてくと坂を下りていった。 クロは少女たちへの興味を失い、涼しい場所を求めて少しだけ塀の上を移動した。自分の体温で、腹の下の塀が温くなってきたのだった。 坂の下のほうでなにやら喋っている少女たちを追い抜いて、近所の主婦がものすごい勢いで、歩いて上ってきた。両手には、あわせて軽くクロ三匹分の重さはあるんじゃないかという、ぱんぱんの買い物袋を提げている。それがさっきの少女の三倍くらいのスピードで、ざかざかと坂を上っていく。息も乱さず、汗もかいていない。毎日の買い物だから、坂を歩きなれているのだ。 「あら、クロ。今日もしっかり番猫してるのね」 主婦は通り過ぎざまに、よくわからない挨拶を寄越していった。子どもたちと違って、彼女を撫で回そうとはしてこないし、何度か塀の上に煮干を置いていってくれたこともあるので、クロも顔を上げて「にゃーん」とお愛想を返しておいた。 その鼻先を、ふわりとシャボン玉がかすめていく。クロは条件反射で前脚を伸ばしたが、届かない。そのうちに遠くで弾けて消えてしまった。 クロは振り返って、坂の下の方を見下ろした。若い母親と二人の子どもたちが、ゆっくりと歩いて上ってきていた。 小学生になるかならないかくらいの女の子が、ぷうぷう勢いよくストローを吹いているが、気負いすぎて、なかなか上手にできないでいる。母親が「貸してみて」とストローを受け取ると、こちらは力まず、じょうずにたくさんのシャボン玉を飛ばしてお手本を見せた。 三歳くらいだろうか、下の男の子が「しょぼんだまあ」と、目をきらきらさせて、風に流されるシャボン玉に手を伸ばしている。 「ショボン玉ってなにさ。シャボン玉でしょ」 生意気そうな上の女の子が、弟をからかって小突いている。母親が笑って、その手にストローとシャボン液の瓶を返した。 姉弟は夢中でシャボン玉を飛ばしあって、今日のところはこちらに注意を向けることなく歩いているようなので、クロはほっとして目を閉じた。この姉弟には、「猫だ!」「ねこだー!」と、もみくちゃにされてひどい目にあったことがあるのだった。それ以来、クロは彼女らが通り掛かるたびに少しばかり警戒している。姉弟だけでは塀の上まで手が届かないので、そう心配することもないのだが。 「あー、全部なくなっちゃった」 女の子が声を上げた。母親の袖を引っ張っている。「ねー、もうひとつ買ってえ」 「また今度ね」 「今日、今日買ってえ」 「かってえ」 姉弟に両方から裾を引っ張られて、若い母親は首を振る。 「もうお金ないもの。また今度」 「おばあちゃんにもらった花火代があるもん」諦めがつかないらしい女の子が、母親の腕にぶら下がるようにしている。 「あるもん」弟も姉の口ぶりを真似して、反対側の手に捕まった。 「残念でした、もうないの」 「ウソだあ、島原のおばちゃんからも、もらったじゃん」 「もらったじゃん」 「だめだめ、あれはお盆の花火代。シャボン玉はまた今度、そのうちね」 ゆっくりと親子連れが遠ざかっていく。花火、の単語にクロの耳がぴくりとした。あれはいかん、と、クロは顔を顰めた。くさいし、何よりうるさい。猫には迷惑千万の代物だ。 ちゃりちゃりとペダルを漕ぐ音がして、クロは再び目を開けた。 親子連れの後ろから、さっき以上によろよろと、自転車少女が上ってきたところだった。疲労困憊して、それでも意地で自転車を漕ぎ続けているショートカットと対照的に、連れのお下げの子は余力たっぷりだ。連れのTシャツの半袖を、指でつんつん引いている。 「ねえねえ、さっきの子たちが話してたお盆の花火代って、精霊流しの爆竹のこと?」 またクロは耳を動かした。爆竹、あれも嫌なものだ。近所の悪戯小僧が、面白がってクロに向かって爆竹を投げてきたことがある。 「え、違うん、じゃ、ない。お墓、参りの、花火、っしょ」 ショートカットの少女は、もはや息も絶え絶えに答えた。お下げの方は、その回答にきょとんとしている。 「お墓参りの帰りに、花火すんの?」 「え、お墓で、するでしょ、花火」 「はあ? しないよ、そんなバチ当たりなこと」 「バチ当たり、って……あいたっ」 驚いた拍子に自転車がぐらついて、ショートカットの少女は電信柱に肩をぶつけてしまった。 「ああー、もう駄目だあ、休憩!」 クロのすぐ目の前で、少女は自転車を倒して、地面に座り込んだ。騒々しいことだと、クロは耳をぴくりとさせたが、文句を言ってもはじまらないので、知らん振りをするほかなかった。 「そういえば、福岡のほうのお墓では、花火しないなあ。あれって、この辺だけなんだ」 「だって、そんなん聞いたことないよ。線香花火とかすんの?」 「いや、普通の花火だよ。あと、夜火矢とか」 クロは顔をきつく顰めた。やびや、あれはよくない。花火はただでさえうるさいが、あれが一等やかましい。 この近く、クロのナワバリのうちにも墓地があって、毎年騒々しい。それでも年に一回しかないことなら、クロもたいてい忘れてしまうが、あいにくと近所の子が花火好きで、夏場になるとしょっちゅう裏庭や近所の公園で花火を鳴らしているのだった。 「やびや……、って何?」お下げの少女は、きょとんとしている。 「え、知らない? ロケット花火みたいなやつ」 「知らないよ、なにそれ、あんたん家だけじゃないの」 「違うって、みんなするんだよ。今度、その辺の子たちに混じって見てみれば」 「いや、うちはお盆は熊本だし」 「あ、そっか。それじゃあ、その前にすませとかないとね。ほら、社会のさ、自由研究のレポート」 「ああ、そうだね。そういえば、結局どっちにする? 歴史探訪と教会めぐり」 「どっちかっていうと教会かな……グラバー園とか平和公園とか出島とか、もう行き飽きたよ」 「まあ私も、実は、小学校の修学旅行で行ったんだけどさ」 「まじで。長崎に越してくるのが分かってたのに、わざわざ来たわけ」 「いや、そのときはまだ親の転勤、分かってなかったから。思えば損したような気もするけどさ」 どうでもいいけど、どこか他所でやってくれないかなと、クロは思った。やかましくて、落ち着いて昼寝もできない。落ち着かず、姿勢を変えるためにもぞりと動いたところ、悪いことに、お下げの少女がクロに気付いてしまった。 「あれ、猫だ」 クロはぴくりと尻尾を揺らし、目を開けた。あの小さな姉弟と違って、このくらいの背の子だったら、塀の上に手が届いてしまうかもしれない。 だが幸いにも、少女はクロを興味深そうに眺めるだけで、手を伸ばそうとはしてこなかった。 「ねえ、この子、尻尾が折れてるよ。踏まれたのかな」 お下げの少女は、気の毒そうな顔をして、そう連れに話しかけた。これは生まれつきだ、余計なお世話だ、と、クロは思った。 「いや、そういう猫でしょ」 「ええ? こんなはっきり折れ曲がってるんだよ、仔猫のときに車に尻尾を轢かれたとかじゃないのかな」 「生まれたときからそういう尻尾の猫、いっぱいいるよ」 「嘘お」 嘘とは失礼な娘だ。クロは目をしっかり開けて、じろりと少女を睨んだ。別に自分で選んで折れ尻尾に生まれてきたわけではないが、母猫譲りの、折れた先からきれいにくるりと巻いた、自慢の尻尾なのだ。クロの視線に無言の圧力を感じたのか、お下げの少女はちょっとたじろいだ。 「今度、野良猫見かけたら、よく見てみなよ。半分くらいは折れ尻尾だよ」 ショートカットの少女はそう言うと、ようやく汗も引いたのか、立ち上がって自転車を起こした。「さ、帰ろう。教会めぐり、いつからはじめようか」 「それよりレポート、猫の尻尾の研究にしない? デジカメ持ってさあ」 「それじゃ理科の宿題だよ」 「あ、社会のレポートだったっけ」 少女たちの足音が遠ざかっていく。他に近くを通る人間も、今のところは目に付かなかった。 やれやれ、ようやく昼寝ができそうだ。クロはふん、と息を吐いた。が、すぐに折れた尻尾の先が、妙に熱いことに気付いて、首を曲げて尻を見る。家々の隙間から斜めに陽が差して、ちょうど毛皮にあたっていた。ああ、これでは暑くてかなわない。 クロは場所を動こうかと思ったが、丸一日陽を浴びなくても、それはそれで調子が悪い。ここは諦めて、日向ぼっこに徹することにしようか。 遠くに子どもたちの声を聞きながら、クロは目を閉じた。 |
HAL
2010年02月10日(水) 23時35分58秒 公開 ■この作品の著作権はHALさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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