なつねなつ
 細い道をゆくと大きな道にでた。
 六月末の夕暮れのこと、黒い雲に空が覆われて夜のように暗く、見ればもう街路灯に電気がついている。梅雨明けの宣言があってから数日であれば、こんなものだろうか。遠雷がし、ふいに足をとめる人がある、足をはやめる人もある。
 私は傘の準備をしているわけではないが、急ぐ気になれない。鞄もスウツも雨に濡れるのはよくないし、あとの手入れを考えれば先を急ぐのが賢明だろう。だけれど、雨に濡れたいという慾を退けることができない。疲れている、学生のころに戻りたい、さまざまな要因はたやすく分析できるが、雨にぬれたい理由はそういうことではない。
 夏が近い。
 風の臭いに夏が混じっている。葉の緑はいつのまにか、若葉の新緑から脂のついた深緑に変色している。自転車で先を急いでいる中学生の制服も、真新しいものから着崩されたものに変じている。こと、スカアトの裾丈や、スカアトのしたにジャアジを穿いているか否かというところに初々しさのパラメエタがあり、そのパラメエタはことごとく初々しさに否定的だ。まれに垢抜けない着こなしの女子中学生もあるが、相応した容貌をしてい、興味をひかない。私の望むのは、未来の器量を予想させるような顔立ちが服装やその他によって隠されている少女である。そのような少女を何うにかするのは窮極と表しても差支えないが、少女の変身は四月から五月という、何かを為すには余りに短い期間でおこる。たとえば蝉のもっとも美しいのはサナギを脱ぎかけた、色のなく透きとおった身体のあいだであるが、それは一瞬間のうちに過ぎてしまう。
 絶望的なこと計りを書き連ねたが、しかし、蝉の変態する一瞬は用意すれば観察できるように決して夢見言ではない。
 車どおりの多い道から、脇にはいり、ふたたび細い道にゆく。住宅街から住宅街へつづく農道で、まわりにあるのは青い稲穂をゆらす田んぼ計りである。やぶ蚊がとび、雨の気配に誘いだされた蛙が道のわきにある。街路灯は丘のうえにつづく畦道にそって誘蛾灯のようにならぶ。それほど高くない丘のうえには同じような一戸建が並んでい、丘の斜面は公園になっている。ほとんど林間の公園で、夏の深くなるほどに葉がしげり、昼間でも薄暗くなる。田んぼのための用水路があり、沢があり、自然と涼しいから昼間は暇な主婦や老人でにぎわう場所だ。日が暮れるとあっというまに暗くなるから、夕暮れ時はだれも近づかない。また近くの中学への近道は、ちょうどその薄暗い道をぬけて、いま私の歩いている畦道をとおるルウトである。
 遊歩道に私はたどりつき、中にはいる。丘の斜面の公園にも街路灯はあるが、茂った木のなかにかくされて、どうにも薄暗い。強い風がふき、厚った葉が擦られて泣き声のような音をたてる。近くの公衆便所から尿のしみるような臭いが漂ってき、私は春の晩りごろのことを飽きもせずに思い出すのである。
 晩春であれば、今日のような時間は特別な事情がなくとも薄暗い。近道とはいえ、そのような時間にこの道を通るもののは粗忽者か、世間知らずか、私のように肚に一物あるものぐらいであろう。大通りを横にぬけ、田んぼの畦道を歩いていると背後につづく足音がする。道連れの気配に期待は高まり、うしろを盗み見たい衝動にかられるがおさえる。あやしい仕草をみせれば、相手は違う道をえらぶだろう。私は先を急いで林間の公園にはいって、待ち伏せるために藪に身を隠した。
 しばらくして道なりに少女が歩いてきた。
 長い黒髪を編むでもなく、まとめるでもなく無造作に流している。横顔からみえた肌は青白いほどで、スカアトの裾は膝を隠すほどある。靴下にふくらはぎを包まれた足はほそく、鞄を持つ手のゆびは細ながい。ブレエザは身体の線のでるようなものではないから、仔細は分からないが、太りすぎでも痩せすぎもでなさそうだと見当はつけられた。顔を横からみた限りでいえば鼻は高すぎもせず、ほどよい大きさで、不安かなにかで頬をかすかに赤く染めていた。
 申し分はない。
 私は少女の背に声をかけると、逃げだそうとするのに愛想をつかい引きとめて、警戒心をほどくと、さりげなく肩に手をおいてやる。この年ごろは自分の価値をわきまえず、ひとから高く評価されるだけで自惚れるし、競争心もあるから、ひとよりも先んじられることをちらつかせれば、それがどのような意味をもつのか吟味もせずに受け入れるのもので、機会さえあれば引込むのは容易い。
 そばの公衆便所にさそい、個室に入って、安っぽいスパイ映画のような雰囲気を演出してやりながら鍵をかける。私は政府のもので、とでも交えながら、中学生の調査を、あなたは、など適当に自尊心をあおる言葉を重ねて、あとは楽しめばよい。
 蝉が硬い幼虫の殻をやぶり、白いひ弱な羽を伸ばすとき、その身体は例外なく柔かく、壊れやすい。美しさの本質は、指でふれてしまえば崩れてしまう、と思えるところにあり、同時に壊してしまう悦びでもある。ただ見守って、成虫に変態するのを見過ごすのは、美しいものが醜いものに変るのを認めることである。
 美しいものを美しいままに味わうこと、それが最も自然なことだというのは、疑念の余地がない。
 まだ生え揃わない木々の葉の隙間をぬって、私のほほに雨粒があたる。ポツリという小さな音を引き金に、通り雨の大きな雨粒が葉をゆらして、私をあっというまにぬらす。そばの公衆便所に駈けこんで、雨をやり過ごしてもいいが、そんな気にはなれない。
 そもそも私は雨にぬれたくあったので、身体の芯まで雨が染みこむような劇しい雨は願ってもいないことだ。雨にぬれることで、心中の奥でとぐろを巻いた熱が冷やされれば、うなされるほどに脳裏に焼きついた、その日のそのことも収まって、そのあとの面倒ごとにも幾分の分別をもってあたることができる。
 そう願ったものだが、生温かい雨には、私を慰め、冷ますような効果はなく、不快感ばかりを残していった。
tori
2010年02月10日(水) 23時17分24秒 公開
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■作者からのメッセージ
即興三語小説――第11回より

▲必須お題
「何かを為すには余りに短い」「公衆便所」「夏」

▲縛り
 なし

▲任意お題 
 なし


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